この世界や個人の肉体である私の、

苦痛や恐れや弱さや、世界の惨状の全てを、

「(心の)自分が願望した結果だった」と認めたなら、私たちは確実に絶望するでしょう。

 

つまり、この世界の中の個人の私には、なんの解決方法も、解決手段も、選択肢も希望も残されていないということがわかってしまうからです。

 

 

しかし、それこそが、

真の自己である「決断の主体」を思い出し、

聖霊を招き入れ、間違った選択を選び直すチャンスとなるのですが、

自我と同一化した私たちは、それを真底恐れています。

 

それこそが、自我の狙いです。

 

 

自我は、そこを隠しておきたいので、

絶大なる罪悪感と恐れと、解離をもって、

その「決断する主体」を隠しておきたいのです。

 

それを思い出して、

再び「決断できる主体」になったなら、

自我を選択しなくなる可能性があるからです。

 

すると、

自我は実在していないということがバレてしまいます。

 

それを隠し続けるために、

心の中を戦場として恐れさせ、

「自分は一なる心ではなく、肉体の個人である。」という自己認識に移行させ、

分離を保持し続けています。

 

しかし、

戦場となってしまった心の投影である世界と肉体は、

同じように、常に争いと苦痛と恐れに満ちていて、

「死」の恐怖から逃れることは絶対にありません。

 

そもそも、自我の思考体系自体が、「死」をゴールとした思考体系であり、

私たちは毎瞬毎瞬それを望んで選択し続けているからです。

 

 

この世界の中には、私を救うための、

天上から垂れてくる儚い一筋の蜘蛛の糸すら無いのだと分かったとき、私たちは絶望します。

 

 

しかし、一なる自我として、

「これは自分が願望したものなのだ」

と認めるとき、

絶望と同時に確かな救いの糸が見えてきます。

 

その糸はずっと常にそこにあって、

ただ見えていないだけだった。

 

その糸が見える心眼を自ら閉じ、

その糸が見えない肉眼や肉体からの知覚を信じていたからだった。

 

 

二進も三進も行かない。

進んでも地獄、戻っても地獄。

 

まさにそのような状況のときこそ、

そのように感じるときにこそ、

その向こう側に全く忘れていた別の道があるのです。

 

それは「自分が願望した」という

絶望を超えたところで、

ず〜っと開かれているのです。