しかし、まぁ、

本当に神の愛を恐れているんだな〜と自覚します。

 

でも、自分ではもうどうしようもありません。

 

そうだとわかっていても、それを掴んで離さないからです。

 

そのとき、この実在していないはずの愛の障壁は、実に絶大で、強力で、底知れなくて、絶対に揺らがないものに思えます。

 

 

そして、

 

聖霊の考え方など、絶対に受け入れたくない!

 

この恐れは、この罪だけは、絶対に手放したくない!

 

世界と肉体を何としてでも実在させておきたい!

 

と、その障壁の実在性を、断固として自分が望んでいるのです。

 

 

それは、救いに対する恐れです。

 

恐れが実在していないと完全にわかったなら、私たちはやがては、いや、すぐにでも聖霊を受け入れ、贖罪を受け入れて、神の元へと帰ってしまうことになります。

 

そうすると、世界も肉体も自我の思考体系も消えてしまうので、それでは都合が悪いのです。

 

 

しかし、「恐れている」ならすでに、

私たちは自我の声を聞き、強く信じ込んでいます。

 

死ぬぞ!消えるぞ!失うぞ!……

死ぬぞ!消えるぞ!失うぞ!……

 

ずーっとずーっとその声を聞いて、信じて、恐れたくて恐れておいて、大急ぎで何とかしようとし続けてきました。

 

「なんとかしないと幸せにはなれないぞ〜」という自我の声を信じ続けて。。。

 

しかし、なんとかしないと幸せになれないのであれば、そもそもそのままでは幸せではないのだということがわかっているということであり、

わかっていながら、騙し騙され続ける茶番劇を、自ら延々と続けているわけです。

 

 

でも、「それは本当か?」

 

「そんなことをし続けていても、絶対に幸せにはなれないんだ!」とわかったとき、

 

「別の道があるはずだ!」という聖霊を招き入れる隙間が空いてきます。

 

 

あなたは恐れを恐れてはいないのである。

あなたの真の恐怖は、救いに対する恐怖である。

(T-13.Ⅲ.1:5:11)

 

 

私たちは、恐れを欲しています。

救われたいと望みながらも、救いの方を恐れています。

 

その分裂し、矛盾した思考を見てその愚かさを自覚するなら、もう自分ではどうしようもできないので、それを聖霊に取り消してもらう。

 

私たちはそうして、救われていくのです。

 

 

 

テキスト第13章罪悪なき世界

Ⅲ.救いに対する恐れ より

 

1:5あなたは恐れを恐れてはいないのである。

 

1:8あなたはそれが覆っているもののほうをもっと恐れているがゆえに、それを隠しておくのである。

自我なくしては、もっと恐ろしい何かを自分の中に見出すことになると信じていなければ、あなたは自我の最も深い闇に覆われた隅石でさえ恐れずに正視できただろう。

あなたは実際には十字架刑を恐れているのではない。

あなたの真の恐怖は、救いに対する恐怖である。

 

2.自我の暗黒の土台の下には神についての記憶があり、あなたが真に恐れているのはこれである。

なぜなら、この記憶は即刻、あなたを自分の正しい場所に復帰させるものであり、あなたが立ち去ろうとしてきたのはまさにその場所だからである。

攻撃に対するあなたの恐れは、愛に対するあなたの恐れに比べれば無いも同然である。

神の子を殺したいという願望が自分を愛から救うと信じていなかったなら、あなたはその残忍な願望さえも正視することを厭わないだろう。

というのも、この願望こそが分離の原因となったものであり、あなたは分離が癒されることを望まなかったがゆえに、この願望を保護してきたからである。