最近は、忘却のベールが上がってきたとでもいうのでしょうか、

自我との同一化に気づいて心を思い出していくと、すぐに存在論的罪悪感に近い部分に触れるような感じがしています。

 

それは、まさにあの第二分裂の瞬間の、

「やってしまった〜!」という世界を作り出すくらいの根源的な罪・罪悪感・恐れと言えるような嫌〜なものです。

 

だから、

非常に見たくないので、

心を見るときは、

「よし、見るぞ!」と

ある意味どこかで意を決して、

見るようにしていました。

 

それでも、自我はいとも簡単に、何かで気をそらせたり、何かを起こしたりと、

見ないように見せないようにさせてきます。

 

それでも、もう一歩深く、もう一歩内側を見ることを意図して見るように心がけてはいました。

 


そして今朝も、見るぞとして、恐れを見ていきました。

 

私たちはこれを非常に嫌なものとして見ていますが、これは望んで体験している願望が叶った状態なはずです。

 

なので、この罪悪感や恐れを充分味わってみよう!として、全体に広げてみました。

 

すると、今まで自分の持病というか、

あれをしたらこうなるというような当たり前の痛みや苦痛が、移ろいながらどんどん感じられます。

 

今までも、このようにやっていたつもりのときさありましたが、

やはり、これらの苦痛や痛みの原因は外側の状況や行動ではなく、この間違った決断による罪悪感や恐れの投影だったということのさらに深い体感となりました。

 

そして、それを感じるならば、

ある時点でふっと消えていきます。

 

しかし、よく見ると、まだまだ見えない鉄板のようなもので、隠されているものがあるようにも感じます。


それによって、スルッとそれたりすり抜けたりしてしまいます。

 

しかし、それはまた、どこかのタイミングが来たら開かれていくのでしょう。