前回のブログを書いた後、
すぐに、以下のような気づきがありました。
「しかし、この、罪・罪悪感・恐れという愛の障壁も、神の子の願望を叶えるため、
決断の主体に戻らないために神の子の願望を守っているものと見たならどうでしょう?
自分の願望を叶えるものを大切に保護するのは当たり前のことです。
そして、それを嫌なものではなく
神の子にとっての大切なものとしてみるとしたらどうでしょう?
本当はそれらは実在しないのですが、
今はそれを完全に信じているので、それは自身の一部なのです。
その奥にある大事な宝物を守っているとしたなら。
自我は、決断の主体を思い出さないために守っているつもりな訳ですが、
それは、神の子の願望を叶えるために守っている訳で、
それは結局は、神の子が真の自分を思い出す唯一の宝物な訳で、
どちらにとっても神の子の大切な宝物を厳重に守っていてくれているとしたなら、
ありがとうと思えてくる訳です。
すると、なんだか、
罪、罪悪感、恐れも愛に見えてくるのです。
そうすると、そうやって受け入れたからなのか、今までになく、す〜っと抵抗なく消えていきます。
もしかして、これが聖霊の見方、
なのかはまだわかりませんが、
そうであれば、これも愛を求める声の現れの一つなのかもしれないな〜と思いました。
なぜなら、心が非常に癒されて、
感謝に満たされているからでした。」
と、このような気づきがあったのですが、
その後、なんとなく引っかかっているところがあることに気づきました。
どこかぼやっとしているのです。
それで、個人セッションのときにもりGさんにこの見方はどうなのでしょう?
と聞いてみました。
もりGさんは、
それぞれにプロセスとして色々な段階があるので、それがいいとか悪いとかはないですよ。
感謝があるのであればなんらかの癒しはあるのでしょうし。
とのことでしたが、
それから、色々とお話してくださっているうちに、
自我はそもそも実在していないので、
隠すこと(=守ること)などできないはずなのに、
隠せていると信じていることに気づきました。
決断の主体を守れている(=隠せている)としてそれに感謝しているということは、
自我は実在していないのに、
実在していると信じていて、
真理を隠すことができる。
何かを守ることができる。
と、自我の実在性を信じて、強化していることになる。
ということに気づけました。
そもそも自我は実在していないので、
隠すこともできないし、
守ることもできないのだし、
隠すものや守るものすらないのだ。と。
これこそが聖霊の見方であり、
これに気づいたことにより、
どこか曖昧だった視点や感覚が、
本当にスカッとしているのです。
私は自我を教師として、自分の都合のいいように解釈していたのだということに気づきました。
ということで、
初めは自我目線からの解釈の文章となりますが、
その後の訂正のプロセスを含めて、記事にさせていただきます。