「なぜこんなにも、学びたくないという投影を見続けているのだろうか?

 

私自身は、こんなにも一生懸命時間をかけて、努力して意欲的に学んでいるのに。」

 

そう思っていました。

 

しかし、どれだけ意欲的に学んでも、時間をかけても、その投影は一向に変わりません。

(投影を変えることが目的ではありませんが)

 

なぜなら、"この私"が学ぼうとしているからでした。

 

 

コースの言う学びとは、"この私"が学ぶことではないのです。

 

"この私"がどれだけ頑張って学ぼうとしても、学べるわけがないからです。

 

なぜなら、

自我は自我のまま決して変わることはなく、

何よりその私は実在していません。

 

実在しているのは、心の私である決断の主体です。

 

決断の主体が、聖霊を教師とすることにより、「分離は一度も起こっていなかった」ということを学んでいくのです。

 

間違った思考体系である自我の教えを信じていることを自覚して否定する。

それが、聖霊の思考体系を受け入ることになるからです。

 

このレベルでの学びがコースが提示する学びであり、

私自身がそれを実践していないからこそ、

投影として、世界の中にずーっと見続けているのです。

 

 

もちろん、そこに至るまでの形而上学の学びは必須なのですが、

どれだけそれを学んで覚えても、

実践して、決断の主体が学んでいかなければ(=赦しの実践をしなければ)

真の学びは一向に始まらない訳です。

 

ならば、自我と同一化して、

聖霊を教師としていないなら、

 

その投影として、学びたくない兄弟や状況を知覚して当たり前な訳で、

しかもそれは自分で望んで見たくて見ているのだというところから見るなら、

全くもって、それこそが私自身でした。と認めざるおえないのです。

 

しかし、学びたくないのは自我であり、

その自我と同一化しているのが、

決断の主体の心の自分なのだと自覚するなら、

それと同時に、「私とは決断の主体なのだ」と自覚して、学びなおすことができます。

 

このように、

頭でわかっているだけのところから、

形而上学を当てはめて実践していくことにより、体験的にわかってくるのが、このコースの学びのプロセスであり、

 

本当に、外側を変えようとするのではなく、

「自分の(=見方=教師)を変えるのだ」という、コースの教えをまた深く認識します。

 

そして、学びたくない兄弟を外側に実在させてどうにかしようとしているなら、

やはり、私が間違っているのでした。

 

そして、赦しを実践して、

"神と神の国を守るためだけに警戒していく"ように学んでいかないと、

決断の主体が学ぶことにはならないのだということであり、

赦しができない、難しい、赦したくないなどといつまでも言っている場合ではないな〜と強く自覚するのでした。