コースの形而上学を、

毎日、ちゃんと学んだり、実践して学んでいくなら、着実に帰還の旅路を歩んで行けると実感しています。

 

しかし、その進歩とは、ほんの少しずつに感じます。

 

なぜなら、一歩進んだように感じても、あっという間に、3歩も4歩も後退してしまうからです。

 

それは、光に近づくと闇に逃げ込んでしまう「恐れ」からなのですが、

それでもその歩みは、

ただ真っ直ぐに進む「並縫(なみぬい)」よりも、「本返し縫」のように、着実に丈夫なものとなります。

 

そしてさらには、

私たちのその歩みとは、まるで後退しているかのようにも見えます。

 

なぜなら、今まで正しいと信じて歩んできた方向とは

全く正反対の方向に向かって歩んでいるからです。

 

今までの自我にとっての当たり前が、当たり前ではなくなり、

新たに、聖霊の当たり前へとシフトしていくので、

私たちの見るもの、考えることの当たり前のすべてを疑い、今までの考えを取り消して、全く違う思考体系にシフトすることになります。

 

それは、にわかに信じがたいこともたくさんあり、恐れも強く、簡単に受け入れることもできないため、

そうすると、葛藤の中に長く留まることになります。

 

すると、二進も三進も行かなくなったり、

葛藤や恐れ、絶望感や罪悪感の中に居続け、

それに苛まれる時期もかなりあります。(人それぞれでしょうが)

 

しかし、それこそが、

自我と同一化しているなら当たり前であり、それは、忘却のベールを超えて、

心を自覚した状態であり、学びが着実に進んでいることになるのです。

 

なので、学びの進歩もカリキュラムも、

私たちには、そもそも何もわからないのだというところから、

ただ、素直に、謙虚に、

聖霊の目的に合わせて学んでいくと、いつの間にか少しすつ、階梯を登っていて、

気がつくと、視点が変わっていて、見ている景色も変わっているのです。

 

そして、コースは、

初めは、この私が形而上学を学び、闇を見て、実践していくところから始まりますが、

真の学びとは、真の自己である決断の主体が学ぶことです。

 

なので、赦しとは、

聖霊を教師として、自我の惨状と狂った思考体系を微笑んで見ることであり、

そのように、聖霊を教師として見ていくことが学びとなるので、

それを実践していかないことには、

コースを学んでいることにはならないと言えるでしょう。

 

なので、まずはそのような赦しができるようになるために、

私たちは今、『奇跡講座』三部作やJACIMサイト、

また、「ACIMウェブ勉強会」でもりGさんやさんかしゃのみなさんとともに形而上学を学び、

個人セッションを受けたりして、その土台を学んでいる訳です。

 

そして、その学びの階梯は、ワプニック博士の解説によるコースでしか見えてこないと言えるでしょう。

 

なので、私たちはこのように、

まずは、

赦しの実践ができるようになるために、

そして、

赦したいと真に望めるように、

今、学んでいるのです。