「魔術を使いながら学んでいく」

という、自我にとっては優しさに感じるこの言葉は、

この世界の中で、この私が魔術(形態レベルでの行動)によって一時的に満たされたり、楽になることなのかと思っていました。

 

しかし、心に戻って色々と見てみると、

実は、この世界への「投影」自体が魔術なのだな〜と思いました。

 

 

レッスン5を使って、奇跡の方向を向いて心に戻っても、

そもそも、その心は、「赦したくない」と決めている強い向かい風(罪、罪悪感、恐れなどの抵抗)が吹いているのですから、

その心に戻っていくことは、とても苦しく感じられるものです。

 

なので、赦しをせずに投影することにより、

楽になれる方向へと、いともたやすくまた方向転換して逃げ出してしまいます。

 

そうして、

罪、罪悪感、恐れを心の外へと投げ捨てて、世界や肉体を投影して、煌びやかだけどおどろおどろしいマジックショーを繰り広げます。

 

そしてさらに、自分とは違うターゲットを見つけて、罪をなすりつけることにより、

さらにスッキリする(偽りの平安)ことをやっているわけです。

 

この時、私は自我の声を聞いて明らかに妥協しています。

イエスや聖霊の声を拒否して、赦しをしようとは全く思っていません。

 

分離を信じたことによる罪、罪悪感、恐れを隠したまま、

 

「それで楽に無垢性を達成できる」

(JACIM小冊子 ケネス・ワプニック博士[著]加藤三代子、澤井美子さん[翻訳]「赦すけど忘れない」P.27 より)

 

という救いのない状態だと言えます。

 

 

そうしている限り、

私たちは自我を教師とし続けて、

心の決断の主体が学ぶことができないので、学びは進まず、どれだけコースを学んでいても自我は安泰のまま分離を保持し続けることができます。

 

ならば、私たちがコースを学び実践しているゴールは達成されないままとなってしまいます。

 

なので、私たちはそれを認識して、その代償を自覚して、赦しを実践することを意図していかなければ、心の決断の主体の自己が癒されていくことは難しいと言えます。

 

 

「真の原因に戻らずに解決すること」はすべて魔術なので、赦し以外はすべて魔術です。

 

赦し以外の方法で解決する(平安になる、スッキリする、癒される)なら、

それは、分離を強化し続け、

「私は二度と天国に帰ることはできない」という信念を持ち続けることができます。

 

 

なので、赦しだけが唯一の救いです。

 

そして、「私は二度と天国には帰らない」と自分で決断したんだと思い出すことが突破口です。

 

しかし、その救いとは

罪、罪悪感、恐れのあるところに隠されています。

 

それが自我の防衛です。

 

さらには、その罪、罪悪感、恐れがないと投影もできないのです。

 

 

なので、赦しによって、

罪、罪悪感、恐れが取り消されていくことにより、投影による世界の実在性が薄れていくのだと思います。

 

 

そのためにも、妥協なく、

「私は真に見たい」と、聖霊に望む、意図することは大切だな〜と思います。