ACIMウェブセミナーで2+2=5というテーマ を学んで、

「2+2=5 (聖霊の一元的思考)でみたくない!」と言う恐れがわいてきました。

 

同じじゃ嫌!勝者と敗者がいて欲しい。

私は今自我と同一化しているのだから、心に戻れるわけがないとか。。。

 

そういう時、赦しを実践しても、階梯の途中で妥協してしまい、

赦したいとは望めず、ずっと恐れの中にいることになります。

 

それは、赦しをしているつもりでいて、

選びなおさずに、分離を実在させることになります。

私はただ、葛藤し、恐れ続けたいのです。

 

 

そんな中、もりGさんとの個人セッションでした。

 

コースを生きている方のお話を聞くと、聞いているだけで、赦しの視点を思い出すことができます。

これは本当にありがたいことです。

 

そこで、気づいたのは、

2+2=5 という、今までとは別の見方で見ることは、

2+2=4の自我にとっては非常に恐ろしいものであり、多大なる犠牲を伴うものだと信じています。

 

そこから見ることは、

2+2=4の思考だと、世界や自分が消える恐れや多大なる犠牲としかみれません。

 

2+2=5 とは、

時空を超えた「今」というところの、聖霊とともに見る視点です。

 

そこから見ることが赦しと言えるのですが、それをしたくないということは、

私たちはまだ赦しとはどういうものなのかもわかっていないと言えます。

 

赦しとはこの世界での唯一の希望の光であり、救いであるのに、

多大な犠牲を伴う恐ろしいものだとしか思っていません。

 

聖霊を教師として共にみるなら、この世界を全く別の見方で見れるということです。

 

今まで信じていた、この世界の概念や信念とは全く違う見方で見ることができる。

それは、「罪在り・恐れあり」から「罪も恐れもありえない」という視点。

 

そっちが真の見方であり、

その結果として、罪悪感や恐れが癒される。

 

 

時間の概念についての、2+2=5からの見方のお話を聞いていると、

ここ(聖霊の視点)から見ていったなら、

これから一体どういう風に見えてくるのだろうと、ワクワクしてきました。

 

それが幸せな夢ですよともりGさんがおっしゃっていました。

ならば、そう見たい。学びたい。

赦しをしたい。と思えてきます。

 

そのスタートが、自己概念を心へとシフトして、

「聖霊を教師として世界を教室としていく」こと。

 

つまり、2+2=5の視点から2+2=4の世界を見ることから始まります。

 

それを受け入れるなら、

2+2=5 で見ること(赦し)は「犠牲を伴い、とても恐ろしい」という考え方自体が

ばかばかしいと笑えてくるということです。

 

ACIM MIRACLES「聖霊の教室」

<オンライン動画クラス>2+2=5~二元的思考から一元的思考へ