最近になって、

私はコースを学び、目覚めたいと(解脱)望みながらも、

「悟り」を目指していたのだなーと気付きました。

 

悟りというのは、この世界にいながら、

悟った状態で幸せにいるという状態かと思います。

 

「この世界は本当に実在していないのだと知りたい。」

という、ここまでだったのだと思います。

 

ということは、やはり、

どこまで行ってもこの世界にありながら、

幸せであればいいと思っている自分に気づきました。

 

本当に帰る気などないまま学んでいるから、実践できていないのだと。

 

 

しかし、コースの目的はそこではありません。

 

「この世界は死によって去るのではなく真理によって去るのである。」(T-3Ⅶ.6:11)

 

 

私は本当に帰りたのだろうか?

 

と問い、そこを見ていくなら、

本当に個別性、特別性が消え去る恐れ、神に対する恐れ、贖罪に対する恐れが湧いてきます。

 

もりGさんが、

「この世界は死によって去るのではなく、真理により去るのである」(T-3Ⅶ.6:11)

と言っていたとき、

私はこれまで、なんとなく他人事のように聞いていたのだと自覚し、その意味がやっとわかってきたように感じます。

 

なぜなら、コースの学びと実践から、その階梯と確実性が少し見えてきたからだと思います。

 

 

悟って生きるのではなく、本当に去るのです。

 

時空を超えて、人間を超えて、

すべてを超えて去るのです。

 

これに気づいてから、

私もまた実践が変わってきたように感じます。

 

この気づきからやっと、自己概念が、

人間から心へとシフトしていったように思います。

 

 

しかし、それでもコースは

他の一元論のスピリチュアリティーの道とは違い、優しい道です。

 

なぜなら、実相世界を経由して、

恐れを完全に取り消してから帰ります。

 

神の子が、小さな狂った考えの夢をただ見ているだけなんだと。

 

それがコースが示す、優しくて確実な道です。

 

なぜなら、

すべてはすでに終わっているし、

実は始まってもいない

この悪い夢を、

心の決断の主体の私が信じているだけだからです。