分離を信じている限り、
必ず咎める。


世界は実在すると信じている限り
必ず裁く。


自我の思考体系を選んでいるとき、

私は肉体だ
と信じている限り、

そこに違い(差異)を見るので

必ず誰かを咎めることになります。


分離を信じている限り、

批判、裁き、咎め、攻撃は
本当にやめられないのです。


そうしておきながら、

それを否定したり、
マイルドに薄めたり、

無垢なる仮面をつけて、
被害者のふりをして隠している。


そこに自覚はなくても、
無意識に必ずやっているのです。


私たちは、それ(裁き、批判、咎め、攻撃)を
やめるのではなく、

私は心だ。
決断の主体だ。

という根本の原因へと立ち返っての、
アイデンティティーのシフトを望んでいく。


信念がシフトしない限り
本当にもう無理だ。と思うのです。


そうやって、そこから別な見方で見ていく。


自我との同一化から離れていく。


その聖霊の視点(一元的思考体系)でなければ、

あなたの私は同じなのだと
みることはできないので、

裁くことはやめられない。


すべての問題をひとつだと
見ることができないので、

原因に立ち返ることもできないからです。


分離を信じたままで
それらを無理矢理否定して押さえ込んでも、

葛藤が起こり
苦しみを増すだけになります。


それは自ら望んで自我のトリックにのって、
苦しみに魅せられている
ということになります。


分離を信じている限り、
裁くことはやめられない。


この自我の混沌とした
妄想世界から脱出するためには、

絶対的に、別な見方が必要だ。

ということになるのでしょう。