奇跡の原理1

「奇跡に難しさの序列はない。」
(奇跡講座T-1.1.1)

それは、
すべてを同じと見ること。

(すべての人や出来事をすべて同じとみること。)

とも言える。


とは言われても、

肉体を持ったままで、
なかなか相手と私を
同じなどと思えるものではない。
(そもそも肉体は分離の象徴だから)


例えば、スピリチュアル的によくある

目の前の人の肉体をすり抜けて、
その向こう側に輝く
聖なるキリストの光や顔を見る。

というふうにイメージして、

葛藤のある目の前の人に対して、

あなたの肉体を超えた
その向こう側にある
キリストの光は神聖であり、

それは私の内なる愛である
キリストの光と同じだ。

だからあなたに罪はなく、私にも罪はなく
愛と光でひとつでつながっている。

と見ることとはまったく違うのだ。

(それは、単に自己概念BとCとの間の
投影であって、心に全く戻っていない。)


となると、やはり、
自分が肉体だと信じたところからの

二元的分離の視点からでは、
到底"すべてを同じ"と見ることなどできない。


それが可能となるのは、

愛を知らない私たちにとっては、

愛の方向からの"ひとつ"ではなく、

自我の方向からの"ひとつ"から

見ていくとわかりやすい。



自我を超えたところにある視点。
決断の主体=聖霊の視点。
自我の繰り広げる、問題や葛藤の惨状を
戦場の上からありのままに眺められる視点。


そこからなら、

「すべての問題の原因はひとつ」であり、

だから、「解決方法はひとつ」である。

と見ることができる視点となる。


ならば、

「難しさの序列はない。」

が適用されることになるので、


"すべての問題を同じ"とみることができる。


この、「自我(=問題=原因)はひとつ」
としてみることができれば、

聖霊の持つ一元的なものの見方へ
シフトしていることになる。


すると、そこからは自動的に
正しい心に触れることで、

神の愛の反映としてのワンネスや
平安を感じることができる。


すると、そこではもう
"すべては同じ"であり、
"すべてはひとつ"とでしか
見ることができないのである。