JACIMのビデオV#1
を学びました。

そのビデオの中の質問で、

「聖霊の声を聞くとありますが、
聖霊の声を聞き分けるには
どうしたら良いでしょう?」

とあります。


ここで
ワプニック博士がおっしゃっているのは、
問うべき焦点はそうではなくて、

「なぜ私は聖霊の言う通りにしないのか?
そうすれば、
聖霊の声をよりよく聞けるのに。」

というところです。と。


なぜ私は今も常に騒がしい自我の声を
聞き続けているのだろうか?

なぜそれをやめたいと思わないのか?



「私たちの機能は赦すことなので、
赦すことのために聖霊に助けを求めて、
赦しをしていけば、

自我の声が減って、
自ずと聖霊の声が聞けるのに。」

ということをおっしゃってます。



私たちはついつい、

聖霊の声を聞きたい」と望み、
聖霊の声を聞こう!としてしまいます。


しかし、

今、自我の声を聞いているということは、

"聖霊の声を聞かない!"

と宣言していることであり、


自我の声を聞かない。

と意図することは、

"聖霊の声を聞く"

ということになるからです。


私が、聖霊の声を聞くことの
邪魔さえしなければ
聞こえてくる声は
自ずと聖霊の声のはずなのです。



この発想パターンは
私にはまだなかなか出来ませんでした。


"自分が聞かないと決めている"ところを
有耶無耶にしたまま、

ついつい、欠乏からのたし算の思考から、

聞きたい=欲しい

という考えに至って
さらに自分で
なんとかしようとしてしまうのです。


しかし、奇跡講座(聖霊)は、

自我を選んで、

「自分で聞かないと決めている」

ところからの"引き算=手放し"

の方向の思考なので、

それ以上、私は何もしない=邪魔をしない
ということが大切なのですよね。


自我の思考自体は、

神の子の"ありのまま"の姿に
「罪」というデコレーションを
たくさん盛ってしまったのだから、

それを取り除いていくことが
コースの学びの概念といえます。


このコースは、

「愛を教えるものではなく
愛の障壁を取り去るものである。」


これがコースの基本概念なのに、
なかなかぐっと染み込んではこないのです。

今までのスピリチュアル的思考もあってか、
愛を求めてしまう傾向が残っています。

この発想の出発点は、
すでに、奇跡の方向へと、
向きを変えたところからの
発想のように思えます。

私にはまだ、そこにもう少し
動機付けが必要なようです☆