外側から動揺を知覚せずとも
 
心が自分だと意識していると
 
だんだんと、常にある心のモヤモヤからも
 
赦しの実践ができるようになってきます。
 
 
 
分離がありえたと信じたことにより
 
湧き上がる
 
罪、恐れ、罪悪感とは、
 
心のどこかに常にある
 
雲のようなどんよりと重い
 
モヤっとした不快感となって感じられます。
 
 
なにかを知覚して、
動揺するような出来事が起こらなくても
 
間違った心を選択している限り
=世界を知覚している限り(=いつも)
 
常にあるモヤモヤを感じたなら、
 
そのモヤモヤを見ることにより、
 
決断の主体を思い出すこともできます。
 
 
その場合、
 
意識はすでに内側を向いているので、
 
外側で知覚して動揺したときよりも
比較的もどりやすく、
 
それを繰り返しているとやがて、
だんだんと、
 
外側の世界の映像には
リアリティーがなくなってきて、
 
「やっぱ幻想だよね〜」
 
と思えてくるのです。
 
 
 
そして、その赦しの実践の結果として、
 
しばらくは、
モヤモヤの雲は晴れて、
心の平安を得られるので、
 
「その平安こそがなによりも変え難い」
 
と、より赦しの実践を
意図するようになってきます。
 
 
それは、やがて、
 
自我の思考体系をやめて、
「聖霊の思考体系を選択しよう!」
 
というささやかな意欲を強めることとなり、
 
"赦し"の実践への
動機付けとなってくることでしょう。