すべては決断の主体の中で
起こっていて
決断の主体の中でこの世界の夢を見ている。

それは、ノンデュアリティーや
スピリチュアルでいうところの
"観察者"の視点ともちょっと違うようだ。

見るものと見られるものの主体と客体はなく、
ひとつだ。

いわゆる"観察者"の視点のほとんどは、
多分まだ、世界を実在させているところから
見ているからではないだろうか。

決断の主体は聖霊のアイデンティティーであり、
"戦場を超えたところに居る"という
イエスの視点であり、
世界を夢だと見切れるところだ。


イエスは本気でそう言っているのです。

その夢は真実ではありません。



決断の主体の断片を垣間見て、
聖霊による訂正が行われ赦しが起こったとき、

それは一つの奇跡の体験となる。

そのとき、ここは時間も空間もなく
ただあるのみであり、
何も起きていなかったということがわかる。

私は愛であり、神の子であり、
世界のすべてはこの中にある。と。

すでに赦されていて、
すでに終わっていて、

あとはただその祭壇で神を信じて
最後の贖罪の瞬間の、
そのときを待つだけだということも。

奇跡講座のテキストに書いてあるような
それらのすべては、そこでなら受け入れられる。


しかし、決断の主体の断片を垣間見て
赦しの実践をしたところで、

瞬く間にまた自我の
時間と空間の混沌の中へと
なだれ込んでいくようだ。


しかし、それを繰り返していくことにより、
幻想は本当に心の罪悪感の投影である
結果の世界だということもわかる。

そして、それは投影を知覚して、
見たいように見ることにより
無意識に自ら望んではなれているのだが、

外側の力によって
混沌とした海の中に引き摺り込まれて
ぷくぷくと沈んでいかされているように感じる。

そして、その暗い海の中へと、飛び込む瞬間に、
聖霊が装着してくれた酸素マスクがあるのに、

それに気づかずに息もせず、
ひたすらひとりで苦しみもがいている
という夢を見ている。

そして一瞬、聖霊の声を聞いて、
酸素マスクに気づいて息をするのだが、

またすぐにマスクがあることすら忘れて、
息ができないと苦しむという滑稽な姿だ。


そんな混沌の海にも、凪のときもあり、
海面にプカプカと浮かんで安らいだり、
島のお花畑で、愛を語り、集い、
楽園を満喫したり、
大きな大陸の街で世界を相手に活躍したり
することもできる。

しかしそこは混沌の海の上にある
パラダイスなだけで、
本当の天国ではないのだ。

だから、そこで喜びや安らぎや、
愛や幸せを感じたとしても、
神の愛の代替え品でしかないということを
自覚することだ。


そして、この幻想世界から、
決断の主体へと戻るためには、
再び混沌の海の中へと
飛び込まなければならない。

でも、普通に考えてみれば、
そんな荒れ狂うような海には
望んで飛びこみたくはないので、
なかなか決断の主体へと戻ることはできないのだ。

それが自我の計画であり、
自我が望んでいることだ。

浮島や大陸や、凪の海の表面にいたままでは、
いつになっても、
この苦しみの原因には戻れない。

だから、あるとき、
もうこんなのはうんざりだ!と思えたときに
やっとまた混沌の海へと飛び込む。

なぜなら、もはやそれしか、
この妄想から抜けだす方法を知らないからだ。


その混沌とした海の、不快な感覚の中に入って、

これは私が自ら望んで作り出した
荒れ狂う海であり、

そこに自らが望んでダイブして
彷徨い出たことを認めて聖霊にゆだねれば、

やがてそんな妄想は霧のごとく消え去り
夢だったんだと気がつく。

そこは聖霊がいつも夢だと呼びかけているところ。

神の子のアイデンティティーを
一度も失わずに持ち続けているところだ。


この世界で
言うこと、すること、見るもの、聞くもの、
そのすべてはそもそも狂っている。

でも今は、
あえてそこを見ていくときかな〜と思った。


なぜなら、


からだ。







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