沖縄リトリートでは、
本当に兄弟とはひとつなんだ。

心はひとつなんだ。
自我はひとつなんだ。

そしてひとつのキリストだったんだ〜〜

ということが
今までよりもさらに腑に落ちてきた。


あなたが癒されれば私が癒される。

私が癒されるとき、
私ひとりが癒されるのではない。
(奇跡講座W-p1.137より)

赦しは、自分ひとりではできない。

誰もひとりで天国に入ることはできない。
(W-p1.134より)

兄弟がいなければ帰れない。


正直な兄弟たちとともに過ごすことで、
心の扉は正直に開かれていく。


すると、本当に大元の
自我の叫びが聞こえてくる。


「罪を見たい。」


私はこの世界に罪を見たい。
どうしても、世界に、相手に、罪を見たい。

その強い強い信念が浮き彫りにされてくる。

なんとしてでも、どんな手を使ってでも、
相手を悪者にしたいんだ。

自分に罪があるなんて、
どうしても耐えきれないから。。。


でも、世界に、相手に罪を見るということは、
結局は、自分自身に罪があるということの
揺るぎない証拠となる。

そうして、
自分自身に罪があると信じていたい。

そして、
罪があるのだと強く信じて、
分裂を維持していたいということだ。


その、世界に罪を見るという分裂の過程は、


●小さな狂った考えを抱いて、
神からの分離を望んだ。

            ⬇︎第1分裂

●私は神から分離できたと信じた。

⬇︎
●そしてそれを深刻に受け止めた。

            ⬇︎第2分裂

●自分で分離を望んだことを自分で忘れた。

⬇︎

●自分に罪があると信じこんだ。

⬇︎

●罪悪感が生まれた。

⬇︎

●罪悪感に耐えきれなくなった。

⬇︎

●その罪悪感を世界に、相手に
投影して世界をつくった。

            ⬇︎第3分裂

●この苦しみは
世界に、相手に罪があると思い込んだ。

            ⬇︎第4分裂

●私を被害者として、相手を悪者にしたい。

⬇︎

●世界が、相手が悪いのだから
どうしても謝らせたい。



こうしていちなる神の子から無数の断片への
分離の階段を、ひとつひとつ
世界へと降りてきた。

赦しは、
この階段をまた、世界を知覚したところから
ひとつひとつ反対に登っていって、
決断の主体の分離を望んだ願望まで戻って
訂正しなおすことである。


沖縄勉強会でテーマとなった
JACIMのQ&A#13
加藤さんのコメントにあったが、

この、罪悪感は癒すのであって、
罪悪感を赦すのではない。

赦しは、
罪があると信じた信念を赦していく。

ということだ。

信念とは自らが強く信じているもの。


先日のもりGさんの、
例えを借りるなら

それは、ある意味自分で自分にかけた魔法だ。

自分は神の子なので
なんでもできる力を持っているから
魔法も使える。

その魔法で、
自分は神の子ではないということを
信じる魔法をかけた。

そして、その魔法を自分でかけたことを
忘れる魔法もかけた。

だから、その魔法の呪文も、
自分が自分で魔法をかけたことも
忘れてしまうことで、

この投影されたバーチャルな世界を
よりリアルに体験しようと
私が自分で設定したのだった。


だから、その奥にある
「絶対に目覚めないぞ!」
(絶対に帰らない、神の平安は求めないなど)
という信念を明らかにしていって、

自分が自分で魔法をかけてたのだ
ということを認めていく。

でも、自分で自分にかけた魔法の呪文は、
二重にかけたそれを忘れる魔法のせいで
今はもう思い出すことができない。

だから、そのすべてを知っている
聖霊に導いてもらって、
魔法を解いてもらうしかない。


ガッツリと自我と同一化して、
世界をリアルに見ているときは、

このような形而上的学びが
とても助けになるし、

それを元に段階を踏んで、
世界に罪を見ている状態から
徐々に抜け出していくしかないんだな〜
と思う。


と、
自分の学びの復習になってしまいましたが
合っていますでしょうか?

間違ってたらごめんなさ〜い🙏


今日も幸せな1日を〜〜♪




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