奇跡講座のいうところの
「赦し」に関しての話のデカさというか、

言っている内容の規模の大きさ
(規模という表現が正しいかはわからないが
あくまで自我目線からの解釈である。)
やっと少し腑に落ちてきた。


このコースの教えている「赦し」
というのは、たただ単に、
「自分にひどいことをした人のことを
水に流して、その人と和解する」
といったことをはるかに超える次元にある
プロセスです。

そもそも人間と人間の間のことでは
ありません。

そこからはじまるように見えますけれども、
それをはるかに超えたところまで行きます。

JAICM  DVD 小冊子「思考の逆転」
加藤三代子 著 より引用


「そもそも、人間と人間との
間のことではありません。」

「そこからはじまるけれども、
そこをはるかに超えたところ。」



いわゆる、赦しとは
「この幻想世界を超えたところ」
でのものであって、

その話の規模の大きさを
少しでも想定できたとしたところから
見てみると、

自我の目線は、いかに、
目の前の人や、状況や、ものに
視野を奪われて、視点を釘付けに
されているかがわかってくる。

肉体の目とは、
どれだけ視界が狭く、
まったく見えていないものであるかが
わかってくる。


これがやっと腑に落ちてきたところで、
所詮自我の理解なので、

その真の深さや広がりや延長の規模なんて
自我の私にはまったくもって、
計り知れるものでもないのだけど、


少なくとも、

◯◯さんというその人、

◯◯といういう品物や物体、

◯◯な状況

という名のつくものにおいては、


ただの飾り同然のものであって、

そこには何の意味もないのだと見えてくる。


それは、ただ、
いちなる自我がたんたんと、

恐れと罪悪感をベースにした
この世界の中での秩序と法則にのっとって、
営まれて、映し出されている
だけのものであって、

それが、世界の舞台裏となっている。


その無声映画のような映像を、

自分が見たいように見て、勝手に解釈した、
ありもしないストーリーに

魅せられ、惑わされ、感情や思考を煽られて、
夢中になっている。


だから、
その映画や舞台上の
演者の姿や影や、ストーリーを見て、
その対象を赦していくのではなく、

その舞台裏を含めた、
それが上演されている劇場そのものを
赦しの対象として見てていくのが、
聖霊の視点である。


その「世界夢劇場」を作りだしたのは
そもそも私なので、
その劇場ごと取り消す。


繰り広げられている世界はなかった。


その、劇場自体がそもそも無くて、
想像の産物というか、

私が天国で見ている
夢の中の劇場ということになる。


それを少しでも認識できてくると、
奇跡(赦し)の規模というか、
聖霊のヴィジョンの視点の無限性と、

自我の見ている視点の狭さの対象性に
唖然としてくるのでした。




しかし、その夢の劇場が
本当に消えてなくなるのかと思うと、
正直、まだまだ残念に思う。。。

なんとも残念な私なのでした。笑


今日も幸せな1日を〜〜♪




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