本日8/15日は終戦記念日。
日本最後の戦争から72年経った日。
僕らは戦争を知らない世代です。
昔は退屈だし話長いからすごく嫌いだったけど、大人になってから祖父祖母の昔の話を聞くようになりました。
特に祖父が亡くなり、帰省した時は祖母からよく聴くようになりました。
僕の実家は名古屋です、大空襲が当時ありました。
祖母から聞いた当時の話です。
つい先日近くの区が空襲にあったので、流れからして次はうちの区だとなって、貴重品を全て親戚の家に移したそうです。
そうして、翌日燃えたのは親戚の家の方で実家は無事、貴重品は全滅。
ただでさえ大変な中、それがどれ程絶望的な事だったか。
これから生きていくのも相当困難になったでしょう。
でも、祖母はそれを笑って話してました。
今となっては、70年も経てば忘れられる苦しさもあるのか生きていく強さなのか。
そんな祖母も先月亡くなりました。
僕は幼い頃から祖母に面倒を長くみられていました。
反抗期の時めちゃくちゃして泣かせてしまって、泣きながら謝ったのをすごく覚えています。
歳も90を過ぎておりましたので老衰であったと思います。
往年は父が腰を悪くしたのをきっかけに老人ホームで過ごしていました。
1度だけ会いに行きました。
やはりというか、老人ホームにはいってから痴呆が進んだ感じはありました。
なるべくモチベーションあげようと沢山話しましたけども、会話は数分後には、1つの話に戻る繰り返し。
「いつ家に帰れるの?」
最初は
「ばあちゃんが、頑張って沢山歩けるようになったら大丈夫よ!」
とは、言ってましたが、流石に10回を超えてくると辛いものがありました。
仕事の都合上面倒が見れるわけではない僕が無責任に言えることではないな、とも思いましたし、何よりキツかったのが、施設の方が
「あまり頑張らせないでくださいね、もう沢山頑張ってきたんですから。」
と、仰ったことです。
そうか、そうかもな。
と思いました。
僕にはその歳までの色々な辛さはわからないし、その現場で沢山の人を見ている方のその言葉の重みも少し図りかねますが、考えもしなかったことなのですごく刺さりました。
僕は、前向き突き進み人間なのであまりそういう発想をもてません。
帰りたいと言ってるからこうしたら帰れるよ
、もダメな事あるんだ、と。
前提条件から違ったのかと。
色々な気持ちを抱えて帰ったのをすごく覚えてます。
それからは顔を出せていませんでした。
先日父から連絡があって、電話が向こうからかかってくる要件なぞそうそうあるわけではありませんので、予感はありました。
電話に出ると
「おふくろがなくなった。」
「通夜が〜告別式が〜。」
僕はなんとか帰る、と冷静に聞いてました。
現実感は全くありませんでした。
実際疑ってはいないけど信じられもしてなかったんだと思います。
2日後早朝に帰省して久しぶりに祖母に会いました。
涙が止まりませんでした。
すごく綺麗にしてもらって、僕の最後の記憶よりツヤのいい顔立ち、嘘だぁ、って思ってしまってからはもうダメでした。
今もこうして思い返すとダメですね。
父が一言かけてくれましたけど、その後すぐ黙って1人にしてくれました。
式が粛々と進み、頬に触れると冷たくなった祖母に目一杯の感謝を込めてお花を渡しました。
火葬場へ行き、最後のお別れ。
火葬場の方が火葬のスイッチを押されますか?
と喪主の父に問いましたが
「私にはできません。」
と、言いました。
僕は、やろうと言い出したかったですけど、そんな父を見ていたら動けませんでした。
火葬場の方が代わりに押してくださってあっさりとお別れ、次に見たときは燃え尽きた骨でした。
90超えてこんなに骨残るとは流石に丈夫なばあちゃん、80超えて骨折しても歩いてたくらいだもんね。
ここからは一区切りして、さらっと親戚の方々と過ごして終わり。
たいして孝行できなかったと思います。
紅白歌合戦に出たときに、北島三郎さんや、中村美律子さんのバックダンサーした時は喜んでくれたなぁ。
他の仕事はよくわかんないもんね。
大いなる感謝と共に、迷惑かけてごめんも沢山、でもやっぱりまとめてありがとう。
生きてきてくれて、僕に繋げてくれてありがとう。
薄いところしか知らないけど、戦争が終わったから今の僕がいるのかもしれない。
この日が来る度に僕は祖父母の事を思うのだろう。
戦いで喪われた沢山の魂に安らぎあれ。
生きている喜びを謳歌して、また僕も繋げていけますように。