もし可能であるならば、苦痛をもたらす身体を手放し、機械の体を手に入れ、デジタル脳に自分のデータを移し、永遠に生き続けることを選ぶだろうか?
デジタル脳には幸福感をもたらすシステムを残していても、苦悩をもたらすシステムはない。不安や恐れや怒りや失望、そして悲しみといったものは忘れ去られる。私たちは人格を養い、知的好奇心に従い、自然や芸術を愛で、心豊かに満ち溢れた生涯を生きていける。
感情。感情があるが故の人間。
当たり前のことだが、人は身体感覚や感情に突き動かされて生きる。
きっと他の生き物も。
身体感覚や感情がなくなれば、私たちが生きるための一切の活動は必要なくなるだろう。身体感覚や感情はすべての行動の理由とも言える。理屈や説明なんてものは後付けに過ぎない。身体感覚や感情がニーズを呼び起こし、私たちはどうしたものかと考える。今やAIという考える道具さえ作ってしまった。しかし感覚と感情は消えない。
私たちは自分の利益のため、自分が生き残るために戦い続ける。
堂々巡りだ。世界平和なんて信じない。私たちが人間である限り。
ああ、感情がなければいいのに。理屈と論理で生きていこう。
いや、そうじゃない。苦しみがなければいいのだ。私たちが欲しいのは快楽や喜びの方だけ。
生存確率を最大化するための計算はAIに任せればいい。ゆくゆくは病もすべて治療可能になる。飢えて死ぬこともない。事故も防げる。災害を避けることができる。私たちは安泰だ。苦悩から解放される。もう大丈夫だ。人類の叡智を集約させ、持ちうる最大限の生を全うしよう。
そうすれば、人が競い合ったり、人を傷つけることもなくなるだろうか?
平和ボケして人間の能力は衰えるだろうか?人間ではなくなるのだろうか?
恐怖がなければ「安心」は存在するのだろうか?
喪失がなければ「大切に思う」は同じなのだろうか?
失敗がなければ「達成感」はあるのだろうか?
死がなければ「今を大切にする」という感覚は残るのだろうか?
感情は私たちを人間たらしめている根源そのものだ。感情は生きていく上で大切なものだ。しかし、その感情に盲目的に振り回されていては、苦悩にさいなまれる一生になりかねない。今のところ、その感情をどうにかできるのはそれぞれの当事者本人でしかない。
しかしヒューマニティーはまだその能力を十分に備えているようには思えないのだ。