その先は? | パート主婦の生き方

パート主婦の生き方

浮かんでは消えて行く思索の記録

発達・発展とは:

 

発達 「成長して、以前よりも大きく(強く、または完全な段階に)なること。外界によく(鋭く)適応した状態に達すること。」(oxford languages)

 

発展 「勢いや力がのび広がること。盛んになること。次の、いっそう高く盛んな段階に移っていくこと。」(oxford languages)

 

人の認知発達について勉強しているけれど、例えばピアジェによると同化と調節のプロセス。 “これでいい”という認識が“これじゃダメ”という認識になり、調節してまた“これでいい”という認識へ。

私的にいうと、同質と異質の区別、並びに同質(複数の共通点)の抽出。(それらの解釈)それが成長につれて小さい枠(具体)から大きい枠(抽象)へと広がっていく感じ。

 

ヴィゴツキーなどの社会文化理論も踏まえて考えてみると、社会にも同化と調節のプロセスがあるように思われる。例えば、スペシャルニーズがある子供への配慮、女性の社会進出、ジェンダー、離婚への考え方などなど、“社会”の考え方は刻々と変化している。

 

ここで疑問が湧いてくる。“社会”の主体とはいったい何なのか?

認知発達理論に戻ると、認知発達によって調節されていく主体とはいったい何なのか? 主体とは人格である。認知が変われば行動や選択も変わる。人の中の人格が変わっていく。人格の形成。人は常に同じにあらず。

 

成熟した社会の主体って、より多くの個が包括されているような社会のように思われる。一人一人の認知が反映されている社会は豊かだ。”これじゃダメ”と感じている個体も、周りの影響を受けながら”これでいい”という認知に次々と変わっていく。社会の成熟につれて”これでいい”と感じている個体が増えていく。一握りの同質的賛同者達が権力を占める狭い社会に生きるのではなく、多くの異質を含んだ社会に生きることが結局認知の豊かさを生む。

 

生命は集合することで”発達の限界”を超えていくように思われる。

(この環境厳しいなー。病気に強い遺伝子取り入れとくか。ミトコンドリア取り入れとくか。てな具合に。)

 

人の認知発達は成長とともに成熟へ向かうが、その先、衰えたり衰退するだろうか?
それは思考の柔軟性にかかっているように思える。人格が良い意味で変わり続けられるか、今までの知恵を新しい環境に応用できるかどうかに思える。

エリクソンやマーシア的には思春期を超えて、”これが私”っていう自我同一性を達成したり統合したりはあるようだけど、その先はあるのか、っていう。バルテス的には人は生涯発達し続ける。

がしかし、“我”ばかりが張って認知力はいつしか衰える。。

 

社会は認知の集合体であるからして、その認知の衰えがあるとするならば、人口不足による担い手の不足かな? 脳の神経細胞が少しずつ減って、隙間が増えていくみたいな。。。

”昔ながらの製法”が消えつつあったり、もう電力や携帯やインターネットがなくては生きていけない社会になってるようだけど。環境が変わらない限り、大丈夫と思うけど。

 

人一人では一生をかけても学び尽くせない人類の英知。人類は発展し続けることができるのか。そしてその先は?