たまたま午後、休憩室で観たTV(「ザ・ 偉人伝」BS朝日)で思いがけず Kiina の歌声が聴けました.

 

『人々の心に響く詞で歌謡曲の新時代を拓いた作詞家 』として紹介された なかにし礼先生はたいへん著名な先生でおられるため、その経歴と業績はご存知の方が多いと思いますが、番組に準じて お伝えします.

 

 

 

①    満州からの引き揚げを含む戦争体験で聴いた「人生の並木路」

 

 2001年に刊行された先生の小説「赤い月」を読了された方も多いと存じますが、満州で裕福な生活を営まれていた先生のご一家が、日本の敗戦で命がけで日本への引揚船が出る葫蘆(コロ)島へ向かう電車の中、だれかがハーモニカで吹く「人生の並木路」に自分たちを重ねたことを回顧されます。

 

人生の並木路は

♪ 泣くな妹よ、

  妹よ泣くな、

  泣けば幼い ふたりして

  故郷を捨てた 甲斐がない ♪

 

という歌で、誰でも一度は耳にしたことがあると思います.

 先生は1938年生まれ、とありますから 終戦時は7才くらいでしょうか.実際に傍らに小さな妹がおられたそうで、「戦前の平和な時に作られた歌なのに今の状況と心情にぴったり」と驚かれたそうです.

 大人たちが黙ってそれを聴き入る姿に、子供心にも歌の「威力」と「予知性」を感じられたそうです.

 

②    帰国後、立教大学に進学.シャンソンの訳詞と石原裕次郎との出会い.

 

 学生時代のアルバイトとして、さまざまな訳詞をされていたことは有名な話ですが、学生結婚し、新婚旅行で訪れた下田のホテルのバーで 故石原裕次郎さんに「この中で一番格好のよいカップル」と気に入られ、作詞をして持参するように言われたことが縁で、作詞家としてデビューされます。

 たとえば、加藤登紀子さんのデビュー曲「誰も誰も知らない」もそのひとつ.そして、黛ジュンさんのデビュー曲「恋のハレルヤ」が大ヒット!

 魅惑的なこの曲は、しかし「恋心」をうたったものではなく、満州からの引き揚げで葫蘆島にたどり着いて「引揚船と空と海」を見たときの心情からのもの.

 

 ♪ 愛されたくて愛したんじゃない 燃える思いをあなたにぶつけただけなの

    → 「戦前抱いていた「日本」への思い」

 ♪ 花が散っても風のせいじゃない  沈む夕日は止められない

    → 「満州国の滅亡」

 

・・・過酷な体験をされた先生でしか描けない歌詞であったことが述べられました.

 

③    流行作詞家時代と多額の負債

 

 ヒット曲を手掛け、二度目の結婚も果たし、幸せな生活を送っている中、実兄の事業の保証人として6億円の借金を抱える身に.

 ヒット曲の印税を借金返済にあてながら、1982年「北酒場」の大ヒットにより完済へ.その後、借金のことを考えずに のびのびと詞が書けるようになったことを喜ばれます.

 

 北島三郎さんの「まつり」

 故 石原裕次郎さんの「わが人生に悔いはなし」

 石川さゆりさんの「風の盆恋歌」・・・など、大スターたちの代表曲を作りながら独自の世界を確立されました.

 小説家としても直木賞(「長崎ぶらぶら節」)はじめ数々の受賞がありました.

 

④    最後の作品は 氷川きよし「母」

 

 どの年代を切り取ってもドラマになりそうな、波乱万丈だった その人生・・・晩年はがん闘病もあり、2020年に心疾患で逝去されます・・・最後に手掛けられた作品が「母」(氷川きよし).・・・その時、TVからあの澄んだ歌声が流れ、画面いっぱいに満州の草原が現れました.

 先述の小説「赤い月」には実母への愛憎が描かれるため、この曲を作るにあたっては葛藤もあったのではないか、と邪推したのですが・・・しかし、作品にはただひたむきでまっすぐな愛だけが描かれます.

 そして、そのことが却って心を震わせました.

 

・・・稀有な人生を送られながらも、その体験を詞に読むことで、果敢に人生に挑まれた方だと思います.

 今回の番組では流れませんでしたが 北原ミレイさんの「石狩挽歌」もなかにし先生の代表作です.

 なかにし先生の歌から感じられるのは、人間の強さと人生への向き合い方.

 その生き方と作品の根底に流れる「人生讃歌」は強い力を放ち、今回も励まされたところで、休憩時間も終わりました・・・さあ 明朝まで 私も頑張ろう!