「芸能界で、三人組で売り出すのは 人気が出やすい」と聞いたことがある。

同性であれば その中のひとりに自分を見つける。親しみを感じる一人がいて、好感を抱く。異性であれば、その中のひとりに自分の「タイプ」をみつけるらしい。ひとりが推されれば 三人が売れる

・・・ということで 三人組は売り出しに使われやすいそうだ。またドラマの設定でも多いのも同様の理由で視聴者の心をつかみやすいのだろう。

 

脚本家の山田太一も三人組をよく描いた。代表作は「ふぞろいの林檎たち」。

中井貴一と時任三郎と柳沢慎吾が演じる三人の大学生。気楽そうに見えるが、それぞれの背景をもつ。そこへ、石原真理子、手塚理美、中島唱子が絡む恋愛模様・・・笑ったり、しんみりしたりさせられているうちに、いつの間にかそれぞれが家族の一員のように愛おしく思えてくるのが山田作品だと思う。「ふぞろいの林檎たち」、タイトルがいい。人気で数シリーズ作られた。

 

(・・・ここからネタバレを含みます・・・)

 

・・・どの回のラストだったか忘れたが、最後のシーンは就職面接を受けるスーツを着た三人の姿である。三人並んで待っているが、一向に名前を呼ばれず、面接室に入れない。

「あとから来た人のほうが呼ばれている・・・俺たち、このまま呼ばれないんじゃないの?」と、柳沢慎吾がイライラしながら、不安そうに言う。「そうだ、面接を受ける人も、合格する人も最初から決まっている」と時任三郎がこたえる。「でも、それでも、俺たちはここで待つんだ。呼ばれなくても、呼ばれないとわかっていても、堂々と、胸を張ってここに座っているんだ」

そのとき、視聴者は気づく。「ふぞろいの林檎」とは「個性的な林檎」ではなく、「売れない林檎」だということに。

三人が待合室で並んで 名前が呼ばれることを待って座っているシーンでドラマで終わる。テーマ曲が流れる。サザンオールスターズ「いとしのエリー」。

 

このタイトルで思い出すのは、それより5年ほど前、小山内美江子脚本のテレビドラマ「3年B組金八先生」での「腐ったミカンの方程式」という作品だ。こちらはミカン。ドラマの中で老教師が金八に言う。「箱の中に腐ったミカンがひとつあると、ほかのミカンが腐り、売り物にならない。だからそれを取り除こうとする。それが今の日本の教育だ」と。

 

腐ったミカンは捨てられ、ふぞろいの林檎も売れない。

 

同時期、山田太一はラフカディオ・ハーンを主人公にした「日本の面影」というドラマをNHKで作っている。ラフカディオ・ハーンとは小泉八雲。夏目漱石の前に東京大学で教鞭をとっていた。その目は明治の時代、近代化を目指す日本が失いつつあるものに注がれ、多くの日本人と日本文化をその著作にとどめた。

 

・・・もうひとつ、山田太一が描いた三人組が主役の作品に「真夜中の匂い」がある。「ふぞろいの林檎」は男子学生の話だったが、こちらは三人の女子大生が主役。紺野美沙子、中村久美、岩崎良美で、この三人も就職活動中にある。三人と関わり合いになるのが酒場でピアノの弾き語りをしている林隆三だ。キザでけだるくて寂しそうで・・・。言葉ではなく、目と指で女を落とすタイプ。はまり役だった。林にしかできない役だったと思う。・・・「ふぞろいの林檎」のタイトルは「いとしのエリー」で始まったが、こちらのタイトルにはヘルムート・ニューマンの写真が並んだ。まさに「真夜中の匂い」。

三人は就職活動に励みながらも、常識にとらわれない真夜中の林隆三に影響され、自分たちの生き方を問うてみたりする。

途中 林隆三にミュージカルの主役のオファーがくる。スカウトの目にとまったのだ。「チャンス!」と、周囲の女性たちもは喜び、林隆三も口では「がんばる」という。

しかし、ミュージカルには条件がついた。楽曲はすべて「演歌」だというのだ。

林は、結局その役を降りてしまう。周囲は残念がる。

「せちがらい世の中に ひとりくらい俺みたいなやつがいても いいでしょう?」というセリフがあったような気がする。

ピアノを弾いていた店も閉店するため、東京を離れる林隆三の送別会を機に三人の女子大生は就職活動に励む生活に戻っていく。紺野美沙子の声が響く「たったひとりを残して」。

東京を離れる電車の中でひとり駅弁を頬張る林隆三の姿でドラマは終わる。

 

山田太一がこれらの作品を放ったのは、1980年代前半、バブルがはじまる少し前のこと。

その中で山田が伝えたかったこと、残そうとしたものはなにだったのか。

 

Kiina が演歌を封印し、違うジャンルにはばたきたい、と伝えたとき、私はふとこのドラマを思い出した。