帆76年オフ①
いろいろなことがあるオフです。
【まずHC交代へ】
昨プレイオフでセミファイナル敗退が決まった翌日、ジャック・ラムジーが退任しました。
昨オフには1年の延長契約を結んだラムジーでしたが、このオフは契約更新を行わないことに。
オーナーのポール・スナイダー曰く、「双方合意の上」とのことで、ブレーブスの広報担当者も、解任ではないと強調しています。
この当時の報道では、ラムジーとスナイダーの関係性がよくなかったようで、ラムジーはのちに「経営陣と哲学の違いがあった」とコメント。
「私はオーナーほど満足していなかった。彼とは何度か衝突した。彼は『これだけ高い給料を選手に払っているのだから優勝すべきだ』と考えていた。彼は選手への支払い額とチームの強さを結び付けていた。しかし、私たちは守備力が十分ではなかったんだ」とも語っています。
スナイダーがチームの売却を進めており(後述)、ラムジーがその混乱に関わりたくないと考えたという話もあります。
【その3日後】
ラムジー退陣を発表した際、スナイダーは後任候補が数人いるとしていましたが、昨シーズンのAC兼チーフ・スカウトだったテイツ・ロックが新HCに就任。
2年契約です。
昨オフ、ラムジーのお陰でブレーブスに来ることができたロックは、ラムジーへの思いを次のように語っています。
「私が最も恩義を感じている人物はジャックだ。だからこそ、この決断は私の人生で最も苦しい決断だった。私が最も苦しい時期に、彼は私に再びチャンスを与えてくれた。
もし彼の理解と祝福を得ないままこの決断をしていたら、そのことは長い間、私の心に重くのしかかっていただろう」
「この挑戦を受け、すでに良いチームをさらに良いチームへと成長させたいと思っている。バッファローは働く人々の町であり、闘う人々の町。だから、このチームもとてつもなくアグレッシブなチームになるだろう」
ロックはディフェンスの指導で知られ、ブレーブスにはチームディフェンスの改善が必要だと指摘。
そして、新しいディフェンスのスタイルは、選手たちのクイックネスを土台に築いていく考えを示しています。
ちなみに、ACにはチャーリー・ハリソンが就任。
この人はクレムソン大でもロックのACを務めたことがあります。
【ドラフト(6月8日)】
1巡目第8位でエイドリアン・ダントリーを指名。
ノートルダム大出身のSF(6フィート5インチ)。
全米屈指のスコアラーで、2年生のときには平均30.4点・10.2リバウンドをマークしました。
3年生のシーズンが終わったところでのアーリー・エントリーです。
ワシントンD.C.の出身で、高校はメリーランド州のデマサ・カトリック・ハイスクールへ。
モーガン・ウッテン(高校バスケットボール史上最高のコーチのひとり。のちに殿堂入り)の指導を受けています。
ダントリーは、高校進学の時点でそれなりに知られていたようですが、ウッテンは特別高く評価していたわけではなく、中学時代にダントリーのプレイを見たのもたまたま(興味があったのはダントリーのチームメイト)。
ウッテンは、ダントリーの入学が決まった69年夏、他校のコーチに「あなたは今、コーチ人生で最高の選手を迎えたんだ」と言われ、びっくりしたという話もあります。
高校1年生のときのダントリーは、6フィート3インチ・240ポンドとぽっちゃり体型だったようですが(ウッテンがさほど評価しなかった理由かも)、オンコートでもオフコート(学業)でも真面目に努力。
ウェイト・トレーニングも自ら志願して行い(ウッテンはウェイト・トレーニングに対して懐疑的だったそう)、武器になる強さも身につけました。
73年に同校を卒業し、奨学金を受けてノートルダム大へ。
この年にリクルートされた高校生の中でも最高の選手のひとりと目されたのがダントリーでした。
地元から遠く離れた大学を選んだのは、ひとつは、オースティン・カーなど、同郷の好選手が何人か進学していたこと。
もうひとつは、「他校を悪く言わず、コーチも僕をしつこく勧誘しなかった唯一の大学だったから」だそうです。
1年生のシーズンはチームメイトにジョン・シューメイト(4年生)がおり、シューメイトに次ぐチーム2位の平均得点をマーク。
このシーズン、ノートルダム大はUCLAの88連勝をストップさせています。
2年生のシーズン終了後、一旦アーリー・エントリーを申請するんですが取り下げ、大学に戻って3年生のシーズンを過ごしました。
「プロに行っても成功できない選手はたくさんいる。でも、その現実を受け入れられない人も多い。僕は(アーリーエントリー=ハードシップ申請を取り下げる)手紙を送ったとき、泣いたんだ。本当に泣いたよ。自分自身をすごく誇らしく思えて、涙が止まらなかったんだ」
「みんなに言われるんだ。『何を証明する必要があるんだ?』『また平均30点取れなかったら評価が下がるぞ』って。でも、プロのスカウトは僕が何ができるか知っている。お金はきっと来年でも手に入ると思うよ」
(※この時点でエントリーしてもドラフト1巡目上位での指名を予想されていたようです。
また、3年生のシーズン、得点アベレージは平均28.6点・10.1リバウンドにダウンしますが、それによって評価が下がったかは不明)
「もちろん膝を壊してすべてが終わる可能性もある。でも、それは受け入れなければならないリスクだ。コートで手を抜かなければ、大きなケガはしないと思っている。多くの選手は100%でプレーしていないときにケガをするものだよ」
NBA入りを1年遅らせたことで、このオフはモントリオール・オリンピックにも出場。
全6試合でチームトップの平均19.3点を稼ぎ、金メダル獲得に貢献しています。
(1,2年生のときは、夏期講習への参加など学業を理由に、他国との親善試合などへの参加を辞退していました)
【移転騒動①】
76年6月15日、スナイダーがチームの売却とそれに伴う移転計画を発表。
地元紙でも報道されました(『バッファローはホッケーの街になる』といったものだったとか)。
きっかけはアリーナ問題。
ブレーブスがバッファロー・メモリアル・オーディトリアムを自由に利用できない環境にあることに対し、NBAがブレーブスに改善を要求。
“5年以内に解決しろ”と指示したんですね。
しかし、具体的な解決策はなく(移転か新アリーナ建設の二択しかない状況だったとのこと)、スナイダーは“6月12日までにシーズンチケットを5000枚売ることができなければチームを売却する”と警告。
そして、2500枚ほどしか売れなかったため、アービング・コーワンというホテルのオーナーに売却することで基本合意しました。
コーワンは夫婦でフロリダ州ハリウッドでホテルを経営しており、このエリアにはハリウッド・スポータトリアムという75年に改修されたばかりのアリーナもあります。
(収容人数は1万5000人ほど。バッファロー・メモリアル・オーディトリアムより少し少ないです)
スナイダーがこの計画を発表した段階で、8000人を超えるシーズンチケット購入希望者がいたという話もあり、このまま移転するかに見えました、が…