ボブ・クージー
6度の優勝に13度のオールスター出場、12度のオールNBAチームに1度のMVP(57年)、8度のアシスト王と華々しいキャリアを過ごしたPG。その独創的なボール・ハンドリングやパスのスキルなどから、奇術師ハリー・フーディニ―の名を使って「フーディニ―・オブ・ハードウッド」と呼ばれた。71年に発表された偉大なる25人、81年の偉大なる35人、96年の偉大なる50人のすべてに選出された4人のうちのひとりでもある。
フランス出身。高校時代はチームから2度カットされるなど苦労を経験。おまけに右手を骨折するアクシデントにも見舞われるが、このとき左手でプレイしたことがスキルアップに繋がったようで、本人も「幸運な出来事」と回想している。
46年にホーリー・クロス大に進むが、ここでアルビン・ジュリアンHCと衝突。当時、バスケットというのはゆっくりとしたテンポで進み、着実なショットを狙うのが一般的であり、クージーの魅せるドリブルやパス、ストリート・バスケットのようなアップテンポなスタイルは「目立ちたがり屋」と解釈され、出場時間も制限されてしまう。
ただ、ファンはクージーのプレイを認めていたようで、ある試合の終盤、負けていたホーリー・クロス大のファンが「クージーを出せ!」とコール。コートに立ったクージーはブザービーターを含む11点を稼ぎ、チームは逆転勝利。50年のドラフトの際も、地元ボストンのファンはクージーの指名を望んでいたという。
しかし、ドラフトでセルティックスが指名したのはチャーリー・シェアというCだった。GMレッド・アワーバックのお気に入りだったようで、「私は田舎ものが欲しいのではなく勝ちたいんだ」とコメント。
地元紙はこれを批判したが、「華やかだが勝利には効果的ではない」と懐疑的な見方もまだ少なくなかったようである。
結果として1巡目第3位でブラックホークスに指名されるが、当時自動車学校に通っていたクージーは地元を離れることを拒否。そして、自動車学校を諦める代わりに1万ドルをチームに要求するが破綻。そしてシカゴ・スタッグスに拾われた。
ところがスタッグスはすぐ消滅してしまい、クージーはディスパーサル・ドラフトでセルティックス入りが決定。このとき、マックス・ザスロフスキー(前シーズンのスタッグスの得点王)、アンディ・フィリップも指名対象であり、セルティックスのウォルター・ブラウン・オーナーはクージーに決まったときには床に崩れ落ちたという。が、クージーはすぐに実力を発揮する。
エド・マカウリーらと共にチームを牽引し、いきなりプレイオフ進出に貢献。2年目にはビル・シャーマンが加わって戦力はアップ。クージー自身はオールNBA1stチームに選出された。3年目には平均7.7アシストをマークしてアシスト王となり、そのクージーを中心としたテンポの速いバスケットを駆使したセルティックスは46勝をあげた。プレイオフでは、ナショナルズとのシリーズでクージーが大活躍。足を怪我しながらも4Qまでに25点をあげ、1stオーバータイムでは最後のシュートをヒット。2ndオーバータイムではチームの全4得点をあげ、3rdオーバータイムで8点を加え、4thオーバータイムでは勝負を決める最後の大事なショットを決め、大激戦を制す立役者となった(次のラウンドでニックスに敗れる)。この試合のクージーは50点をあげ、FTも32本中30本成功させている。
続く3シーズンで、クージーはリーグ最高のPGとしての地位を確立。すべてのシーズンでアシスト王に輝き、それ以外にも平均20点・7リバウンドをマークするなど、オールラウンドに活躍した。54年にはオールスターMVPも受賞している。また、この時期にはフランク・ラムジー、ジム・ロスカトフといた強力なFも加入。特にロスカトフはボブ・ブランナムと共にクージーのボディガード的な存在となった。クージーのスタイルは、ビッグマンや堅実なセットシューターが主導権を握っていた当時のNBAでは異質で、ファンはそれに熱狂した。しかし、チームはプレイオフで勝てず、この3シーズンともドルフ・シェイズ率いるナショナルズに敗れてしまう。
56年、GMのアワーバックは打開策としてドラフトでビル・ラッセルを獲得。また、トム・ハインゾーン、KC・ジョーンズも併せて獲得した。この人事が当たったセルティックスは44勝をあげ、クージーはMVPを受賞。プレイオフではファイナルでボブ・ペティットら率いるホークスを破り、チャンピオンとなった。翌57~58シーズンはラッセルの故障もあって連覇こそ逃すが、ファイナルには進出。翌58~59シーズンは再びチャンピオンとなった。このシーズンのクージーは1試合28アシスト、レイカーズとのファイナルではシリーズで51アシストという記録も樹立。後者は、4試合で終わったシリーズにおいては今も最多記録である。
59~60シーズン、8度目のアシスト王になり、セルティックスもまた優勝。32歳となった60~61シーズンはアシスト王こそ逃すが、チームは依然として強く、チャンピオン・リングをもうひとつ増やした。
61~62シーズン、初めてスタッツに衰えが表れるが、それでもセルティックスが強さを保つには充分で、また優勝。この年はチェンバレンのウォリアーズ、ジェリー・ウェスト&エルジン・ベイラーのレイカーズを下しての優勝だった。そして62~63シーズンを最後に現役を引退。この年も優勝しており、クージーは、レイカーズとのファイナルでは足を負傷しながらもプレイ。引退セレモニーではケネディ大統領がコメントを寄せたという。
引退後はボストン・カレッジなどで指揮を執るが、そのレベルに飽き、69~70シーズンにロイヤルズのHCとしてNBAに復帰。これには「オスカー・ロバートソンの指導をして欲しい」というチームの意図があったようで、クージーはのちに「お金のために引き受けた。断れないオファーだった」と回想している。因みにこのシーズンはチケットの売り上げを伸ばすため、41歳にして、7試合だけだが現役に復帰している。往年のプレイには程遠かったようだが、チケットの売り上げは77%も跳ね上がったという。
コーチとしてのクージーは冴えず、まず肝心のロバートソンと上手くいかず、ロバートソンは70年オフにバックスへトレードで放出。チームも勝ち星は増えず、73~74シーズン序盤に職を退いた。その後はサッカー・リーグのコミッショナーを務めたこともあるとか。
最初の引退時、オーナーのウォルター・ブラウンは「クージーがいなければうちのチームはここにいなかった。彼がもしニューヨークでプレイしていたら、ベーブ・ルース以来の大物になっていただろう」と最大級の賛辞を送っている。背番号14はもちろん永久欠番で、71年には殿堂入り。
人種差別に批判的で、クージーと同期入団のチャック・クーパー(史上初の黒人選手)がホテルへの宿泊を拒否された際、クージーはクーパーと共に夜行列車に乗ることを選んだ。のちに「クーパーが、白人のために清潔感を保つという理由でトイレや風呂を別にされていたのは、生涯で最も恥ずべき経験だった」としている。
チャック・クーパー
NBA史上初の黒人選手となった3人のうちのひとり。厳密には、史上初めてドラフト指名された黒人選手がクーパーであり、初めてNBAチームと契約を結んだのがナット・クリフトンであり、初めてプレイしたのがアール・ロイドとなる(因みにクーパーがその1日後、クリフトンが4日後にデビューしている)。
そんなわけで50年のドラフト2巡目でセルティックス入りしたクーパーは、53~54シーズンまで在籍。54年にはホークス、55~56シーズン途中にはピストンズへ移籍した。
6フィート5インチのF。当時は記録が残っていないが、スティールやブロックを多く稼いでいたと考えられているとか。
ステュ・インマン
サンノゼ州立大出身。50年のドラフト6巡目でシカゴ・スタッグスに指名されるがプロでプレイはせず、高校でコーチとしてのキャリアをスタートさせた。
そして69年、新たに創設されるブレイザーズのチーフ・スカウトに就任。ブレイザーズはドラフトでジェフ・ペトリー、ビル・ウォルトンらの指名に成功し、それらが実って77年には優勝している。
81年にはGMに就任。85年に職を退くが、在任中にはクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターらを指名し、80年代後半~90年代前半にかけてウェスト有数の強豪となるチームの土台を創った(優勝はできなかった)。
84年のドラフトで、1巡目第2位でサム・ブゥイを指名したGMとしても有名。ただ、前年のドラフトでドレクスラーを指名していたり、続く3位指名がよりによってマイケル・ジョーダンだったり、と不運だった面もある。ブレイザーズ以外にバックスやヒートでもフロントに入っていたことがある。
71~72シーズンにはローランド・トッドの後任として暫定HCを務めたこともある。
ビル・シャーマン
第二次世界大戦のときには44~46年まで米海軍に参加。終戦後、サザン・カリフォルニア大でプレイし、50年のドラフト2巡目でキャピタルズに入団。1シーズン過ごした後にチームが消滅し、セルティックスへ加入した。
シャーマンは6フィート1インチの優秀なシューターで、クージーと強力なバックコートを形成。FT成功率で7度もリーグ首位に立ったほか、FGも高確率であった。プレイオフでのFT56本連続成功という記録も保持している。オールスター、オールNBAチームはもちろん常連。61年に現役を引退した。
引退後はコーチとして活躍。70~71シーズンにABAのスターズを優勝に導き、自身はコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞。翌71~72シーズンはレイカーズのHCとなり、リーグ記録となる33連勝を含む69勝13敗をマークして優勝。このときもコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。ABAとNBAの両方で優勝を経験し、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのはシャーマンとアレックス・ハンナムだけである。
76年には選手として、04年にはコーチとして殿堂入り。この偉業を達成したのは僅か3人目であった。野球も上手かったようで、50~55年までマイナー・リーグのブルックリン・ドジャースに所属していたこともある。
