トレード騒動でADのことがちょっと嫌いになりました。笑

 

 

リック・バリー

 

アンダーハンドで放るFTが有名なスコアラー。65年のドラフト1巡目第2位でウォリアーズ入り。バリー加入で前年度から18勝も上積みしたウォリアーズはプレイオフに進み、バリーは新人王を受賞した。2年目には圧倒的な得点力で得点王に輝き、オールスターでも38点をあげてチェンバレン、ラッセル、オスカー・ロバートソンらがいたイーストを撃破している。このシーズンはチームもファイナルまで進み、シクサーズに敗れるが、バリーのシリーズ平均40.8点というのは記録である。

しかし、オーナーのフランク・ミューリンが充分なサラリーをくれないと感じたバリーは、なんと多額の契約金を用意してくれたABAのオークランド・オークスへの移籍を決意。これは裁判沙汰になり、バリーは、67~68シーズンを全休することを条件にオークスへの移籍が認められた。迎えた68~69シーズン、バリーは期待通りの活躍を披露。膝の怪我でシーズンの半分以上を欠場するが、プレイした35試合は31勝4敗と大幅に勝ち越した。バリーは個性が強く感情的で、味方であろうと遠慮無くモノを言う性格から、NBAでは批判されることがあったが、ABAではそうではなかった。バリーも居心地が良かったようで、「年に100万ドルくれたらNBAには戻らないだろう」とコメントしていたとか。ただ、「子供を南部訛りで育てたくない」ともコメント。72年にはネッツへ移籍した。

このときは格上と見られたカーネルズとスクワイアーズに勝ち、ファイナルに進んだ(ペイサーズに敗れる)。

72~73シーズンからは再びNBA(ウォリアーズ)でプレイ。74~75シーズンにはチームにチャンピオンシップをもたらした。このシーズンのウォリアーズは「バリーとロールプレイヤーたち」のようなロスターでシーズン前の評判は高くなかったのだが、48勝でディビジョン首位を奪取。バリー自身も得点・スティール・FT成功率でリーグ首位となった。プレイオフではソニックス、ブルズを破り、ファイナルでは60勝をあげたブレッツをスウィープで撃破。当時のブレッツは優勝候補とされるような強豪で、これはリーグ史に残るアップセットのひとつとして記憶されている。因みにファイナルMVPはもちろんバリーであった。

その後、78年にジョン・ルーカスとのトレードでロケッツへ移籍。80年に現役を引退した。

史上唯一、NCAA、ABA、NBAのそれぞれで得点王に輝いた選手。ディフェンスも良く、コート・ビジョンも優れ、アシストも多かった。NBAに復帰したくらいから膝に問題があったようで、アウトサイドでのプレイが増えたというが、シュートエリアも広く、キャリア最後の79~80シーズンには、導入されたばかりの3Pも武器としていた(成功本数リーグ2位)。

引退後は他リーグでのコーチや解説者として活躍。ジョン、ブレント、ドリュー、スクーターという4人の息子がいるのは有名か。ブレント・バリーがスパーズで優勝したことで、史上2組目の優勝経験のある親子となった。

 

ディック・バンアースディル

 

後述するトム・バンアースディルの双子の兄弟。トムと同じくインディアナ大出身で、トムと同じ6フィート5インチのスウィングマン。65年のドラフト2巡目第2位でニックス入りし、3シーズンまずまずの成績を残した。

68年オフにエクスパンション・ドラフトでサンズに移籍し、以後、引退するまで9シーズンに渡ってプレイ。トムとチームメイトとなった76~77シーズンを最後に現役生活を終えた。

シュートが上手く、得点力のある選手。コニー・ホーキンス、チャーリー・スコット、ニール・ウォークらと共に初期のサンズを支えたことで知られている。引退後はそのままサンズのGMを務めたことがあるほか、86~87シーズンにはジョン・マックロードの後任として36試合だけ指揮を執ったこともある。

 

トム・バンアースディル

 

こちらは65年のドラフト2巡目第11位でピストンズ入り。まずまずの成績を残していたが、3年目の途中にハッピー・ヘアーストン、ジム・フォックスと交換で、ジョン・トレスバントとともにロイヤルズへ移籍した。これはアースディルにとって大成功の動きで、スコアラーとして開花。20点前後アベレージを叩き出し、オールスターにも選出された。

72~73シーズン途中にはシクサーズへトレードされ、74~75シーズン途中には今度はホークスへ移籍するが、どこのチームでも2桁得点を稼ぐくらいの成績は残していた。76~77シーズンに控えとしてサンズでプレイしたのを最後に引退。

シュートが上手く、特にFTは高確率だった。キャリアを通じて929試合もプレイしたにもかかわらず一度もプレイオフ進出経験がなく、これはNBA記録。また、プレイオフ経験がない選手の中では史上最も得点を稼いだスコアラーでもある。

 

ボブ・ワイス

 

ペン州立大出身のPGで、65年のドラフトでは3巡目第22位でシクサーズに入団した。ハル・グリアー、チェット・ウォーカーら蒼々たる面々の中に入っては出番がなかったが、67年には一応優勝を経験。セルティックスの連覇を8で止めたチームの一員となった。

そのオフ、エクスパンション・ドラフトでソニックスへ移籍。控えながら全82試合に出場し、平均9.8点・4.2アシストをマークした。しかし直後のオフには再びエクスパンション・ドラフトで今度はバックスへ移籍。68~69シーズンが始まると、今度は更にブルズ(これまた創設3年目)へ移籍した。

新興チームをたらい回しにされたワイスだったが、このブルズ時代が恐らくプライムタイムで、4シーズン連続で全82試合に出場するなどボブ・ラブ、ジェリー・スローンらと共に若いチームを支えた。

74年オフにブレーブスへトレードされ、76~77シーズンをブレッツで過ごして引退。引退直後はブレーブスでACとなり、80年にはまたしてもエクスパンション・チームのマブスのACに就任。ここで6シーズンを過ごし、86年オフ、スパーズで初めてHCとなった。このときは2年目にプレイオフ進出を果たしている(但し、31勝51敗)。

89~90シーズンにはこれまたエクスパンション・チームのマジックのACとなり、90年オフにはホークスのHCに就任した。ここでは3シーズン指揮を執り、うち2シーズンはプレイオフに進んだ(プレイオフに進めなかったシーズンは、途中でドミニク・ウィルキンスが故障で離脱した)。

93~94シーズンにクリッパーズのHCを務めた後は、95年からソニックスのコーチング・スタッフ入り。ジョージ・カール、ポール・ウェストファル、ネイト・マクミランをサポートした。05年にマクミランが退くと、チームはワイスをHCとするが上手くいかず、3年契約を結んだにもかかわらず、年明けには解雇されてしまった。

HCとしては結果を残せていないが、その後も中国リーグでのHCなども挟みつつ、NBAでACを続けている。史上唯一、クリッパーズの3つすべてのフランチャイズに関わった人物でもある。