円谷劇場が一旦?終わってしまって寂しいです。

 

 

ジョン・ドリュー

 

6フィート6インチのスウィングマン。ガードナー・ウェッブ大出身で、74年のドラフト1巡目第7位でホークス入り。いきなり19点・10リバウンドに迫るアベレージを残し、オフェンス・リバウンドではリーグ首位に立つなどオール・ルーキー・チームに選出された。その後もコンスタントに平均20点ほどを毎シーズン稼ぎ、76年と80年にはオールスターにも出場している。

82年にはドミニク・ウィルキンスの交渉権と交換でジャズへ移籍するが、シーズン前半のうちにコカインの使用が発覚してリハビリに専念。シーズンの半分近くを欠場した。翌年は無事に復帰し、カムバック・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞するのだが、85年にドラッグの使用が再度発覚。これによってドリューはリーグから永久追放されてしまった。これは当時リーグ史上初めてのことであった。

 

フィル・スミス

 

サンフランシスコ大出身のG。同大が73・74年とNCAAファイナルまで進んだときの主力(ともにUCLAに敗れた)。在学中の73年にABAのスクワイアーズから1巡目第1位で指名されたが、大学に残ることを選択。背番号20は同大の欠番である。

74年のドラフト2巡目第11位でウォリアーズ入り。ルーキー・シーズン、個人成績は大したことはなかったが、チャンピオン・リングを獲得した。2年目には先発になり、キャリアハイの平均20点をマーク。オールスターにも初出場し、オールNBA2ndチームとオール・ディフェンシブ・セカンド・チームにも選出された。80年にはクリッパーズへ移籍し、81~82シーズン途中にはソニックスへトレード。トレード後は出場機会が激減し、83年に現役を引退した。79~80シーズンにアキレス腱を負傷したのがキャリアを縮めた原因のようである。

 

ジョージ・ガービン

 

「アイスマン」の愛称で親しまれたSGで、リーグ史に残るスコアラーのひとり。72年にABAのスクワイアーズでデビュー。トライアウトで25本中22本の3Pを決めたという逸話がある。翌73~74シーズン途中にスパーズへ移籍。74年にはドラフト3巡目でサンズから指名されるが、そのままスパーズに残ることを選択した。

ABAが消滅し、NBAに移ってからもスパーズのエースとして活躍。78年にはナゲッツのデビッド・トンプソンを破って初めて得点王の座を奪取。シーズン最終戦ではトンプソンが73点をあげたが、ガービンも63点をあげ、史上稀に見る僅差で得点王となった(2Qだけで33点は記録)。その後も79・80・82年と得点王になっている。85~86シーズンをブルズで過ごした後はイタリアへ。40歳のときにはスペインでもプレイした。もちろんかつてのクイックネスはなかったが、それでも得点に対する感覚は衰えていなかったという。

ガービンの代名詞といえば「フィンガーロール」で、FTラインからでも決めることが出来たとか。オフェンスに目がいく選手だが、Gとしてブロックも多かった。背番号44はスパーズの永久欠番で、もちろん殿堂入りもしている。ゲーリー・ペイトンは子供の頃、ガービンのファンだったようで、その理由を「生意気だから」としていた。

 

モーゼス・マローン

 

ABAとNBAで計21シーズンをプレイしたCで、ABAでのプレイ経験がある最後のNBA選手。高校卒業後、74年のABAドラフトを経てユタ・スターズに入団した(本来はメリーランド大に進む予定だった)。

1年目をスターズ、2年目をスピリッツ・オブ・セントルイスでプレイ。76年にABAが消滅した際、ディスパーサル・ドラフトでブレイザーズから指名されるが、開幕直前に78年のドラフト指名権とのトレードでブレーブスへ移籍。しかし、僅か2試合をプレイしただけで、今度はドラフト1巡目指名権2つと交換でロケッツへトレードされてしまった。しかし、ここでようやく自分の居場所を見つける。

ロケッツのHCはスターズ時代のトム・ニッサルクで、マローンは攻守に活躍。リバウンドでリーグ3位、ブロックで7位にランクインし、オフェンス・リバウンド総数ではリーグ1位となった(ポール・サイラスの保持していた記録を上回った)。チームもカンファレンス・ファイナルまで進出。セミファイナルではオフェンス・リバウンド15本という記録を作っている。

翌77~78シーズンは疲労骨折で最後の23試合を欠場。ただ、リバウンドのアベレージはリーグ2位であった。復帰した78~79シーズンは23歳の若さでシーズンMVPに輝く大活躍。オールNBA1stチーム、オール・ディフェンシブ2ndチームに選出され、自身の持っていたオフェンス・リバウンドの記録も更新して見せた。2月のジャズ戦ではキャリアハイの37リバウンドを取っている。4年目の翌シーズンもチーム史上3番目の記録となる1試合51点をマークするなど、この頃の活躍は素晴らしかったが、残念ながらチームは奮わず、プレイオフに出てもあっさり敗れていた。

しかし続く80~81シーズン、40勝42敗という成績にもかかわらず、なんとファイナルまで進出。結果的には負けてしまうが、リーグ最高勝率を誇ったセルティックス相手に2勝した。81~82シーズンには、マローンは自身2度目のシーズンMVPを受賞。ただ、チームとしてはまたしても傑出した成績を残せず、プレイオフでは1stラウンドでソニックスに敗れた。

82年オフ、シクサーズへの移籍が成立。シクサーズはコールドウェル・ジョーンズと83年のドラフト1巡目指名権を諦めねばならなかったが、ジュリアス・アービング、ボビー・ジョーンズ、モーリス・チークスといった布陣にマローンを加えたのは大成功でチームは優勝、マローンはMVPに輝いた。この年のシクサーズは特にプレイオフで強く、負けたのは僅かに1回(相手はバックス)。プレイオフが始まるときにマローンが、優勝するのに必要な最低限の試合数を指して「フォー、フォー、フォー」とコメントしたのは有名である(当時は3ラウンドしかなかった)。

しかし、シクサーズはこれがピークだった。83~84シーズン、マローンは4年連続5度目のリバウンド王となるが(5度以上リバウンド王になった初の選手)、1stラウンドで格下のネッツ相手に敗戦。翌シーズンもカンファレンス・ファイナルでセルティックス、85~86シーズンはセミファイナルでバックスに敗れた。このシーズンのマローンは6度目のリバウンド王になったが、3月終盤のバックス戦で右目の周りを骨折し、プレイオフでプレイできなかった。

86年オフ、ジェフ・ルーランド、クリフ・ロビンソンと交換でテリー・キャトリッジ、2つのドラフト指名権とともにブレッツへ移籍。ブレッツでもこれまで通りの活躍を見せ、87年4月にはチーム史上3人目となる50点をマーク。翌87~88シーズンも、出場した79試合中55試合でダブルダブルを達成している。ただ、チームの成績は思うように伸びず、どちらのシーズンも1stラウンド敗退に終わった。

88年オフにはドミニク・ウィルキンス率いるホークスと契約。同オフにはレジー・セウスもホークスに加入しており、戦力アップに期待がかかった。しかし、ケビン・ウィリスが怪我でシーズン全休となってしまうなどうまくいかず、結果はプレイオフ1stラウンド敗退。翌89~90シーズンにはプレイオフにも進めなかった。

HCがボブ・ワイスになった90~91シーズンは、開幕から1ヶ月ほどでベンチスタートへシフト。歴代のFT成功数で歴代1位となったり(のちに抜かれる)、1046試合連続ファウルアウトなしという記録を作ったり(その後も継続)、殿堂入りクラスのベテランならではの偉業が達成されたが、さすがに衰えは隠せなかった。

シーズンが終わると今度はバックスと契約。ここでは再びスターターとして起用され、個人成績もアップさせるが、チームは弱く、地区最下位に低迷。翌シーズンは背中の故障で71試合を休み、93年オフには古巣シクサーズへ戻った。

シクサーズはルーキーCのショーン・ブラッドリーのサポートを必要としており、それにマローンが抜擢。ACのジェフ・ルーランドとブラッドリーの面倒を見たが、ブラッドリーは膝の故障で2月半ばにシーズンを終えてしまった。94年オフにはスパーズと契約。しかし、11月12月しかプレイはしなかった。キャリア最後のシュートはバックコート側から放った3Pだったという。

キャリアの終盤はゴーグルを着けてプレイ。まさに息の長いキャリアを送った選手で、リック・バリー、ジョン・バリーの親子それぞれとチームメイトだった。移籍も多く、シーズンMVPを受賞した翌シーズンにトレードされたのは史上唯一。異なる3チームで平均20点・10リバウンド以上を記録した3人のうちのひとりでもある(あと2人はチェンバレンとシャック)。人望があり、チャールズ・バークリーが慕っていたというのは有名か。ブレッツ時代にプレイスタイルの違いで苦しんでいたマグジー・ボーグスの相談役になっていたのもマローンだそうである。

背番号2はシクサーズの永久欠番。2015年に逝去しており、欠番となったのは意外にも2019年になってからであった。

 

スコット・ウェドマン

 

74年のドラフト1巡目第6位でキングス入りしたシューター。キングス時代は2度オールスターに選ばれており、ウェイトルームでの姿から「インビジブル・ハルク」と名付けられた。ピーク時には平均19点を稼いでおり、81年にキングスが(40勝42敗だったにもかかわらず)カンファレンス・ファイナルに進んだ際の主力でもあった。

しかし、81年オフにドラフト1巡目指名権と交換でキャブスへ移籍。当時のキャブスは壊滅状態で、82~83シーズンの途中には今度はセルティックスへ放出された。キャリアで初めて強豪に入ったウェドマンは、控えではあったが重要なプレイヤーとなり、84年と86年の優勝に貢献した。85年のファイナルでは、結果的にシリーズに負けてしまったが、ゲーム1で3P4本を含む11本すべてのシュートを決めるパフォーマンスを見せた。

87年オフにソニックスにトレードされるが、ここで引退を宣言。ソニックスではプレイしなかった。78~79シーズン中に交通事故を起こしたことがある。現役時代はベジタリアンだったとか。

 

トム・バールソン

 

7フィート2インチのC。ノースカロライナ州立大出身で、同大が74年にUCLAを破ってNCAAチャンピオンになったときの主力。当時はデビッド・トンプソン、モンテ・タウらがチームメイトにいたが、そのときファイナル4のMVPを受賞したのは、UCLAのビル・ウォルトンを抑えたバールソンだった。72年にはアメリカ代表としてオリンピックに出場。このときは後々まで議論となる疑惑の判定で、決勝でソビエトに負けており、アメリカは銀メダルを受け取らなかった。

74年のドラフトでは1巡目第3位でソニックス入り。HCはビル・ラッセルで、バールソンはオール・ルーキー・チームに選出された。2年目もまずまずでこれからかと思われたが、ある試合での乱闘騒ぎをきっかけに膝を故障して、そこからキャリアはトーンダウン。77~80シーズンはキングスで過ごすが、特に最後のシーズンなどは戦力になっておらず、80~81シーズンをホークスでプレイして現役を引退した。

カレッジ時代からショットブロッカーとして有名だった選手。大学から勧誘された際、「7フィート2インチ半」と公表されていたが、大学側は「7フィート4インチ」と登録し、史上最も背の高い選手となっていたこともある。