遊園地ってあまり得意じゃないんですが、ディズニーランドは楽しいと思います。

 

 

スティーブ・スティパノビッチ

 

クロアチア系、6フィート11インチのC。ミズーリ大出身で83年のドラフトでは1巡目第2位でペイサーズ入り。大学時代はシューターのジョン・サンドボルドとともにチームを支えていた。

堅実なプレイスタイルが持ち味で、1年目から先発として起用されるが、膝に大きな故障を負ったことによって、僅か5シーズンでキャリアは終わってしまった。キャリア平均は13.2点・7.8リバウンド。

高校時代はスターだったが、大学では私生活でもコート上でも苦戦。あるときは、セントルイスのレストランで、自分のプレイを批判した客と喧嘩。この騒動でスティパノビッチは誤って自分を打ってしまい、1シーズンの欠場を強いられた。ただ、このあと、トレーニングを積んで勉強にも励み、選手として成長。ヴァージニア大との試合では、あのラルフ・サンプソンをシャットアウトしたこともあるという。

 

デレク・ハーパー

 

イリノイ大出身のPG。83年のドラフト1巡目第11位でマブス入り。3年目(85~86シーズン)の途中から先発に定着。以降、長きに渡ってチームを支えた。

ハーパーで有名なのが、84年のプレイオフでレイカーズと対戦したとき。残り時間僅かでマブスが勝っていると勘違いしてボールをキープするのだが、これが原因でレイカーズに負けてしまうというミスをやらかした。2年後にプレイオフで再戦したときにはクラッチシュートを決めるなど、レイカーズを苦しめている(シリーズには負けたが)。

80年代終盤からマブスは補強の失敗などで戦力が落ち、90年代序盤にはドアマットチームにまで低迷。93~94シーズン途中、故障したドック・リバースの代役を探していたニックスへ移籍した。ここでハーパーはいきなりファイナル進出を経験。その後も、95~96シーズンまでスターティングPGを務めた。

96~97シーズンは古巣マブス、97~98シーズンはマジックでプレイ。この頃にはさすがに衰えていたが、経験とテクニックでそれをカバーする姿が光っていた。98~99シーズンはレイカーズでプレイ。デニス・ロドマンの契約・解雇があったり、大型トレードがあったりするなど波乱含みのチームの中でよくリーダーシップを発揮。デレック・フィッシャーよりもハーパーの方が明らかに貢献度は高かった。シーズン終了後にメルビン・レベットの権利と交換でピストンズへトレードされ、オフのうちに引退。

アウトサイド・シュートとミスの少ないゲームメイクが売り。トレードマークはちょび髭。37歳になった最後のシーズンまで主力として活躍した。オールスターに出場したことのない選手の中ではトップクラスと言えるかも知れない。

 

マーク・ウェスト

 

6フィート10インチのC。オールド・ドミニオン大出身。83年のドラフト2巡目第30位でマブス入り。1年目は戦力外状態だったが、オフにバックス、更に2年目の序盤にキャブスに移籍して、ポジションをゲット。主にバックアップだったが成績も上げていき、87~88シーズンのトレード期限にはラリー・ナンス、マイク・サンダース、88年のドラフト1巡目指名権と交換で、ケビン・ジョンソン、タイロン・コービン、複数のドラフト指名権とともにサンズへトレード。移籍直後のウェストは先発として起用され、平均11.8点・8.3リバウンドとキャリアハイの成績を残した。

翌88~89シーズンは控えながら、65.3%という高いFG成功率をマーク(シュートの試投数・成功数が規定に足りず、ランキング対象外)。89~90シーズンには先発に返り咲き、FG成功率65.2%で見事リーグ首位となった。

その後、94~96シーズンをピストンズ、96~97シーズンを古巣キャブスでプレイ。この頃には衰えもあり、戦力としては弱かったが、人材不足から先発起用される機会もまだ多かった。97~98シーズンをペイサーズ、98~99シーズンをホークス、99~00シーズンをサンズで過ごして現役を引退。引退時点で、通算のFG成功率は3位であった(1位・2位はアーティス・ギルモアとシャック)。

82年の世界選手権では代表チームの一員として銀メダルを獲得。キャブス、サンズと長くチームメイトだったケビン・ジョンソンは、オールスターに初選出された際、ウェストへの感謝を込めて背番号41(当時のウェストの背番号)を着用したというエピソードがある。

 

ダレル・ウォーカー

 

6フィート4インチのPGでシカゴ出身。コミュニティ・カレッジを経てアーカンソー大に進学、83年のドラフトでは1巡目第12位でニックスに指名された。1年目は先発起用こそなかったが全82試合に出場し、ラルフ・サンプソンらと共にオール・ルーキー1stチームに選ばれた。2年目も全82試合に出場し、そのうち66試合で先発も務め、キャリアハイの平均13.5点をマーク。チームは弱かったが、悪くない働きを見せていた。

86~87シーズンはナゲッツで過ごし、87年オフには更にブレッツへ移籍。移籍1年目は冴えなかったが、2年目にはスティーブ・コルターから先発の座を奪い、オールラウンドに活躍。翌89~90シーズンはPGながら、平均8.8リバウンドをマークした(Gではファット・レバーに次ぐ2位)。91年オフにはピストンズへ移籍。しかし、終焉を迎えていたバッドボーイズでは力を出せず、翌92~93シーズンの開幕直後に解雇されてしまう。ただ、同シーズンの中盤に10日間契約で王者ブルズに加入。出番は少なく、貢献度は高くなかったが、自身初のチャンピオン・リングを獲得した。

ここで現役を終えたウォーカーはコーチに転向。96年オフにはラプターズの2代目HCとなり、デイモン・ストウダマイヤーを中心として、創設2年目のチームを30勝52敗の成績に導いた。しかし、翌シーズンは開幕からドアマットに沈み、ストウダマイヤーがトレードされたところで解任。ウォーカーは、このシーズンのルーキー、トレイシー・マクグレディと関係が良くなかったようである。

99~00シーズン途中にはガー・ハードに代わってウィザーズのHCに就任。これは、フロント入りしていたマイケル・ジョーダンの初仕事となった。ウォーカーは成績を多少好転させたが、シーズン終了後にあっさり解任。翌年はレオナード・ハミルトンが後を継いだ。

選手としては、Gの割にリバウンドに強く、オールラウンドなスタイル。スティールも多かった。難点はシュート。

 

シドニー・ロウ

 

ノースカロライナ州立大出身。PG。同大がジム・バルベイノHCの指揮で、「シンデレラ・ラン」と呼ばれた快進撃を見せ、83年のNCAAチャンピオンになったときの主力である。

ただ、プロ選手としては今ひとつで、83年のドラフトでは2巡目第25位でブルズに指名されるが契約には至らず、1年目はペイサーズで78試合に出場。2年目はピストンズとホークスで過ごし、以降3シーズンはCBAでプレイ。88~89シーズン終盤にエクスパンション・チームのホーネッツと10日間契約を結んでNBAに復帰するが、89~90シーズンにこれまたエクスパンション・チームのウルブズでプレイして、NBAでのキャリアを終えた。ウルブズではチーム史上最初の先発PGを務めるなど、80試合中38試合で先発起用された。

引退後はウルブズのTV解説者を務め、91年にはウルブズのACに就任。92~93シーズン半ばにはジミー・ロジャースの後を継いで、早くもチーム史上3人目のHCとなった。結果は残せなかったが、翌93~94シーズンが終わるまで指揮を執っている。94~99年はマイク・フラテロのACを務め、99~00シーズンはウルブズに帰還。そして00~01シーズンには創設以来低迷を続けるグリズリーズのHCとなった。23勝59敗ではあったが、一応球団最高勝率をマーク。ただ、メンフィスに移転して迎えた翌シーズンも奮わず、02~03シーズンの開幕直後、開幕8連敗となったところで解任されてしまった。

03年、ロウは再びウルブズに帰還。フリップ・サウンダースのACとなり、サウンダースがピストンズのHCになると一緒にピストンズへ移籍。1シーズンACを務めた。06年には母校ノースカロライナ州立大のHCに就任。トレードマークの赤いブレザーは、恩師ジム・バルベイノに肖っているという。若い頃は大食漢としても有名だったとか。NBAでは、選手としてもコーチとしても弱いチームに属することが多かった。

 

ラリー・ミショウ

 

6フィート9インチのPF。ヒューストンの高校時代、最高学年次に「州で最高の選手」とされ、ヒューストン大に進学。アキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、マイケル・ヤングらと共にファイ・スラマ・ジャマの一員となり、3度のNCAAファイナルを経験した。カレッジ時代のミショウは高いFG成功率を誇り、ブロックも多かった。

83年のドラフトでは2巡目第29位でブルズに指名され、83~84シーズン、キングスでNBAデビュー。しかし、シーズンの半分程度しか出られず、オフにはバックスへ移籍。そして84~85シーズン途中、故郷であり、かつてのチームメイトであるオラジュワンのいるロケッツへ移籍した。しかし、平均10分程度しか出番はなく、NBAでのキャリアはここで終了。以降はイタリアとスペインでプレイ。95年に引退するのだが、ミショウはスペイン・リーグ史上に残るリバウンダーのひとりとして考えられている。

愛称は「Mr.Mean」。引退後は高校のコーチなどを務めていた模様。