ウェストはウォリアーズが勝ち上がるだろうと思っていたので、ゲーム7まで縺れたのが意外でした。
イーストはキャブスが勝ち上がるとは思っていなかったのでびっくりしております。
ボブ・マッカドゥー
ノースカロライナ大出身のC/F。72年のドラフト1巡目第2位でブレーブスに入団し、新人王を獲得。2年目には平均30点・15リバウンドを記録した最後の選手となる活躍を見せ、FG成功率でもリーグ首位となった。オールスターにも出場し、翌74~75シーズンにはシーズンMVPに輝いた。因みにこの年はオールスターのファン投票でリーグ首位となっている。
こうして華やかなスタートを切ったが、その後はニックス、セルティックス、ピストンズ、ネッツで故障のつきまとうシーズンを経験。成績こそそれなりだったが、この当時には多くのアナリストやファンから「終わりに近づいている」と見られていた。この低評価を覆す契機となったのが、キャリア終盤のレイカーズ移籍。82~85年を6マンとしてプレイし、2度の優勝を経験した。
85~86シーズンをシクサーズで過ごしたのを最後にイタリアへ異動。ヨーロッパでプレイした最高のアメリカ人選手のひとりとして大活躍し、所属チームを2度のチャンピオンに導いた。87年にはマクドナルド選手権の第1回に出場し、平均42点をマーク。勝ち目のない試合ではあったが、NBAから参加したバックスとロシアのナショナル・チームに動揺を与えた。92年に41歳で現役を引退。
マッカドゥーのプレイスタイルはその当時としては非常に近代的なもので、6フィート9インチというサイズながらペリメーターから難なくシュートを決めることが出来、得点王を3度経験。オフェンスに関しては右に出る者がいないほどであった。リーグの偉大な50人には選ばれなかったが、00年に殿堂入り。引退後は恩師パット・ライリーのヒートでACを長く務めている。
高校時代にはマーチング・バンドのメンバーに選ばれたり、高跳びのチャンピオンになったりするなど多彩な面もある。因みに高跳びではボビー・ジョーンズと対戦しており、そのジョーンズとはシクサーズでチームメイトとなった。
ポール・ウェストファル
6フィート4インチ・195ポンドのSG。72年のドラフト1巡目第10位でセルティックス入り。出場機会は多くなかったが、デイブ・コーウェンス、ジョン・ハブリチェック、ドン・ネルソンらと3シーズンプレイし、74年には優勝を経験した。
75年オフ、チャーリー・スコットと交換で2つのドラフト2巡目指名権とともにサンズに移籍したことでブレイク。チーム1位の平均20.5点をあげ、チームは42勝40敗と平凡だったが、プレイオフではファイナルまで進んだ。その第5戦では、残り時間1秒でサンズが110対111で負けていた場面で劇的なプレイが誕生。セルティックスのディフェンスによって思うように動けなかったため、ウェストファルは、既に使い切っていたことを承知の上であえてタイムアウトを要求。これがテクニカル・ファウルとなり、セルティックスはFTを1本決めて2点差とするが、タイムアウトのコールがあったため、コート中央からのインバウンド・パスが可能となり、パスを受けたガー・ハードがブザービーターを決め、トリプル・オーバータイムに突入した(このプレイの結果、NBAはルールを変えている)。因みにこの試合も、シリーズもセルティックスが制している。
翌年はプレイオフに出られないが、ドラフトでウォルター・ディビスを獲得した77~78シーズンは再びプレイオフに復活。ジョン・マクロードHCのもと、チーム史上初の黄金期?を過ごした。80年オフにはデニス・ジョンソンと交換でソニックスに移籍。しかし、故障のために欠場が多く、ニックスに移った81~82シーズンは64試合を欠場。83年オフ、古巣サンズに帰還し、シーズン終了後に現役を引退した。
ピーク時にはリーグトップ10に食い込むほどの得点力があり、オールスターに5度、オールNBA1stチームに3度、オールNBA2ndチームに1度選出。サンズ史上に残る偉大な選手のひとりにも選ばれている。
引退後はコットン・フィッシモンズの下でのACを経て、92年にサンズのHCに就任。新加入のチャールズ・バークリーを軸に、いきなりファイナル進出を果たした。その後もプレイオフには進むが、続く2シーズンはロケッツを倒せず、95~96シーズン途中に解任。このシーズンに関しては補強が功を奏していなかったこともあり、バークリーは「彼のせいではない」と庇ったが、厳しい結果となった。
2年間アリゾナの高校でACを務め、98~99シーズンからソニックスのHCに就任。前任のジョージ・カールのローテーションを崩したり、若手を積極的に起用したり、新しいことを試すも効果はいまいち。エースのゲーリー・ペイトンの信頼も得られず、不振に喘ぐビン・ベイカーの扱いにも苦慮し、00~01シーズン序盤に解任された。
01年秋にはペパーダイン大のHCとなり、就任1年目にNCAAトーナメントまで進出。不振を極めた05~06シーズンまで指揮を執った。07年にはエイブリー・ジョンソンのコーチングスタッフとしてマブス入り。リック・カーライルがHCになった際にはACを辞め、フロント入りした。09年にはキングスのHCとなるが、整わない戦力に加え、問題児デマーカス・カズンズとも上手くいかず、2シーズンほどで解任された。
デイブ・トワージック
ABAとNBAの両リーグでプレイしたPGで、ブレイザーズが77年に優勝したときのスターティングPGだった。
オールド・ドミニオン大出身で、72年のドラフト2巡目第13位でブレイザーズから指名されるが、このときはABAのヴァージニア・スクワイアーズに行くことを選択。その後、76年にABAが消滅したときにブレイザーズと契約を結んだ。80年に現役を引退。背番号13は永久欠番となっている。
引退後はブレイザーズのフロントを経て、86~89年にペイサーズでACを経験。その後もピストンズ、ホーネッツ、クリッパーズ、ウォリアーズ、ナゲッツなどでACを務めた。03年にはマジックのフロント入りしている。
ヘンリー・ビビー
マイク・ビビーの父親であり、かつてMLBでプレイしたジム・ビビーとは兄弟。名門UCLAのスターティングPGとして知られ、72年のドラフトでは4巡目第11位でニックス入り。ルーキーシーズンは優勝を経験する幸運に恵まれたが、将来殿堂入りを果たすような蒼々たる面々がいては出番も限られ、74~75シーズン途中にジャズへ放出された(当時はニューオリンズ)。76年オフに移籍したシクサーズで、初めて平均30分以上のプレイングタイムをゲット。優勝はできなかったが、77年と80年のファイナル進出に貢献している。80~81シーズンをクリッパーズ(当時はサンディエゴ)で過ごして現役引退。数字の上で目立つ選手ではなかったが、故障とミスが少なかった。72年にNCAAチャンピオン、73年にNBAチャンピオンになっており、こうした形で選手として連覇を経験しているのはビル・ラッセル(56・57年)、マジック・ジョンソン(78・79年)、ビリー・トンプソン(86・87年)と合わせて4人だけである。
引退後はCBAでコーチ業をスタート。82年と89年には優勝している。96年にはサザン・カリフォルニア大のHCに就任し、9シーズンで3度NCAAトーナメントに進出。05年にWNBAのスパークスのHCに就任したときはうまくいかなかったが(僅か28試合で解任)、直後にシクサーズのACとなった。息子はご存知マイク・ビビー。
バーニー・フライヤー
高校時代はバスケットとフットボールの両方でオール・アメリカンに選ばれたアスリートで、ブリガムヤング大に進学。72年のドラフトでは7巡目第12位でサンズから指名され、翌73~74シーズンにブレイザーズでNBAデビュー。80試合に出場して平均7.0点をあげ、オール・ルーキー2ndチームに選出された。しかし、ジャズとABAのスピリッツ・オブ・セントルイスでプレイした74~75シーズンを最後に現役を引退。78年からレフェリーとしての活動を始めた。
選手からレフェリーに移行したのはフライヤーが初めてで、その後もレオン・ウッドとヘイウッド・ワークマンしかいない。02年のプレイオフでバロン・ディビスの打ったブザービーターを無効にしたのがフライヤーだったが、実際はブザーの鳴る前に放られており、この一件がきっかけとなってインスタント・リプレイが導入されることになった。07年のNBAファイナル第3戦を最後にレフェリーを引退。
