プレイオフもいよいよカンファレンス・ファイナル。正直どこが勝ってもいいけど、一応ウォリアーズとキャブスを応援することにしました。

 

 

ジェフ・ウィルキンス

 

6フィート11インチ・230ポンドのC/Fで、イリノイ大出身。77年のドラフトでは2巡目第37位でスパーズから指名された。その7月には一旦契約を結ぶが、開幕前には解雇。NBAデビューは80~81シーズンまで待たなければならなかった。

80年オフにジャズと契約。2年目には全82試合に出場して、そのうち62試合で先発を務めるなど成長。翌82~83シーズンにはキャリアハイの平均11.5点・7.4リバウンドをマークした。しかし、同シーズンに加入したマーク・イートンが徐々に出場機会を増やし、先発の機会は減少。83~84シーズンからは完全に控えに回った。85~86シーズンの半ばにトレードでスパーズに移籍して、シーズン終了後に現役を引退。85年のプレイオフでは平均12.9点を稼いでいる。

 

TR・ダン

 

「TR」は「セオドア・ルーズベルト」の略。6フィート4インチのG/Fで、アラバマ大時代はスターだった。そして77年のドラフトでは2巡目第41位でブレイザーズに指名される。ここではあまりパッとしなかったが、ナゲッツに移籍した80~81シーズンからキャリアが開花。ラン&ガン主体のオフェンスでリーグ史に残るオフェンシブなチームだったナゲッツで、主にスターティングGとして活躍した。

得点力は低く、キャリアを通じて一度も二桁の得点アベレージをマークしなかったが、ディフェンスと(Gとしては希有な)リバウンドの強さで先発の座を掴んだ。バックコート・コンビを組んだファット・レバーとともに、リーグ史上最もリバウンドに強かったコンビかもしれない(地味ながら)。しかし、チームの方はプレイオフで結果を出せず、87~88シーズンに先発の座をマイケル・アダムスに奪われると、翌シーズンはサンズへ。ここではローテーションにも入れず、1年で古巣ナゲッツへ帰還した。

90~91シーズン終了後に引退。82~85年までオール・ディフェンシブ2ndチームに選出されている。引退後は91~97年まで主にアラン・ブリストウのコーチング・スタッフとして働き、WNBAのシャーロット・スティングのHC、アラバマ大のAC、キングスのACなどコーチとして研鑽を積んでいるようだ。

 

ジェームス・エドワーズ

 

「ブッダ」の愛称で知られたC。ワシントン大出身の7フッターで、77年のドラフト3巡目第2位でレイカーズに入団した。ルーキー・シーズンは途中でペイサーズへ放出されるが、平均で二桁得点を記録するなどまずまず。数シーズンを過ごし、81年オフにキャブスへ移籍した。82~83シーズン途中にはサンズへトレード。ここでも安定したプレイ振りを見せるが、86~87シーズンは故障で14試合しか出られず、翌87~88シーズン中にはピストンズへトレードされてしまう。

ピストンズでは移籍直後こそ出番が限られていたが、88~89シーズンになるとビル・レインビア、リック・マホーンらのバックアップとして台頭。チームの優勝に貢献し、マホーンが移籍した翌シーズンにはスターティングFとして連覇に貢献した。こうしてバッドボーイズの主力として名を馳せたが、その解体と共にエドワーズも移籍。91~92シーズンはクリッパーズでプレイし、92年オフには古巣レイカーズへ。しかし、このときは年齢的な衰えもあってか出場機会は激減してしまった。94~95シーズンをブレイザーズ、95~96シーズンをブルズでプレイして、40歳で現役を引退。最後のシーズンに自身3つめとなるチャンピオン・リングを獲得した。エドワーズをドラフトしたのは、当時レイカーズのフロントにいたジェリー・クラウスで、キャリア最後のブルズ入りはクラウスとの繋がりが理由だとか。

どこのチームでも計算できるローポストのスコアラーで、ターン・アラウンド・ジャンパーが得意だった。所謂ジャーニーマンだが、在籍した8チーム中7チームでプレイオフに進んでおり、これはNBA記録である。

 

トム・シェフラー

 

パデュー大出身。77年のドラフト6巡目第7位でペイサーズに指名されるが、契約には至らず、NBAでプレイしたのは84~85シーズンの39試合のみであった(ブレイザーズにて)。キャリアの大半はヨーロッパで過ごしており、イタリア、スペイン、ギリシャなどでプレイしたが、ハイライトはフランス時代。86・87年とチームの優勝に貢献している。

弟のスティーブ・シェフラーもNBA選手で、90年代にソニックスなどでプレイしたが、やはり?12番目の選手であった。引退後はスイスの英会話スクールで働いていたとか。

 

ウォルター・ディビス

 

6フィート6インチのスウィングマン。ノースカロライナ大出身で、76年のオリンピックでは恩師ディーン・スミスの指揮するアメリカ代表チームの一員として、金メダルを獲得した。

77年のドラフトでは1巡目第5位でサンズに入団。一年目から高い得点力を見せ、新人王とオールNBA2ndチームに選出された。これ以降、最初の10シーズンで6度20点以上のアベレージをマークし、オールスターにも6回出場。スピーディ且つしなやかで、力強さをも感じさせるプレイスタイルから「グレイハウンド(猟犬の一種)」と呼ばれ、またサンズ専属のアナウンサーは「スウィートD」「キャンディマン」とも呼んでいた。サンズ史上最多記録を持つスコアラーであり、フランチャイズ史上最高のシューターとも言えるかもしれない。

ただ、キャリアの終盤は背中の故障とドラッグの問題がついて回った。特に80年代中頃のサンズのドラッグ・スキャンダルにおいては、それ以前にコカインの服用から2度リハビリのためにクリニックに入っていたことで起訴免除という形になり、チームの他の選手のドラッグ使用を証言するために呼ばれたという。

88年に契約が切れると、33歳になっていたディビスはナゲッツと2年契約。90~91シーズン中には△トレードでブレイザーズに移籍し、91年オフに再びナゲッツと契約を結び、現役生活に幕を閉じた。のちにニックスなどでプレイするヒューバート・ディビスは甥にあたり、大学も同じノースカロライナ大であった。

 

バーナード・キング

 

テネシー大出身で77年のドラフト1巡目第10位でネッツ入り。6フィート7インチのSFで、長い腕とクイック・リリースのシュートが特徴的であった。スピードがあったため、速攻でのフィニッシュも上手く、85年には平均30点オーバーで得点王に輝くなど、素晴らしいスコアラーであった。オールNBA1stチームに2度、オールスターには3度選出されている。

ルーキー・シーズンにいきなりシーズン総得点でチーム記録を更新し、83~84シーズンには64年以来となる2試合連続50点以上を記録。84~85シーズンには史上10人目となる1試合60点もあげた。しかし、この絶頂期(85年3月)に膝を故障し、キャリアは下降していく。85~86シーズンを全休するとかつての爆発力は失われ、86~87シーズンに復帰すると数字自体はまずまずであったが、故障前の姿ではなかった。

しかし、87年オフにブレッツに放出されると、年々成績をあげていき、91年には数年ぶりにオールスターに出場。キャリア終盤に見事なカムバックを果たした。91~92シーズンを全休し、92~93シーズンを古巣ネッツでプレイし、現役を引退。

96~97シーズンにリーグ史に残る偉大な50人が発表され、そこにはノミネートされなかったが、60人を選出するのであれば選ばれたと言われる。04年には殿堂入りの候補にも挙がるが、実現はならなかった。故障のために出場試合数が少ない、優勝に縁のないキャリアだったことなどが足枷となったのかもしれない(2013年に殿堂入り)。弟はアルバート・キング。

 

セドリック・マクスウェル

 

「マックス」「コーンブレッド」の愛称で親しまれたF/C。ノースカロライナ大のスターで、77年のドラフトでは1巡目第12位でセルティックスに指名された。2年目の78~79シーズン、ラリー・バードが1年後に加入するのを待ったチームは29勝53敗と低迷するが、そんな中マクスウェルのプレイ振りは今後に期待を抱かせるモノであった。

得点力が高く、個性的な選手でもあり、81年にチームが優勝した際にはバード、マクヘイル、パリッシュといったチームメイトがいながらファイナルMVPを受賞。また84年のレイカーズとのファイナルでは、第7戦の前に「俺の背中に乗れよ、お前ら」とコメントし、実際に24点をあげる活躍。これに加えて、オーバータイムでは、FTを得たジェームス・ウォージーに対して首を絞めるジェスチャーでプレッシャーをかけた。

85年にドラフト指名権と共にビル・ウォルトンとのトレードでクリッパーズへ移籍。1シーズン半を過ごし、86~87シーズン途中には更にロケッツへ移籍した。88年に現役を引退。背番号31はセルティックス史上22番目の永久欠番である。

因みに「コーンブレッド」という愛称は、大学時代のチームメイト、メルビン・ワトキンスが映画「コーンブレッド、アール&ミー」の内容に因んで付けたとか。

 

チャーリー・クリス

 

ニューメキシコ州立大出身で、5フィート8インチのG。NBAのドラフトにはかからず、76年にCBAでプロキャリアをスタート。スクラントン・アポロズでプレイしたクリスはMVPを受賞し、77年オフにホークスと契約を結んだ。

ルーキー・シーズンはいきなり平均2桁得点を稼ぐなど活躍。81年までバックアップとして貢献し、81~82シーズン途中にはクリッパーズへ移籍した。ここでもまずまずだったが、82年オフに契約を結んだバックスでは、途中で解雇され(83~84シーズン途中)、古巣ホークスに帰還。84~85シーズンに4試合だけ出て、NBAでのキャリアを終えた。

現役時代はリーグで最も背の低い選手。ドラフト外の選手としては悪くなかった。引退後はゴルフのインストラクター、バスケットのマイナー・リーグのコーチなどを務めている。