ローラースケートには惹かれなかったけど、この曲は大好きでした。
レジー・ウィリアムス
愛称は「シルク」。ボルチモアにあるポール・ローレンス・ダンバー・ハイスクールの出身で、そこでマグジー・ボーグス、レジー・ルイス、デビッド・ウィンゲートらとチームメイトだったのは有名。当時の同校は無敵であった。ジョージタウン大では1年次(84年)のNCAAファイナル、ヒューストン大戦で活躍を見せている(ジョージタウンの勝利)。4年次には得点・リバウンド・スティール・ブロックでチームをリードし、当時のチームはジョン・トンプソンHCに「レジー&ミラクルズ」名付けられたほどであった。
ドラフトでは1巡目第4位でクリッパーズに入るが、1年目は故障もあってか期待に応えられず、同期入団(19位指名)のケン・ノーマンの方が活躍していた。2年目もベンチ・プレイヤーどまりで、3年目は開幕直後とシーズン半ばに2度のトレードを経験。どちらのチームでもインパクトを残せなかった。しかし、4年目の途中にナゲッツへ移籍してからキャリアが好転。スターターとして起用されるようになって成績も上昇、5年目の91~92シーズンにはキャリアハイの平均18.2点をマークした。
以降、4シーズンに渡って主にスターティングSFとしてプレイするが、95~96シーズンはFの層が厚くなったことでスターターを外されてしまい、出場機会も激減。そのオフにはペイサーズにトレードされた。現役最後の96~97シーズンは開幕直後にネッツへ放出され、途中で解雇されている。ナゲッツ時代はキャプテンを務めるなど中心的役割を担っていた。
マグジー・ボーグス
5フィート3インチのPGで、NBA史上最も背の低い選手。ダンバー・ハイスクールの出身で、当時はレジー・ルイスらとチームメイトだった。カレッジはウェイクフォレスト大で、86年には世界選手権で金メダルを獲得している。ドラフトでは1巡目第12位でブレッツに入団。チームには史上最長身のマヌート・ボルがおり、異色のコンビとなるのだが、ボーグスはブレッツにフィットしなかった。スピードを活かしたアップテンポなバスケットを好むスタイルは、ベテラン揃いのブレッツには不向きだった。
そしてそのオフ、ブレッツはPGが弱点だったにもかかわらず、エクスパンション・ドラフトでプロテクトされず、ホーネッツへ移籍した。当初はHCとの相性などもあり、ムラのある起用が続いたが、アラン・ブリストウがHCになってからはのびのびとプレイ。ラリー・ジョンソン、アロンゾ・モーニングらを擁し、テンポの良いバスケットを展開するホーネッツは、全米屈指の人気チームとなった(観客動員数は当時のリーグ最多)。チーム力も確かで、「フューチャー・ブルズ」と呼ばれていたのは有名であろう。
しかし、契約の問題でモーニングがチームを去った95~96シーズンから、ボーグスの受難が始まる。このシーズンは故障のために76試合を欠場し、翌シーズンは復帰したが、フロントはボーグスの故障と年齢を懸念し、デビッド・ウェズリーという新たなPGを連れてきた。ボーグスはチームから引退を勧められるがそれを拒否、結局97~98シーズンの開幕直後にウォリアーズへとトレードされた。このときのウォリアーズは弱い上にスプリューエルの首しめ事件があるなど、ろくな状況ではなかった。
それでも2シーズンを過ごし、99年オフにはラプターズと契約。移籍1年目はバックアップとして効果的な働きを見せたが、翌シーズンは故障で3試合しか出られず、トレード起源にニックスへトレード。故障者リストに入ったままシーズンを終え、オフにはマブスへ放出されるが、直後に現役を引退した。テンポの速い展開が得意だが、スタイルはゲームメイク優先のPGで、シュート力に長けているワケではない。ミスが少なく、アシスト/TOの比率は常にリーグ・トップクラスであった。
デビッド・ロビンソン
NBA史上屈指のCのひとり。海軍士官学校の出身であることから「提督」と呼ばれた。高校時代はさほど注目を集めるような存在でなく、背も高くなく、ロビンソンにとっての最優先事項も教育を受けることだったようである。しかし、カレッジ進学後に7フィートまで成長。選手としても頭角を現していった。卒業して87年のドラフト候補生となり、1巡目第1位でスパーズに指名されるが、海軍の兵役があるため、チーム入りまで2年のブランクが空くこととなった。
兵役は通常5年だが、ロビンソンは身長が高くなり過ぎ、幾つかの任務を行えないことなどから、3年分を大目にみてもらうことができた。因みに、海軍士官学校は6フィート8インチ以上の生徒の入隊を禁じていたのだが、入隊後に身長制限を超えた生徒は落とさないようである。一時はスパーズと契約を結ばず、兵役終了後にFAとなるという思惑もあったようだが、89~90シーズンから無事にスパーズでNBAデビューを果たした。
ロビンソンが加わったスパーズは前年プラス35勝の56勝26敗をマーク。前年比の勝利数の伸び幅は当時リーグ史上1位の記録で、チームはカンファレンス・セミファイナルまで進出。この年ファイナルに進むブレイザーズを苦しめ、ロビンソンはもちろん新人王を受賞した。2年目はリバウンド王を獲得し、チームもウェストの第2シードを獲得するなど更なる飛躍を見せたが、1stラウンドでまさかの敗退。3年目はHCの交代やロビンソン自身の怪我などでパッとせず、再び1stラウンドで姿を消した。
4年目の92~93シーズンもHCの交代や主力の故障に苦戦。そこで、フロントは93年オフにピストンズからデニス・ロドマンを獲得した。これは当初は大成功の補強で、リバウンドとディフェンスのスペシャリストであるロドマンはロビンソンの負担を軽減。ロビンソンは得点をアップさせ、得点王を獲得。シャキール・オニールとの得点王争いは熾烈で、シーズン最終戦でフランチャイズ記録の71点をあげたロビンソンに軍配が上がったのは有名である。
ただ、この年もプレイオフは1stらうんどであっさり敗退。ロビンソンは精彩を欠き、ロドマンも出場停止処分を喰らうなどいいところがなかった。翌94~95シーズンにはシーズンMVPを受賞するが、プレイオフではやはり肝心なところで奮わず、チームもカンファレンス・ファイナルで敗退。このときはロケッツのアキーム・オラジュワンに歯が立たず、その不甲斐ないプレイぶりはのちにロドマンに自伝の中で非難されてしまった。
そして転機が訪れる。96~97シーズンの開幕前、プレシーズンで背中を傷めたロビンソンは故障者リスト入りしたまま開幕。1ヶ月ちょっと経ったところで復帰するのだが、6試合後のヒート戦で今度は足を骨折、シーズンが終わってしまった。ロビンソン不在のスパーズは一気にドアマット・チームとなり(他にも怪我人がいたが)、まさかの20勝62敗でシーズンを終了。スパーズはこの不振のお陰で97年ドラフトの1巡目第1位指名権を獲得した。
スパーズはその指名権でティム・ダンカンを指名。復帰したロビンソンとのコンビは「ツインタワー」と呼ばれ、すぐにスパーズの代名詞となった。当時、対戦したジョーダンも「(ブルズが勝ったが)ポテンシャルの高いチームだ」と評価している。ロックアウトを挟んだ翌シーズンからは、ロビンソンはエースの座をダンカンに譲り、サポート的な役割へシフト。「簡単なことではなかった」とのちに語っているが、チームとしてはこれが功を奏し、スパーズは99年のチャンピオンとなった。
このときは圧倒的な強さを誇り、プレイオフ通して2敗しかしなかった。サポート役となってもロビンソンの評価は高く、翌99~00シーズンにはそれまで同様オールスターにも選出。ただ、シーズン終盤~プレイオフにかけてダンカンが故障で離脱した際、ロビンソンはチームをリードすることができなかった。続く00~01シーズンには衰えが顕著となり、02~03シーズン開幕直後にシーズン終了後の引退を発表。スパーズは2度目の優勝を飾り、ロビンソンは最高の形でコートを去ることになった。
現役時代に残した記録は数えたらキリがなく、史上5人しかいない1試合で70点以上をマークしたり、史上4人しかいないクアドゥルプル・ダブルの達成したり、その実績は歴代のスター選手たちの中でも輝いている。新人王、MVP、ディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー、得点王、リバウンド王、ブロック王になった史上唯一の選手でもある。オリンピックには92年のドリーム・チームⅠも含め、3度出場。世界選手権でも一度プレイしている(86年)。
7フィート1インチ・235ポンドで、Cの体格ながらSFのスピードを持つとも評された(ような記憶があるw)。攻守にレベルが高く、歴史に名を残すCだが、エースとして頼りにならないという評価を覆すことはできなかった。紳士的で品行方正なことでも知られ、その性格は「ソフトだ」「フィジカル面で弱い」などの批判と表裏一体だったかもしれない。敬虔なクリスチャンで趣味は音楽。地域の慈善事業などにも熱心であった。カレッジ時代から着用した背番号50は憧れのラルフ・サンプソンに肖っている。
レジー・ルイス
ノースイースタン大出身。同大出身のNBA選手は少なく、ルイスが4人目である。当時の背番号は同大の永久欠番で、ユニフォームはマシューズ・アリーナに吊されている(セルティックスが46年に発足したときのアリーナ)。ドラフト1巡目第22位でセルティックス入り。1年目は平均10分にも満たないプレイングタイムだったが、翌シーズン、HCがKC・ジョーンズからジミー・ロジャースに代わり、ラリー・バードが故障で76試合を欠場したことなどから出場機会が増加した。
平均18.5点をマークするなど飛躍的に成績を伸ばしたルイスは、バードが復帰した翌シーズン以降も主力として活躍。4年目にはスターターに定着し、オーランドで開催された92年のオールスターにも出場した。3Pは苦手だったが得点力の高いオールラウンダーで、リバウンドやブロックにも強かった。キャプテンも務めるなど、主力の高齢化による戦力低下が避けられなくなった当時のセルティックスにおいて希望の光となったが、悲劇は突然訪れる。
93年のプレイオフ1stラウンド第1戦、ルイスは序盤から好調だったが、試合中に突然ふらついてフロアに倒れてしまう。ルイスは自力で立ち上がり、プレイに戻るが、体の不調を訴えて退場。シリーズの残りも欠場した。そしてそのオフ、ブランディ大での練習中に心臓発作で亡くなった。まだ27歳だった。死因は肥大型心筋症だと考えられており、数ヶ月前に不整脈の兆候があったことも明らかになっている。コカインの使用があったのではないか?といった議論もあるようだが、噂の域を出ていない模様。
背番号35はセルティックスの永久欠番。セルティックス史上、欠番となったが優勝を経験していない2人のうちの1人である。もうひとりはエド・マカウリー。最後の試合となったシリーズはホーネッツとの対戦で、旧知の仲であるマグジー・ボーグス、デビッド・ウィンゲートがプレイしていた。
サルナス・マーシャローニス
リトアニア出身のG。88年のソウル・オリンピックではアルビダス・サボニスとともに母国を金メダルに導いた。ドラフトでは6巡目128位でウォリアーズに指名され、2年後の89年オフに入団。20分程度のプレイングタイムながら1年目から6マンとして活躍し、91・92年には6マン・アワードの候補にも挙がった。91年にチームがミッチ・リッチモンドを手放したのも、同ポジションにマーシャローニスがいたことと無関係ではないだろう。
しかし、92~93シーズンを故障で52試合欠場すると、93~94シーズンは膝の故障で全休。この間にウォリアーズの陣容も変わり、94~95シーズンに戦列復帰したときはソニックスにいた。翌95~96シーズンはキングスへ移籍。故障前のキレはなくなっていたが、今度はアウトサイド・シュートで貢献した。96年にはナゲッツへトレードされるがまたしても故障に泣き、現役を引退した。最後のシーズンは17試合しかプレイできなかった。
コンボガード的な選手で、ウォリアーズ時代はディフェンダーの隙間を縫っていくようなドライブが強力で、ファウルをもらうのも上手かった。当時は50%を上回るFG成功率をマークしている。ネルソンが通訳係として息子のドニー・ネルソンを雇うなど、当初は言葉の壁もあったようだが、90年代後半から盛んになる国際化の先駆け的存在と見ていいだろう。リトアニア独立後は母国の代表としても活躍しており、バルセロナ、アトランタの2大会で銅メダルを獲得している。
ケビン・ジョンソン
サンズ史に残るPG。愛称はKJ。高校時代は野球もやっており、86年にはアスレチックスから指名を受けた。周知のようにバスケットを選んだKJはカリフォルニア大バークレー校に進み、その後、ドラフト1巡目第7位でキャブスに入団した。しかし、このシーズンのキャブスは2年目のマーク・プライスがブレイクしたシーズンでもあり(プライスは2巡目指名で1年目はベンチ・プレイヤーだった)、KJの居場所はなく、シーズン途中にサンズへとトレードされた。
サンズではHCのコットン・フィッシモンズの指導もあって順調に成長。2年目にはMIPを受賞し、トム・チェンバースト強力なデュオを形成。ここから4シーズンほどの活躍はめざましく。平均20点・10アシストをマークする、リーグを代表するPGとなった。92~93シーズンはチャールズ・バークリーの加入で、ファイナルまで進出。KJは故障などで33試合を休むなど低調で、ファイナルでも苦戦する場面が見受けられた。第6戦のラストでホーレス・グラントにブロックされたのも有名であろう。
これ以降のKJは故障が増え、不安定なプレイも目に付くようになり、チームも下降線(もちろんKJだけの責任ではないが)。丁度10年目の96~97シーズン終了後には現役を引退すると宣言した。このシーズン、サンズは開幕から長い連敗を喫するが、シーズン前半にジェイソン・キッドが加入。KJとキッドのPGデュオは上手く機能し、シーズン終盤に猛烈な快進撃を見せ、プレイオフでも1stラウンドで第2シードのソニックスを苦しめた。
シーズン後、周囲の説得にあったKJはもう1シーズンだけ続けることを決意。今度はキッドのバックアップを務め、翌オフに現役を引退した。99~00シーズン終盤にキッドが故障したとき、サンズのフロントから声を掛けられて一時的に復帰しており、シーズン6試合とプレイオフしかプレイしなかったが、KJとサンズの良好な関係を感じさせる動きだった。カレッジ時代の背番号11、サンズでの背番号7は永久欠番になっている(キャブスでは11番を付けていた)。
オールスターには3度出場し、94年にはドリーム・チームⅡのメンバーとして世界選手権で金メダルを獲得。長いNBAの歴史でもアベレージで20点・10アシストをクリアした選手は4人しかいない。93年のファイナルで記録した1試合62分の出場というのはNBA記録。6フィート1インチのサイズながら、若い於呂はビッグマンの上からダンクを叩き込むこともあった。本人はオラジュワンの上から決めたダンクが思い出深いとか。
オールスター初出場の際には41番を着用しているが、それはチームメイトだったマーク・ウェストに肖っている。
