数日前、フェイスブックで、中学校時代に同じ学年だった人からお友だち申請がきました。一度、僕が悪乗りして怒らせてしまい、謝ったことがあるひとでした。
中学以来まったく接点はなく、フェイスブックも「なっただけ」のお友だちなんですが、一瞬で当時のことを思い出しました。
喧嘩や理由があっての悪口は後悔しないけど、悪ふざけや悪乗りは今更ながら改めて申し訳ないし、恥ずかしいです。
ラリー・ジョンソン
通称LJ。ペリカンズがまだシャーロット・ホーネッツだった頃のスター。6フィート7インチのPFでUNLV出身。同大が90年のNCAAチャンピオンになったときの中心選手である。ドラフトでは1巡目第1位でホーネッツに入団。ルーキーながらオールスターに選ばれたのはディケンベ・ムトンボだけだったが、新人王はLJが受賞した。2年目にはアロンゾ・モーニングが加入し、若く才能溢れるチームとなったホーネッツは「フューチャーブルズ」とも呼ばれた。
LJも2年目にはオールスターに選ばれ、3年目を迎える前には長期高額契約を締結。ドリーム・チームⅡのメンバーにも入り、キャリアは順風満帆かに見えた。しかし、93~94シーズン中に椎間板ヘルニアを患うと、慢性的な背中の痛みに悩まされるようになり、それまでの売りだった、高い身体能力を活かしたプレイはあまり見られなくなってしまった。のちに「身体能力に頼らずプレイすることがいかに難しいか、を故障で学んだよ」と語っている。
94~96年の2シーズンはまだチームの中心的役割を担っていたが、96年にアンソニー・メイスンとのトレードでニックスへ移籍するとスタッツ・パフォーマンスは大きくダウン。PFにチャールズ・オークリーがいたためSFに固定された、パトリック・ユーイングやアラン・ヒューストンなど他にも中心となる選手がいた、など事情は伺えるが、巨額の契約と釣り合っているとは言えず、サラリー泥棒の代名詞となってしまった(そうでもない?)。
ニックスでの数少ないハイライトは99年プレイオフ。ニックスは史上初めての「第8シードからのファイナル進出」というアップセットを起こし、そのときチームの精神的支柱となったのがLJだった。シュートを決めた後に両手で大きく「L」の字をつくっていたのもこの頃。ペイサーズとのカンファレンス・ファイナルで決めた4点プレイはプレイオフ史に残るだろう。ただ、この頃は以前にも増して腰の痛みに悩まされており、コルセットやサポーターをつけてプレイする痛々しい姿がしばしば見られた。
そして、01年オフ、LJは早すぎる現役引退を表明した。故障前はパワーとスピードを兼ね備えた豪快なプレイが印象的。故障以降も、体の幅を活かしてスピンを多用するなど、その片鱗は見られた。怪我をしてからアウトサイド・シュートが増えたが、精度は今ひとつ。身体能力に頼らなくなってからはスター性がなくなったかもしれない。ホーネッツ時代にチームメイトだったモーニングとは仲が悪く、ニックス時代には乱闘騒ぎになったこともあった。スコッティ・ピッペンとも不仲だったかな。愛称は「グランマ」。
デメトリウス・キャリプ
ミシガン大出身のPGで、同大が89年のNCAAチャンピオンになったときのコアメンバー。当時のチームにはグレン・ライス、ロイ・ボートと、テリー・ミルズ、ルミール・ロビンソンら将来のNBA選手たちが揃っていた。また、90~91シーズンにはエリック・ライリーらとチームを牽引している。ただ、ドラフトにはかからず、NBAでは91~92シーズンに7試合だけレイカーズでプレイしたに留まった。「ブルーチップス」と「エディ」の両方に出演している。
ロバート・パック
個人能力の高いPG。愛称は「パックマン」。ドラフト外でブレイザーズに入団し、ファイナルに進む強豪チームにおいて、テリー・ポーターらのバックアップとして健闘を見せた。オフにはナゲッツへトレードされるが、ここでは6マン的存在で、94年プレイオフ1stラウンドのアップセットにおいても活躍を見せている。95~96シーズンの開幕直前にはブレッツへ移籍。ここでは怪我で31試合しか出られなかったが、個人成績ではキャリア最高をマークした。
しかし、96年オフにネッツと契約を結ぶと、それほどのインパクトを残せず、シーズン中にはマブスへトレード。ここには00年まで在籍したが怪我に泣かされ続け、一度も54試合以上プレイすることはなかった。00年にはセルティックス経由でナゲッツに復帰。以降は、ウルブズ、ホーネッツ、ネッツで1シーズンずつ過ごし、ヨーロッパへ渡った。05年には一度ラプターズと契約を結ぶが、開幕前に解雇されている。引退後はNBAでACなどを務めている。
とにかく怪我が多かったが、身体能力が高く、スピードや跳躍力には目を見張るものがあった。爆発力もあり、6マンに向いているかもしれない。ダンクも魅力のひとつで、94年のコンテストではアイザイア・ライダーに次ぐ2位になっている。
ブライアン・ハワード
ノースカロライナ州立大出身のSFで、91~92シーズンの半ばすぎに10日間契約でマブスに加入。戦力になる純粋なSFがいなかったためか幸運にも出場機会を確保し、翌シーズンも68試合中22試合でスターターを務めるなど、積極的に起用された。但し、そのシーズンのマブスは11勝71敗という悲惨な成績に終わっており、弱小チームにいたが故の活躍?ではあるのだが。93年以降はトルコやフランスなどでプレイしている。
ケビン・ブルックス
アメリカとオーストラリアの二重国籍を持つSF。ルイジアナ大ラファイエット校(当時はサザン・ルイジアナ大)から、1巡目第18位でバックスに指名され、直後にナゲッツへトレード。93~94シーズンまで3シーズンを過ごした。NBAでは2年目のに平均10.4分起用されたのがピークとなるなど見せ場がなかったが、90年代終盤にはオーストラリアのNBLで大活躍。98年にはグランド・ファイナルMVPという賞を受賞している。引退後もオーストラリアやニュージーランドでコーチなどを務めている。
グレッグ・アンソニー
血の気の多いバックアップPG。サウスポー。カレッジは、最初はポートランド大に進むが、2年生になるときにUNLVに編入。名将ジェリー・ターカニアンHCのもと、ラリー・ジョンソン、ステイシー・オーグモンらとともにチームを90年のNCAAチャンピオンに導いた。ドラフトでは1巡目第12位でニックスに入団。因みにLJとオーグモンも同じく1巡目で指名されており、LJはホーネッツで、オーグモンはホークスで、アンソニーはニックスで、みんなそれぞれ背番号2を選んでいる。
パット・ライリー政権下のディフェンシブなニックスを象徴する選手のひとりで、アンソニーのディフェンスはライリーからも認められていたようである。ニックス時代のハイライトは、93年3月23日のサンズ戦。アンソニーは足の怪我で私服のままベンチにいたのだが、ケビン・ジョンソンとドック・リバースの乱闘に参加。そしてKJを殴りつけ、5試合の出場停止処分と罰金を喰らった。因みにサンズとKJはこのとき、「シーズンの残りをすべて出場停止にすべき」と主張している。
95年にはエクスパンション・ドラフトでグリズリーズへ移籍。以降、2シーズンはキャリアで初めてフルタイムのスターティングPGとしてプレイした。ソニックスでの1シーズンを挟み、98~01年はブレイザーズに在籍。当時のブレイザーズは金にモノを言わせたチーム作りで層が厚かったが、スターターのデイモン・ストウダマイヤーはムラがあってディフェンスもまずく、試合の大事な場面ではアンソニーがコートに立つことも多かった。
01年オフにブルズへ移籍。若手ばかりのチームで開幕からスターターを務めるも、もちろん将来的な構想には入っておらず、シーズン半ばに解雇。シーズンの残りをバックスで過ごし、現役を終えた。
ビリー・オーウェンス
シラキュース大出身のオールラウンダー。6フィート9インチのサイズながら、G的な役割もこなすことが出来た。1巡目第3位でキングスに指名されるが契約交渉で揉め、そのまま開幕直前にミッチ・リッチモンドとのトレードでウォリアーズへ移籍、デビューした。サイズがあって走れて器用なオーウェンスはドン・ネルソン好みで、まずまずの働きを見せるのだが、リッチモンドと比べられるような器ではなく、リーグ史上最も偏ったトレードのひとつとして記憶されている。
ウォリアーズではボール運びを任されるなど流動的に起用され、活躍。相手チームにマッチアップの難を生んでいた。しかし、94年にヒートへトレードされると、翌シーズンの途中には更にキングスにトレードされるなどどこにもあまりフィットせず、キャリアは緩やかな下降線を描き始める。98~99シーズンはソニックスでスターティングSGとして起用され、開幕ダッシュに貢献するが尻すぼみ。00~01シーズンを最後にNBAに戻ってくることはなかった。
高校時代は有名な選手で、アロンゾ・モーニングらと並ぶ評価を受けていた。90年には世界選手権で銅メダルを獲得している。アップテンポなバスケットで活きるタイプのオールラウンダー。
ポール・グラハム
6フィート6インチのスウィングマンでオハイオ大出身。91年のオフにドラフト外でホークスと契約を結ぶと、バックアップながら78試合に出場して2桁の得点アベレージをマークするなど、意外な活躍。ドミニク・ウィルキンスがアキレス腱の負傷で離脱した穴を、デュアン・フェレルらとともに埋めた。ドミニクが戻ってきた2年目も80試合で起用されたが、3年目にHCがレニー・ウィルケンスになるとローテーションの外へ。94年オフにホークスとNBAから離れた。
