Mステの10時間スペシャル、Xかっこよかったなぁ。

なんでトリじゃなかったんだろ。

平成4年もラストです。



トム・ググリオッタ


愛称は「グーグス」。ノースカロライナ州立大の出身だが、入学に際してはお父さんが同大のジム・バルベイノ(旧友だとか)にググリオッタのことを売り込んだという。1年目は膝の故障で結果を残せなかったが、2年目からは飛躍的に成長を見せてラリー・バードと比較されるようにまでなり、ドラフト1巡目第6位でブレッツに入団した。さすがにバードとまではいかず、チームも強くならなかったが、個人としてはまずまずの成績を残していた。

94~95シーズンの開幕直後にクリス・ウェバーとのトレードでウォリアーズに放出されるが、あまりフィットせず、トレード期限にはさらにウルブズへ移籍。そのシーズン残りは控えとして起用されることも多く、翌シーズンもインパクトを残せなかった。しかし、96年オフにチームがケビン・ガーネット中心のチーム作りにシフトするとググリオッタもブレイク。平均得点は20点を超え、ガーネットとともにオールスター初出場を果たし、ウルブズはチーム史上初のプレイオフ進出を決めた。

このときはステフォン・マーブリー、ガーネットと3人で強力なトリオに見えたのだが、翌シーズン半ばに故障したところからキャリアが崩れてしまう。97~98シーズンはシーズン後半とプレイオフをまるまる欠場し、オフにはサンズに移籍するが、今度はチームとして不発。翌シーズンはまたしてもシーズン終盤に故障し、戦線離脱。ここで負った怪我は長引き、翌シーズン途中に復帰したときにはかつての姿ではなく、役割も限られたものになっていた。

この後も故障は続き、完全にチームの構想から外れたググリオッタは、03~04シーズン中にキオン・クラークと交換でジャズに放出された。この頃にはすっかり忘れ去られた存在となっていたが、ジェリー・スローンHCはスターターとして起用。衰えながらも、20分ほどの出場時間でリバウンドを平均5本以上取るなど、元々の能力の高さを見せた。翌シーズンをセルティックスとホークスでプレイしたのを最後に現役を引退。セルティックスでは「ザ・グラブ(ガリ勉・縁の下の力持ち)」と呼ばれていたとか。

3Pは多くないが、シュートエリアが広く、身体能力に頼らずに両Fで活躍できたあたり、バードと比較されたのもわからなくはない(気がする)。度重なる故障が悔やまれるが、どちらにしても1stオプションとしては物足りない。因みに、99年12月、「スリープ・アイド」というサプリメントを摂取したことで死にかけたことがある。2人の兄はヨーロッパでプロとしてのプレイ経験がある。


クリスチャン・レイトナー


ドリーム・チームⅠのメンバーで唯一殿堂入りしないであろう、6フィート11インチのF/C。名門デューク大の出身で、91・92年と同大NCAAを制したときの主力で、カレッジ史上で見ても最高の選手のひとりと言えるかもしれない。ハイライトとしてあまりにも有名なのが、92年のNCAAファイナル。デューク大は104対103でケンタッキー大を下すのだが、このとき決勝ブザービーターを決めたのがレイトナーだった。この場面はハイライトで何度も流され、10年以上経った03年にCMで使われたこともあった。

また、その試合のレイトナーは全体的にも好調で、10本のFGと10本のFTをすべて決める大活躍。このパフォーマンスは93年のESPYアワードを受賞し、先のブザービーターは「カレッジ・バスケットボール・プレイ・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。また、同ブザービーターは「NBAと高校を含むバスケットボール史上最も印象深いショット」のひとつ(07年)、「スポーツを通じて忘れがたい場面」の第5位(06年)にも選ばれている。ただし、その試合でアミヌ・ティンバーレイクを踏んづけたことも有名である。

史上4人しかいない、4年連続ファイナル4に進んだ選手のひとりで(うち2人はレイトナーのチームメイト)、そのすべての試合でスタートしたのは唯一。また、NCAAトーナメントで史上最多試合出場という記録も持っている(そりゃそうなるのだが)。個人記録も幾つも樹立しており、90年には世界選手権で銅メダル、そして92年夏にはドリーム・チームⅠのメンバーとして金メダルを獲得した。あまり出番はなかったが、学生で選ばれたのは唯一であった。

92年のドラフトではシャック、アロンゾ・モーニングに次ぐ1巡目第3位でウルブズに入団。プロ1年目は、ルーキーとしては悪くない出来だったが、シャックとモーニングには遠く及ばず、2年目には2人との差がさらに大きく開いた。おまけにレイトナーは、その態度のためか印象も悪く、比較対象としてビル・レインビアの名前が出てくるほどであった。負け続けるチームにフラストレーションは溜まり、4年目には高卒ルーキーのケビン・ガーネットとの不仲説も浮上。そのシーズンの途中、遂に放出されてしまった。

新天地はホークス。シーズンの残りはチーム事情からスターティングCとして起用されるなど、今ひとつ馴染まなかったが、HCのレニー・ウィルケンスはその貢献度を高く評価。そして、オフにディケンベ・ムトンボが加わって、PFにスライドした翌96~97シーズンはレイトナーのキャリアイヤーとなった。オールスターに初出場したり、王者ブルズを破る立役者となったり(37点をマーク)、ウルブズ時代とは見違えた姿を見せ、ドリーム・チームⅣのメンバーにも選ばれた(ロックアウトのため幻に終わるが)。

しかし、翌シーズンは何故か精彩を欠き、スターターを外されるようにもなってしまい、98~99シーズンが始まる前にはピストンズへトレードされた。ここではカレッジ時代のチームメイト、グラント・ヒルと再会。移籍1年目は故障で16試合しか出られなかったが、2年目の99~00シーズンは全82試合でスターティングPFを務めた。00年のオフには、PFを欲していたレイカーズにトレードされかかるが、土壇場でマブスへ。00~01シーズン半ばにはさらにウィザーズへ放出された。

これはウィザーズが、巨額の契約を抱えたジュワン・ハワードを放出したいがためのトレードで、戦力として望まれていたわけではなかった(と思う)。しかし、レイトナーは腐らずプレイを続け、翌シーズンにマイケル・ジョーダンが現役復帰したときには、数字こそ目立たなかったが、貴重な繋ぎ役となってチームに貢献した。04年にはウォリアーズにトレードされるがすぐ解雇され、ヒートと契約。奇しくもシャック&モーニングのチームメイトとして1シーズン過ごし、現役を引退した。

「ドリーム・チームⅠに選ばれたのは間違いだったのでは?」と議論が起こり、実際、スーパースターではなかったが、単なるロールプレイヤーというワケでもなかった。スキルレベルは高く、フィル・ジャクソンも「パスもシュートも巧い。バスケットをよくわかっているからトライアングルに完璧にフィットするね」と評していた。


キース・ジェニングス


愛称は「ミスター」。5フィート7インチと小柄なPGで、イースト・テネシー州立大の出身。カレッジ時代には6フィート以下のベスト・プレイヤー(フランセ・ポメロイ・ネイスミス・アワード)を受賞しており、また60%近い3P成功率をマークしたこともあった。92年にドラフト外でウォリアーズに入団。開幕からローテーション入りして予想外の活躍を見せたが、すぐに故障に見舞われ、ルーキーイヤーは僅か8試合の出場に終わった。

続く2シーズンは持ち前のシュート力を活かしてまずまずのプレイを見せたが、95年オフにはエクスパンション・ドラフトでラプターズへ移籍。しかし、開幕前に解雇され、スペインで1シーズン過ごした。96年にはナゲッツと契約を結ぶが、オフの間に膝を故障してシーズンを全休し、それ以降NBAでプレイすることはなかった。セールスポイントはシュート力と、小柄な選手特有のスピード。3シーズンの働きは決して悪くなかったが、生き残ることは出来なかった。


バイロン・ヒューストン


6フィート5インチ・250ポンドというずんぐりむっくり型のPF。オクラホマ州立大でプレイした後、1巡目第27位でブルズに指名され、さらにウォリアーズへトレードされた。ここでは2シーズン過ごすが、2年目に出場機会を失い、ソニックスに移籍した3年目は完全に戦力外扱い。4年目にキングスでプレイしたのがNBAでの最後である。タフで動けるPFだったが、やはりサイズは厳しかった模様。カレッジ時代はブライアント・リーブスとチームメイトだった。

引退後はトラブルが多いようで、公然猥褻罪で逮捕もされている。父親は元選手のカーティス・ペリーで、こちらは70年代にバックスやサンズなどで活躍した。74年にバックスで、76年にサンズでNBAファイナルを経験している(ともにセルティックスに敗れた)。


ジョジョ・イングリッシュ


本名はステファン・イングリッシュ。旧西ドイツのフランクフルト生まれで、サウスカロライナ大でプレイしていた。NBAのドラフトにはかからず、92年オフにドラフト外でブルズと契約を結ぶも解雇。シーズン途中に10日間契約で再度加入するが、またしてもすぐに解雇されてしまった。チャンスが回ってきたのは翌93~94シーズン。オフにウルブズと契約を結び、開幕直後にブルズにトレードされ、一度解雇されるが、シーズン終盤に10日間契約を結び、シーズン終了まで生き残った。

しかし、94~95シーズンの開幕直後に解雇され、以降はCBAやNBL(オーストラリア)などで現役を続けた。6フィート4インチのG。94年のセミファイナル、シカゴで行われたニックス戦で、デビッド・スターンの観戦している前でデレク・ハーパーと乱闘騒ぎを起こしたのがキャリアのハイライト。


クレアレンス・ウェザースプーン


ミシシッピ州の出身で、地元のサザン・ミシシッピ大を卒業後、ドラフト1巡目第9位でシクサーズに入った。6フィート7インチ・250ポンドのという体型や積極的なスタイルが(91~92シーズンまでシクサーズにいた)チャールズ・バークリーに似ていることから、キャリア序盤は「ベビー・バークリー」「バークリーⅡ世」とも呼ばれた。実際、バークリーには及ばないが、1年目から主力として活躍し、2年目には平均18点・10リバウンドを上回る成績をも残した。

しかし、この頃のシクサーズはドアマットチームであり、95年にジェリー・スタックハウスとデリック・コールマン、96年にアレン・アイバーソンが加わるなど補強が進むと、ウェザースプーンの存在感は薄くなっていった。そして、ラリー・ブラウンがHCに就任した97~98シーズンは6マンとなり、トレード期限にはウォリアーズへ移籍。ここでは再びスターターとして起用されるが、特にインパクトを残せず、オフにはヒートと契約を結んだ。

ヒートではバックアップとして2シーズン過ごした。00~01シーズンはキャブスで久しぶりに全82試合でスターターを務め、得点とリバウンドでダブルダブルに迫るアベレージを残すなど健闘。01年にはニックスへ移籍した。ニックスでは、移籍初年度はマーカス・キャンビーが故障したときなどにスターターとして起用されたが、あまり貢献できず、翌シーズンはオセラ・ハリントンにポジションを奪われた。03~04シーズン中に移籍したロケッツでは出場機会が限られ、04~05シーズンを最後にキャリアを終えた。

プレイスタイルやシュートエリアはPFだが、チーム事情からSF的な起用をされることも多かった。故障が少なく、確かなスキルもあるが、爆発力に欠けるのでベンチとしては魅力が弱い。打点の高いシュートフォームはやや独特。シクサーズ時代はダンクコンテストに出場したこともある。


トニーー・ベネット


6フィートのPG。実父がHCを務めるウィスコンシン大グリーンベイでプレイし、当時の同大はなかなかの好成績を残した。ベネット自身もカンファレンスの最優秀選手賞や、キース・ジェニングスと同じくフランセ・ポメロイ・ネイスミス・アワードを受賞している。因みに、通算の3P成功率49.7%はNCAA記録である。しかし、プロでは結果を残せず、ドラフト2巡目第35位でホーネッツに入団するも足の怪我などもあり、NBAでは僅か3シーズンしかプレイしなかった。

引退後は06年に父親が引退したのに伴って、ワシントン州立大のHCに就任。ここでいきなり同大史上最多勝(タイ記録)をマークするなど結果を残し、それ以降もNCAAでコーチとして活躍している。2015年現在はヴァージニア大のHCである。


アンドレ・スペンサー


6フィート6インチのSF。ベイカースフィールド・コミュニティ・カレッジを経てノース・アリゾナ大に移り、NBAでは92~93シーズンにホークスでデビューした。ここでは3試合出ただけで解雇されるが、シーズン終盤に10日間契約で加入したウォリアーズで予想外に活躍。17試合の出場で2桁の得点アベレージを残した。翌シーズンは開幕直後に解雇されるが、再びシーズン終盤に、今度はキングスと契約を結び、ここでもまずまずのスタッツを残している。NBAでプレイしたのはこの2シーズンのみ。