因みにこの元ネタ、有名なスター選手でもいなかったりします。

数年前の自分はなんでゲーリー・ペイトンを省いたんだろう・・・(たぶん書くことありすぎてまとめるの大変だったからなんですがw)



トニー・クーコッチ


クロアチア出身。6フィート10インチのFで、フィジカル面はあまり強くないが、一応ほぼすべてのポジションをこなせる多彩さがあった。パスセンスも見事で、ヨーロッパでプレイしていたときは「ホワイト・マジック」とも呼ばれていたとか。ブルズのジェリー・クラウスGMが惚れ込んで2巡目で指名したが、NBAに来るのはその3年後で、クーコッチがブルズと契約した直後にマイケル・ジョーダンが(一度目の)引退を発表、涙ぐんだという。

NBAでの1年目はスコッティ・ピッペンとの確執や△オフェンスへの順応に苦戦。ただ、それなりの結果も残しており、ニックスとのカンファレンス・セミファイナルのゲーム4でチームを勝利に導くブザービーターを決めたのは有名である(ピッペンがコートに立つのを拒否したのはもっと有名だが)。2年目はスターターに定着し、ピッペンに次ぐ存在となるが、96~98年は主に6マンとして大活躍。96年には6マン賞を受賞しており、96~98年の2度目の3連覇に貢献した。

98年オフにフィル・ジャクソン、ジョーダンらがチームを去り、再建期に突入するとクーコッチは一気にエースへ。しかし翌シーズンの半ばには自身もシクサーズへと放出された。シクサーズではアイバーソンとのコンビが期待されたがフィットせず、翌シーズン途中にはディケンベ・ムトンボとのトレードでホークスへ移籍。シーズンの残りは暫定エースとして孤軍奮闘した。02~06年はバックスでプレイ。衰えを見せながらも貴重なロールプレイヤーであった。

長所は多彩なオフェンスでドライブから3Pまで何でもあり。ボールハンドリングも良く、クラッチタイムにも強かった。難点はディフェンス。06年オフには家族の近く(ブルズかバックス)でプレイすることにこだわり、結果的に引退を選択した。バルセロナ・オリンピックの銀メダリスト。


キース・アスキンス


ドラフト外スウィングマン。ドラフト外ながら、引退するまでの9シーズンすべてをヒート一筋で過ごした。95年にパット・ライリーがHC兼GMとなった際にそのディフェンスと3Pを評価され、シーズン通してロスター大改造が行われる中、生き残った。当時、ライリーは「スタークスのような選手に育てたい」としていた。しかし、チームが強豪になるに連れて出場機会は減少し、99年オフには解雇。そのままACとなった。ACとしてベンチにいるときは蝶ネクタイがトレードマークとなっていた(僕の中では)。


デレック・ストロング


ゼイビア大出身のPF。92~94年に在籍したバックスでバックアップとしては戦力になることを示し、その後、セルティックス、レイカーズ、マジック、クリッパーズでプレイした。4シーズン過ごしたマジックでは、前半2シーズンはホーレス・グラントの控えを補って余りある活躍を見せていた。クリッパーズではほぼ出番なし。引退後はオートレーサーに転向し、06年にデビュー。車にはNBA時代からのニックネーム「ビッグD」がペイントされているそう。


マット・ブラード


6フィート10インチの長身シューター。SFとしてもPFとしても難があり、アウトサイド・シュートが唯一の武器だったが、それで02年まで現役を続けられたのだからたいしたもの。キャリアの大半をロケッツでプレイしており、94年の優勝メンバーでもある(95年はギリシャでプレイしていた)。動きはスローでシュート・モーションも遅いが、精度は高く、フリーにしてはいけない選手。ヒューストンのファンは「エア・ブラード」というニックネームをつけている。


ケビン・プリチャード


88年のカンザス大優勝メンバー。当時はダニー・マニングとチームメイトで、HCはラリー・ブラウンだった。ただ、プロではまったく結果を残せず、海外のクラブチームや外部リーグを含めあちこちを渡り歩いた。95年にはエクスパンション・チームのグリズリーズと契約を結び、同チームが史上初めて契約した選手となったが、開幕前に解雇されている。引退後はブレイザーズのフロント入りし、04~05シーズンにはモーリス・チークスの解任を受けて暫定HCを務めた。

07年からはGMに就任。グレッグ・オデンを1巡目第1位で指名し、ニコラス・バトゥム、ルディ・フェルナンデス、ジェリド・ベイレス、アンドレ・ミラーらを獲得し、期待値の高いチームをつくりあげた。


ストイコ・ブランコビッチ


クロアチア出身のC。クーコッチとは違ってすぐにNBAに来て、90~92をセルティックス、96をウルブズ、97~99をクリッパーズでプレイした。96年にはギリシャのパナシナイコスでプレイしており、決勝の大事な試合で相手がブザーと同時に放ったシュートをブロックして、優勝に貢献した。当時はドミニク・ウィルキンスとチームメイトであった。88年のソウル・オリンピックの銀メダリスト(ユーゴスラビア代表)、92年のバルセロナ・オリンピックの銀メダリスト(クロアチア代表)でもある。

売りはブロックショット。同郷のスーパースター、故ドラゼン・ペトロビッチと親しかったとのこと。


ケンドール・ギル


6フィート5インチのSG。イリノイ大出身で当時はニック・アンダーソン、マーカス・リバティらと共に「フライング・イリノイ」と呼ばれていた。1巡目第5位でホーネッツ入りすると、レックス・チャップマンからポジションを奪い、翌年には早くも平均20点をオーバーした。しかしその年にラリー・ジョンソン、翌年にアロンゾ・モーニングが加入するなどチームにメンバーが揃い、「フューチャーブルズ」と呼ばれるようになると、逆にギルの役割は縮小してしまう。

この状況に不満を感じたギルは、尊敬するマイケル・ジョーダンに「優勝するには君の力が必要だ。君はこのチーム(ホーネッツ)に残った方がいい」とアドバイスをもらうが、93年にソニックスへの移籍が決まった。しかしソニックスにもゲーリー・ペイトン、ショーン・ケンプらがいたために状況は改善されず、それどころかジョージ・カールと合わなかったり鬱病の噂が流れたりするなど状況は悪化した。2シーズン過ごしてホーネッツに再トレードされ、迎えた95~96シーズン中には更にネッツへ放出される。

ネッツで初のフルシーズンとなった96~97シーズンが、個人成績としては最高のシーズン。ネッツでもサム・キャセール、ケリー・キトルズらが続々と加入してオフェンスでの影は薄くなるが、98~99シーズンにはスティール王に輝くなどディフェンスで存在感を見せることもあった(NBAタイ記録となる1試合11スティールもマーク)。04~05シーズン途中でバックスから解雇されたのを最後に現役を引退した。引退後はボクサーに転向(いつまでどの程度やっていたかは不明)。

ジャンプショットが不安定で、特にアウトサイド・シュートが難点だったが、それ以外は攻守にバランスの取れた好選手。キャリア序盤はチーム事情からPGとして起用されることもあった。SGとしては理想的?な体格をしており、身体能力も高い。髪型を変えたり金髪にしたりするなどお洒落な一面もある。背番号13を着用することが多かったが、それは伯母がつけていた背番号に肖っている。


アレック・ケスラー


ジョージア大出身のビッグマン。ドラフト1巡目第12位でロケッツに指名され、直後にヒートへトレード。ドラフト時の期待に応えることは一度もなく、94~95シーズンの開幕直前に解雇された。しかし、アカデミック・オール・アメリカンに選ばれるなど学業は優秀で、その後医学を勉強。99年に医学科を卒業し、整形外科医となった。スーパーファミコンの某ゲームでは、初期設定のロスターだとケスラーがスターティングPFとなっており、そのままヒートを使うと痛い目を見る。07年、ピックアップゲーム中に他界。


ケニー・ウィリアムス


6フィート9インチのFで2巡目第46位でペイサーズ入り。ルーキーシーズンにはスラムダンク・コンテストに出るもインパクトは残せず、NBAでは4シーズンしかプレイしなかった。ただ、高校時代はスーパースターでアロンゾ・モーニング、ショーン・ケンプらと同等の選手として考えられていた模様。ノースカロライナ大に勧誘されるも学業不振が理由でコミュニティ・カレッジへ。ここが分岐点だったかもしれない。00年代中頃まで主にイスラエルなどで現役を続けた。