王45年オフ:創設

 

第二次世界大戦が終わったこの時代、アメリカにはプロバスケットボールのリーグがありませんでした。

そこで、1937年に発足して活動していたNBLというセミプロリーグが動き出します。

初のプロバスケットリーグを目指そうってわけです。

 

そして、NBLは国内でもトップクラスのセミプロチーム、”ロチェスター・プロズ”をリーグに招待しました。

 

このチームは元々、1923年にレス・ハリソンという人が組織した巡業チーム。

ハリソンはロチェスター出身で、高校生(18歳)のとき、父親の死をきっかけに仕事(トラックで野菜や果物を売る)を継ぐんですが、卒業時にはバスケット・チームの運営に関心を持ち、19歳で立ち上げました。

 

シーグラムス(カナダのリキュール会社)がスポンサーに付いたことで ”ロチェスター・シーグラムス” という名前でスタート。

36年にエバー・ブラザーズ(酒、果物、野菜などの卸売業者)がチームを手に入れ、42年には ”ロチェスター・エバー・シーグラムス” となりました。

この当時はロチェスターの新聞社が酒類の広告を嫌がり、ロチェスター・エバースとも呼ばれています。

 

この頃にはチームの知名度もそれなりにあったようなんですが、40,41年にシカゴ・ワールド・プロバスケットボール・トーナメントに招待されたことで、更に有名に。

(結果は残せなかったんですが、同トーナメントは、NBLのチームやハーレム・グローブトロッターズなど当時の注目チームが参加するような大会だった模様)

 

43年に ”ロチェスター・プロズ” に。

このときには本拠地をエドガートン・パーク・スポーツ・アリーナとし、主に巡業チームと対戦していました。


そして45年、ハリソンはNBLからの誘いを受け、フランチャイズの権利を購入(弟のジャック・ハリソンも協力)。

こうしてセミプロだったロチェスター・プロズは、”ロチェスター・ロイヤルズ”というプロチームに。

ロイヤルズという名前は公募で決まったもので、15歳のアイデアでした。

 

ハリソンは、チーム発足当時は自ら選手としてプレイしており、その後コーチや運営も務め、NBL加盟にあたってリーグのスポンサーにもなるなど(これは兄弟一緒)、チーム黎明期の超重要人物です。

 

【創設メンバーを何人か】

 

セミプロ時代から中心選手のひとりだったアル・セルビ。

高校在学中にNBLのバッファロー・バイソンズからリクルートされ、中退してチーム入り。

バイソンズは37~38シーズン限りで消滅しますが、その後、戦時中はアメリカ陸軍航空軍に在籍しながら、シーグラムスでもプレイしていました。

 

プロズ時代からのメンバーとしてはトミー・リッチという選手も。

コーネル大を卒業後、エンジニアとしてシーグラムスに雇われ、選手としてのキャリアもスタートしました。

 

また、NBL入りに際して、ハリソンが最初に連れてきたうちのひとりがアンドリュー・レヴァーン。

セントジョンズ大のスター選手で、愛称は ”ファジー”。

ファジー・レヴァーンとも表記されます。

 

ハリソンは、集客のためにユダヤ系の選手が欲しいと考えており、勧誘した時点ではレヴァーンのことをユダヤ系だと勘違い(ほんとはイタリア系)。

そこで、ハリソンはレヴァーンに”ユダヤ系の選手を連れてくるように”と頼み、レヴァーンが連れてきたのが、ジャック・ガーフィンケル、レッド・ホルツマンの2人でした。

 

ガーフィンケルはセントジョンズ大出身で、レヴァーンのチームメイトでした。

第二次大戦中は陸軍に在籍しつつ、1年ほどABLでプレイしました。

 

ホルツマンはニューヨーク出身のG。

ボルチモア大に進むもホームシックによってCCNY(シティカレッジ・オブ・ニューヨーク)へ。

ロングアイランド大のクレア・ビーHCに好かれますが、ホルツマンはCCNYのHCを務めるナット・ホルマンに惹かれたようです。

(※ともにこの時代のカレッジ界の名将。のちに2人とも殿堂入りします)

 

学生時代のホルツマンは、夏の間はホテルで働いており、そこで知り合ったのがレヴァーン。

この2人の縁は深く、のちにホルツマンがニックスで働くきっかけを作るのも、レヴァーンです。

 

初代HCはエディ・マラノヴィッツ。

バッファロー大出身で、32年に同大を卒業後は、バッファローのチームとセミプロ時代のこのチームでプレイ。

セルビとは37~38シーズンのNBLのバッファロー・バイソンズ、シーグラムスでチームメイトでした。