ひばち
  • 12Jul
    • 更新×3

      引き続き、キングス・ヒストリーのアップデート版です。よかったらご覧くださいませ。キングス88~89キングス89~90キングス90~91

  • 15Jun
    • 更新×4

      だいぶ前に書いたキングス・ヒストリーをアップデートしまして。よかったらご覧くださいませ。キングス85~86シーズンキングス85~86プレイオフ1stラウンドキングス86~87シーズンキングス87~88シーズン

  • 10Apr
    • 昭和33・34年ドラフト組

      このシリーズ最終回。最後はあの選手にしてみました。ハル・グリアーマーシャル大出身の殿堂入り選手。6フィート2インチのG。58年のドラフト2巡目第6位でナショナルズに入団。以降、73年に引退するまで移籍することなくキャリアを全うした(63~64シーズンからフィラデルフィア・76サーズとなる)。ルーキーの頃は出番が限られていたが、3年目の60~61シーズンから成績を大幅にアップ。平均19.6点をあげ、オールスターにも初選出された。64年にウィルト・チェンバレンが加入するとチームも強くなり、66~67シーズンには優勝。セルティックスの9連覇阻止に成功した。小柄なグリアーの強みはシュート力。FTのときに軽くジャンプする妙な癖もあったが、60年代ではオスカー・ロバートソン、ジェリー・ウェストに次ぐGであった。オールスターには10度出場し、68年には8本のシュートをすべて成功させてMVPを受賞している。故障も少なく、毎年コンスタントに活躍していたグリアーだったが、70年代に入ると衰えが見られるようになり、更にチェンバレンの移籍もあってチーム力もダウン。当時のリーグ最低記録となる9勝73敗に終わった72~73シーズンを最後に現役を引退した。オールNBA2ndチームに7度選出され、通算得点は2万点を超える。カレッジ時代の背番号16、シクサーズでの背番号15は共に永久欠番で、82年に殿堂入り。96年にはリーグ史に残る偉大な50人にも選ばれた。この数々の功績から、グリアーの故郷ウェスト・ヴァージニアには「ハル・グリアー大通り」と名付けられた通りがあるという。ウェイン・エンブリー6フィート8インチのC/F。マイアミ大出身。58年のドラフト3巡目第7位でホークスから指名され、直後にロイヤルズへトレード。以後、69年までをロイヤルズ、セルティックス、バックスでプレイした。61~65年にかけてはオールスターにノ出場しており、68年にはセルティックスで優勝している。引退後は72~77年をバックス、86~99年をキャブス、06年にラプターズでGMを務めた。バックス時代の印象的な人事は、カリーム・アブドゥル-ジャバーの放出(トレードを希望したのはジャバー)。また、のちに繋がったという意味では、ドン・ネルソンの招聘は英断であった。キャブスでは2度エグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど強いチームを創ったが、ブルズを超えることが出来ず、90年代に中盤からは主力の怪我に苦しんだ。ラプターズへは、元々は04年に新人GMロブ・バブコックのアシスタントとして加入。その後、バブコックが解任されたのに伴い、後任がブライアン・コランジェロに決まるまでの約1ヶ月間だけGMを務めた。99年にコントリビューター枠で殿堂入りしている。ベイリー・ハウエル6フィート7インチのPF。ミシシッピ州立大史上、恐らく最も有名な選手。59年のドラフト1巡目第2位でピストンズ入り。1年目から攻守に活躍し、2年目には早くも平均20点・10リバウンドを計算できる選手となった。しかし、この頃のピストンズは弱く、チーム数が少なかったのでプレイオフには出場できることが多かったが、パッとしないシーズンが続いてしまう。64年オフ、デイブ・デバッシャーの加入などもあってか、ハウエルは大型トレードでブレッツへ移籍。ここではウォルト・ベラミーらとチームメイトとなるが、チームとしては上手く機能していなかったようで(プレイオフには出場していた)、65~66シーズン序盤にベラミーが移籍。ハウエルも66年オフにチームを去った。ハウエルの次なる新天地はセルティックス。ジョン・ハブリチェックらがいたことで、それまでに比べて活躍の場は制限されたが、貢献度は高く、68・69年の連覇に貢献している。70~71シーズンをシクサーズで過ごして現役を引退。6度オールスターに選ばれ、97年には殿堂入りも果たしているが、どこのチームでも欠番にはなっていない。フックショットの巧さとリバウンドの強さが売りで、故障が少ないタフな選手でもあった。賢明にプレイする姿から、人としても高評価されていたという。ウィルト・チェンバレンリーグ史上最も支配的だった選手のひとり。7フィート1インチ・250ポンドの巨漢Cで、愛称は「スティルト」「ビッグ・ディッパー」「ゴリアテ」。ペイントエリアのレーンを拡げさせるなど、ルールを変更させるほどの影響力があった。フィラデルフィア出身で、その桁外れさは高校時代から。トム・ゴラが保持していた高校の通算得点記録を破り、ある3試合ではそれぞれ90点・74点・71点をあげたという。カレッジ進学時には200校以上からリクルートされ、カンザス大を選択。のちに殿堂入りするフォグ・アレンHCのもと、52点・29リバウンドという驚異的なデビューを飾っている。56年のNCAAファイナルでは、ノースカロライナ大のフランク・マグワイアHCがチェンバレンを苛立たせるためにチーム最低身長の選手をマッチアップさせたり、トリプル・チームを仕掛けたりと翻弄。そのためかカンザス大は1点差で敗れてしまう。その後、毎晩のようにダブル/トリプル・チームされることに嫌気がさしたチェンバレンは卒業を待たずにプロになることを選択。この頃のNBAはアーリー・エントリーを認めておらず、ABAもまだなく、58年にハーレム・グローブトロッターズの一員となった。そして59年、テリトリアル・ピックでフィラデルフィア・ウォリアーズ入り。カンザスにはNBAチームがなく、オーナーのエディ・ゴットリーブの「チェンバレンはここで育った。カンザスにはチームがない」という主張が通った形となった。因みにこの指名方法が適用されていた当時、大学より前のルーツが考慮された唯一のケースである。ルーキーシーズンは平均38点・27リバウンドを稼ぎ、MVPと新人王とオールスターMVPを受賞。NBAでもすぐにタフなディフェンスやハードなファウルをされるようになり、ルーキーにして「引退を考えている」とコメントしたのもチェンバレンならでは。プレイオフでは、ここから長くライバルとして語り継がれるビル・ラッセルと対戦した(負けてしまうが)。2年目には1年目の成績を上回り、史上初めてシーズン3000点・2000リバウンドをマーク。また、1試合55リバウンドというリーグ記録も樹立した。しかし、プレイオフでは今度はドルフ・シェイズ率いるナショナルズにあっさり敗れてしまう。3年目の61~62シーズン、チェンバレンは史上唯一となるシーズン4000点・平均50点をマーク。プレイングタイムも平均48.5分で、これはシーズン通して8分しか休まなかったことを表している。オールスターでは42点・24リバウンドを稼ぎ、有名な1試合100点の試合もこのシーズンのことであった。ただ、チームとしての成功は掴めず、プレイオフではセルティックスに敗れている。62~63シーズン、チームはフランチャイズをサンフランシスコに移転。チェンバレンは西海岸でも変わらぬ怪物振りを見せたが、このシーズンはチームとして奮わず、なんとプレイオフも逃してしまう。63~64シーズンは一転してファイナルまで進むが、またしてもセルティックスに勝てず、そして翌64~65シーズン途中、遂にチェンバレンはシクサーズにトレードされてしまう。ウォリアーズは財政的に苦しく、それがトレードに繋がったようだが、オーナーのフランク・ニューリンは、チェンバレンがサンフランシスコのファンから好かれなかった旨のコメントもしている。故郷フィラデルフィアに戻ったチェンバレンは、ハル・グリアー、チェット・ウォーカー、ラリー・コステロら名選手とチームメイトになり、自身もそれまでのような成績をマーク。ただ、プレイオフでは相変わらずセルティックスに勝てなかった。翌65~66シーズン、チェンバレンは2度目のシーズンMVPを受賞。そしてこのシーズンのプレイオフ、セルティックスとのマッチアップは大激戦となり、最終第7戦まで突入。しかし、最後はグリアーのパスをハブリチェックにスティールされて万事休す。チェンバレンはこれで、7シーズン中5度あったセルティックスとの対戦すべてに負け、この頃から「敗者」のレッテルが貼られ、また、チームメイトやコーチ、リーグへの批判でイメージは落ちていったという。しかし、当時のアレックス・ハンナムHCは諦めなかった。66~67シーズンを迎えるにあたって、チェンバレンにプレイスタイルを変えるよう要求。ハンナムはチームにグリアーやビリー・カニングハムら得点力のある選手がいることを挙げ、ディフェンスに注力するよう求めた。これを受け入れたチェンバレンは得点こそ落ちるが、リバウンドでリーグ首位、アシストでリーグ3位にランクイン。チームも46勝4敗という好スタートを含む68勝13敗をマーク。チェンバレンは自身3度目のMVPに選ばれ、プレイオフでは遂にセルティックスを破った。しかもあっさり撃破し、ファイナルでは古巣ウォリアーズと対峙。チェンバレンは得点アベレージが20点を割るが、リバウンドは30本近く稼ぎ、勝利に貢献。ようやくチャンピオン・リングを手にした。翌67~68シーズンは4度目のMVPとなり、Cとしては史上唯一のアシスト王にも輝いた。しかし、プレイオフではセルティックスに3勝1敗とリードしたところから逆転負け。最終戦のチェンバレンは「ハンナムにシュートをするな」と言われたとの理由で後半に1本もシュートを打たず、それが影響してかの惜敗であった。シーズン終了後、ハンナムはチームを去ってABAでHCに就任。チェンバレンもトレードを要求し、ダラル・インホフ、アーチ・クラークらと交換でレイカーズへ放出された。このときのトレードは、「フランチャイズの一部をチェンバレンに譲る」という約束をオーナーのイルヴァ・コスロフが破ったからだと言われたが、一方でGMのジャック・ラムジーによれば、ハンナムが去った後に「自分もABAに行く」と脅してきたからだという。レイカーズにはジェリー・ウェスト、エルジン・ベイラーというスターが既におり、3人が噛み合うのか?と心配されたが、リーグ2位タイの55勝27敗をマーク。ファイナルまで進み、破れはしたがセルティックスと最終戦まで戦った。ただ、練習で手を抜いたり、自分のスタッツに拘るチェンバレンはHCのビル・ヴァン・ブレダコルフと対立しており、ファイナル第7戦の終盤に問題が発生。4Q残り6分、チェンバレンは足を痛めてベンチに下げられ、そこからコートに戻らなかった。これについては、ブレダコルフがチェンバレンを戻さなかったという説と、チェンバレンが勝負を諦めて仮病を使ったという説があり、真偽の程は不明だがオフにブレダコルフは職を退いた。因みにこれがラッセルとの最後の対決であった。HCがジョン・マラニーに代わった翌69~70シーズン、チェンバレンは膝の怪我で70試合を欠場するが、シーズン終盤に復帰して猛チャージ。この年もファイナルに進出した。この年の相手はニックス。ウィリス・リード、ウォルト・フレイジャーらを擁するニックスは3勝1敗とリードするが、ここでリードが足首を負傷。レイカーズはシリーズをタイに戻し、最終戦に持ち込んだ。しかしニックスはここでリードが復帰。足は治っておらず、僅か4点だったが、ティップオフでチェンバレンに勝つなど気迫を見せ、それに後押しされるようにニックスが勝利。チェンバレンは21点しか取れなかった。70~71シーズン、レイカーズはゲイル・グッドリッチを獲得するが、エルジン・ベイラーが膝を負傷(のちに引退に繋がる)。プレイオフではルー・アルシンダー&オスカー・ロバートソンのバックスに勝てず、ファイナルにも進めなかった。71~72シーズン、ビル・シャーマンが新HCに就任。シャーマンは朝のシュートラウンドを始め、チェンバレンには、嘗てのハンナムのようにディフェンスに注力するよう要求。チェンバレンは今度も要求を受け入れ、平均得点こそキャリア最低となるが、リバウンドとFG成功率でリーグ首位をマーク。シーズン序盤にベイラーが引退したにもかかわらず、レイカーズは驚異的な強さを見せ、リーグ記録の33連勝を含む69勝13敗をあげた。プレイオフではブルズ、バックスを下し、ファイナルではニックスにリベンジ。レイカーズはロサンゼルスに移転して以来初の優勝を飾り、チェンバレンはMVPに輝いた。翌72~73シーズン、チェンバレンは再びリバウンドとFG成功率でリーグ首位に立ち、レイカーズもファイナルに進出。しかし、アール・モンローを加えたニックスに敵わず、1勝4敗で敗れた。そしてこれがキャリア最後のシーズンとなる。73年オフ、チェンバレンはABAのサンディエゴ・コンキステイダーズと選手兼HCとして契約。ところがまだレイカーズとの契約が残っており、レイカーズはそれを妨害。チェンバレンはHCとして1シーズン過ごし、シーズン終了後に現役を引退した。チームはプレイオフに進んだが、チェンバレン自身はあまりコーチしていなかったようである。得点で7度、FG成功率で9度、リバウンドで11度、アシストで1度リーグ首位に立ち…他にも樹立した記録や受賞した賞は数え切れない。ただ、何度もファイナルまで進むも優勝は2回だけで、ファイナルMVPも一度だけ(72年)。宿敵とされたラッセルとも、8度対戦して勝ったのは一度であった。FTが苦手だったことも有名で、通算の成功率は5割程度。背番号13は、ハーレム・グローブトロッターズ、ウォリアーズ、シクサーズ、レイカーズ、カンザス大で欠番になっている。引退後も話題は豊富で、79年に当時ルーキーだったマジック・ジョンソンをこてんぱんにしたり、80~81シーズンには45歳にしてキャブスから現役復帰のオファーを受けたりもした。80年代中頃にはネッツも同様の案を持っていたようだが、どちらも実現には至らなかった。また、現役時代にモハメド・アリと戦うオファーが来たこともあったという。私生活は自由奔放だったようで、シクサーズ時代、ラムジーは繁華街を歩くチェンバレンを呼び戻すこともあったとか。91年に出版した著書の中で「2万人の女性と寝た」とカミングアウトしたのは有名(現実的に信憑性は薄い)。99年に心臓の病気で逝去。まだ63歳だった。「僕らの激しい対決には永遠に続く絆があった」とはラッセル。ジェリー・ウェストは「とても支配的なヤツなんだけど、親しみやすくて面白くもあった」としていた。

  • 01Apr
    • 昭和25年ドラフト組

      ボブ・クージー6度の優勝に13度のオールスター出場、12度のオールNBAチームに1度のMVP(57年)、8度のアシスト王と華々しいキャリアを過ごしたPG。その独創的なボール・ハンドリングやパスのスキルなどから、奇術師ハリー・フーディニ―の名を使って「フーディニ―・オブ・ハードウッド」と呼ばれた。71年に発表された偉大なる25人、81年の偉大なる35人、96年の偉大なる50人のすべてに選出された4人のうちのひとりでもある。フランス出身。高校時代はチームから2度カットされるなど苦労を経験。おまけに右手を骨折するアクシデントにも見舞われるが、このとき左手でプレイしたことがスキルアップに繋がったようで、本人も「幸運な出来事」と回想している。46年にホーリー・クロス大に進むが、ここでアルビン・ジュリアンHCと衝突。当時、バスケットというのはゆっくりとしたテンポで進み、着実なショットを狙うのが一般的であり、クージーの魅せるドリブルやパス、ストリート・バスケットのようなアップテンポなスタイルは「目立ちたがり屋」と解釈され、出場時間も制限されてしまう。ただ、ファンはクージーのプレイを認めていたようで、ある試合の終盤、負けていたホーリー・クロス大のファンが「クージーを出せ!」とコール。コートに立ったクージーはブザービーターを含む11点を稼ぎ、チームは逆転勝利。50年のドラフトの際も、地元ボストンのファンはクージーの指名を望んでいたという。しかし、ドラフトでセルティックスが指名したのはチャーリー・シェアというCだった。GMレッド・アワーバックのお気に入りだったようで、「私は田舎ものが欲しいのではなく勝ちたいんだ」とコメント。地元紙はこれを批判したが、「華やかだが勝利には効果的ではない」と懐疑的な見方もまだ少なくなかったようである。結果として1巡目第3位でブラックホークスに指名されるが、当時自動車学校に通っていたクージーは地元を離れることを拒否。そして、自動車学校を諦める代わりに1万ドルをチームに要求するが破綻。そしてシカゴ・スタッグスに拾われた。ところがスタッグスはすぐ消滅してしまい、クージーはディスパーサル・ドラフトでセルティックス入りが決定。このとき、マックス・ザスロフスキー(前シーズンのスタッグスの得点王)、アンディ・フィリップも指名対象であり、セルティックスのウォルター・ブラウン・オーナーはクージーに決まったときには床に崩れ落ちたという。が、クージーはすぐに実力を発揮する。エド・マカウリーらと共にチームを牽引し、いきなりプレイオフ進出に貢献。2年目にはビル・シャーマンが加わって戦力はアップ。クージー自身はオールNBA1stチームに選出された。3年目には平均7.7アシストをマークしてアシスト王となり、そのクージーを中心としたテンポの速いバスケットを駆使したセルティックスは46勝をあげた。プレイオフでは、ナショナルズとのシリーズでクージーが大活躍。足を怪我しながらも4Qまでに25点をあげ、1stオーバータイムでは最後のシュートをヒット。2ndオーバータイムではチームの全4得点をあげ、3rdオーバータイムで8点を加え、4thオーバータイムでは勝負を決める最後の大事なショットを決め、大激戦を制す立役者となった(次のラウンドでニックスに敗れる)。この試合のクージーは50点をあげ、FTも32本中30本成功させている。続く3シーズンで、クージーはリーグ最高のPGとしての地位を確立。すべてのシーズンでアシスト王に輝き、それ以外にも平均20点・7リバウンドをマークするなど、オールラウンドに活躍した。54年にはオールスターMVPも受賞している。また、この時期にはフランク・ラムジー、ジム・ロスカトフといた強力なFも加入。特にロスカトフはボブ・ブランナムと共にクージーのボディガード的な存在となった。クージーのスタイルは、ビッグマンや堅実なセットシューターが主導権を握っていた当時のNBAでは異質で、ファンはそれに熱狂した。しかし、チームはプレイオフで勝てず、この3シーズンともドルフ・シェイズ率いるナショナルズに敗れてしまう。56年、GMのアワーバックは打開策としてドラフトでビル・ラッセルを獲得。また、トム・ハインゾーン、KC・ジョーンズも併せて獲得した。この人事が当たったセルティックスは44勝をあげ、クージーはMVPを受賞。プレイオフではファイナルでボブ・ペティットら率いるホークスを破り、チャンピオンとなった。翌57~58シーズンはラッセルの故障もあって連覇こそ逃すが、ファイナルには進出。翌58~59シーズンは再びチャンピオンとなった。このシーズンのクージーは1試合28アシスト、レイカーズとのファイナルではシリーズで51アシストという記録も樹立。後者は、4試合で終わったシリーズにおいては今も最多記録である。59~60シーズン、8度目のアシスト王になり、セルティックスもまた優勝。32歳となった60~61シーズンはアシスト王こそ逃すが、チームは依然として強く、チャンピオン・リングをもうひとつ増やした。61~62シーズン、初めてスタッツに衰えが表れるが、それでもセルティックスが強さを保つには充分で、また優勝。この年はチェンバレンのウォリアーズ、ジェリー・ウェスト&エルジン・ベイラーのレイカーズを下しての優勝だった。そして62~63シーズンを最後に現役を引退。この年も優勝しており、クージーは、レイカーズとのファイナルでは足を負傷しながらもプレイ。引退セレモニーではケネディ大統領がコメントを寄せたという。引退後はボストン・カレッジなどで指揮を執るが、そのレベルに飽き、69~70シーズンにロイヤルズのHCとしてNBAに復帰。これには「オスカー・ロバートソンの指導をして欲しい」というチームの意図があったようで、クージーはのちに「お金のために引き受けた。断れないオファーだった」と回想している。因みにこのシーズンはチケットの売り上げを伸ばすため、41歳にして、7試合だけだが現役に復帰している。往年のプレイには程遠かったようだが、チケットの売り上げは77%も跳ね上がったという。コーチとしてのクージーは冴えず、まず肝心のロバートソンと上手くいかず、ロバートソンは70年オフにバックスへトレードで放出。チームも勝ち星は増えず、73~74シーズン序盤に職を退いた。その後はサッカー・リーグのコミッショナーを務めたこともあるとか。最初の引退時、オーナーのウォルター・ブラウンは「クージーがいなければうちのチームはここにいなかった。彼がもしニューヨークでプレイしていたら、ベーブ・ルース以来の大物になっていただろう」と最大級の賛辞を送っている。背番号14はもちろん永久欠番で、71年には殿堂入り。人種差別に批判的で、クージーと同期入団のチャック・クーパー(史上初の黒人選手)がホテルへの宿泊を拒否された際、クージーはクーパーと共に夜行列車に乗ることを選んだ。のちに「クーパーが、白人のために清潔感を保つという理由でトイレや風呂を別にされていたのは、生涯で最も恥ずべき経験だった」としている。チャック・クーパーNBA史上初の黒人選手となった3人のうちのひとり。厳密には、史上初めてドラフト指名された黒人選手がクーパーであり、初めてNBAチームと契約を結んだのがナット・クリフトンであり、初めてプレイしたのがアール・ロイドとなる(因みにクーパーがその1日後、クリフトンが4日後にデビューしている)。そんなわけで50年のドラフト2巡目でセルティックス入りしたクーパーは、53~54シーズンまで在籍。54年にはホークス、55~56シーズン途中にはピストンズへ移籍した。6フィート5インチのF。当時は記録が残っていないが、スティールやブロックを多く稼いでいたと考えられているとか。ステュ・インマンサンノゼ州立大出身。50年のドラフト6巡目でシカゴ・スタッグスに指名されるがプロでプレイはせず、高校でコーチとしてのキャリアをスタートさせた。そして69年、新たに創設されるブレイザーズのチーフ・スカウトに就任。ブレイザーズはドラフトでジェフ・ペトリー、ビル・ウォルトンらの指名に成功し、それらが実って77年には優勝している。81年にはGMに就任。85年に職を退くが、在任中にはクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターらを指名し、80年代後半~90年代前半にかけてウェスト有数の強豪となるチームの土台を創った(優勝はできなかった)。84年のドラフトで、1巡目第2位でサム・ブゥイを指名したGMとしても有名。ただ、前年のドラフトでドレクスラーを指名していたり、続く3位指名がよりによってマイケル・ジョーダンだったり、と不運だった面もある。ブレイザーズ以外にバックスやヒートでもフロントに入っていたことがある。71~72シーズンにはローランド・トッドの後任として暫定HCを務めたこともある。ビル・シャーマン第二次世界大戦のときには44~46年まで米海軍に参加。終戦後、サザン・カリフォルニア大でプレイし、50年のドラフト2巡目でキャピタルズに入団。1シーズン過ごした後にチームが消滅し、セルティックスへ加入した。シャーマンは6フィート1インチの優秀なシューターで、クージーと強力なバックコートを形成。FT成功率で7度もリーグ首位に立ったほか、FGも高確率であった。プレイオフでのFT56本連続成功という記録も保持している。オールスター、オールNBAチームはもちろん常連。61年に現役を引退した。引退後はコーチとして活躍。70~71シーズンにABAのスターズを優勝に導き、自身はコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞。翌71~72シーズンはレイカーズのHCとなり、リーグ記録となる33連勝を含む69勝13敗をマークして優勝。このときもコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。ABAとNBAの両方で優勝を経験し、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのはシャーマンとアレックス・ハンナムだけである。76年には選手として、04年にはコーチとして殿堂入り。この偉業を達成したのは僅か3人目であった。野球も上手かったようで、50~55年までマイナー・リーグのブルックリン・ドジャースに所属していたこともある。

  • 27Mar
    • 昭和21・24年ドラフト組

      ジョージ・ノストランドワイオミング大出身のC/F(6フィート8インチ)。46年にトロント・ハスキーズでデビュー。ルーキーシーズンはクリーブランド・レベルズでもプレイし、オフにはプロビデンス・スティームローラーズに移籍。48~49シーズン途中からセルティックス、49~50シーズンをセルティックス、ブラックホークス(現ホークス)、シカゴ・スタッグスでプレイし、キャリアを終えた。デビュー戦のハスキーズvsニックスはNBA(当時はBAA)初の試合でもあった。ジョー・ファルクス最初のハイスコアリングF。殿堂入りを果たした最初のひとりでもあり、BAAと呼ばれた当時のリーグで、当時最多であった1試合63点をマークしたこともある。因みにこの記録は59年まで破られなかった(破ったのはエルジン・ベイラー)。マレー州立大出身で、46~47シーズンにウォリアーズでデビュー。チームがリーグ初代チャンピオンとなる原動力となった。個人としてもリーグ初代得点王に輝いている。ジャンプショットが上手かったことから「ジャンピン」ジョー・ファルクスと呼ばれたが、ドライブや他のプレイも上手かったという。近代のジャンプショットの先駆者とも言われ、61年にはNBA25周年の記念チームにも選出された。76年に銃殺されて亡くなった。ドン・オッテンボウリング・グリーン州立大出身のC(6フィート10インチ)。46年にBAAではなく、NBLのブラックホークス(現ホークス)でデビューし、48~49シーズンには平均14点をあげてMVPに輝いた。49年にチームがNBAに加盟。以降はキャピタルズ(現ウィザーズとは無関係)やピストンズなどを渡り歩き、52~53シーズンを最後にキャリアを終えた。ブラックホークス時代の49年11月24日のシェボイガン・レッドスキンズ戦で1試合8ファウルという記録を樹立している(当時は6ファウルでファウルアウトというルールがなかった)。スレイター・マーティン5フィート10インチのG。49~50シーズンにレイカーズでデビューし、以降55~56シーズンまで同チームに在籍。ジョージ・マイカンと共に4つのチャンピオン・リングを獲得した。56年オフにニックスに移籍し、シーズン途中には更にホークスへ移籍。そして今度はボブ・ペティットと共にチームを牽引し、ここでもまたチャンピオンとなった(58年)。ディフェンシブなGとして知られ、オールスターには7度出場。59~60シーズンでキャリアを終えた。82年に殿堂入り。

  • 26Mar
    • 昭和30・31・32年ドラフト組

      モーリス・ストークスセント・フランシス大出身で55年のドラフト1巡目第2位でロイヤルズに入団。F/Cとしては小柄(6フィート7インチ)だったがインサイドに強く、ルーキー・シーズンから1試合38リバウンドを稼ぐなど活躍。新人王に輝き、2年目にはリバウンド総数でリーグ首位となった。しかし、そのキャリアは突然幕を閉じてしまう。チームがフランチャイズをシンシナティに移した57~58シーズンの終盤、ミネアポリスでの試合中、ゴールに向かってドライブしたストークスは相手チームの選手と接触してフロアに倒れ、その際に頭を打った。一時的に意識を失ったストークスは気付薬で目を覚まし、この試合は復帰。その三日後に行われた試合でも12点・15リバウンドと元気な姿を見せるのだが、その試合後の飛行機の中で「死にそうだ」とチームメイトに漏らすと、しばらくして昏睡状態に。そして「外傷後脳症」と診断された。その後はチームメイトであり、長年の友人でもあったジャック・トゥワイマンのサポートも受けていたが、36歳のときに心臓発作で逝去。生前のストークスの要望で、その遺体はセント・フランシス大のキャンパスに埋葬され、その生涯は『モーリー』という名で73年に映画化もされた。キャリアは3シーズンだったが、そのすべてでオールスターとオールNBA2ndチームに選出されており、04年には殿堂入りも果たした。トム・ゴーラ6フィート6インチのFでラサール大出身。55年のドラフトで、テリトリアル・ピックでウォリアーズに入団した(当時のフランチャイズはフィラデルフィア)。ウォリアーズでは、ネイル・ジョンストンや高校の先輩にあたるポール・アリジンらとチームメイトになり、いきなり優勝を経験。この2人は得点力が高く、ゴーラはディフェンスやリバウンド、パスなどオールラウンドに貢献していた(もちろん得点も取っていたが)。59年にジョンストンが膝の故障で引退するが、翌年にチェンバレンが加入。ウォリアーズは再びファイナルに返り咲くが、セルティックスには勝てなかった。その後62~66年はニックスでもプレイしている。学生時代からオールラウンダーとしての評価が高かった選手。引退後は母校ラサール大のHCとなり、同大のアリーナは「トム・ゴーラ・アリーナ」と呼ばれている。76年に殿堂入り。トム・ハインゾーン56年にセルティックス入りしたF。1年目から活躍を見せ、オールスター出場と新人王受賞を達成。チャンピオン・リングも獲得した。その後、セルティックス一筋で9シーズンプレイ。キャリアはセルティックスの黄金期と重なり、9シーズン中8シーズンで優勝している。30歳で引退し、69~70シーズンからはセルティックスのHCに就任。72~73シーズンには68勝14敗をマークしてコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞。黄金期とはいかなかったが、74年と76年には優勝もしている。81年にはコーチ業から退き、コメンテーターへ。熱狂的な実況で知られる。背番号15はセルティックスの永久欠番。オールスターには6度出場した。選手会の2代目会長でもあり(初代はボブ・クージー)、64年のオールスターの際にはF制度をリーグに認めさせるために「受け入れてくれないならストをする」と交渉に入ったこともあった。86年に選手として殿堂入り。K.C.・ジョーンズサンフランシスコ大出身。当時はビル・ラッセルとチームメイトで、55・56年と同大をチャンピオンに導いた。56年のメルボルン・オリンピックでもラッセルと共にプレイしている。55年のドラフトでレイカーズ、翌56年のドラフトでは2巡目でセルティックスから指名されるが、兵役があったりフットボールをプレイしたりと、NBA入りは58~59シーズンとなった。因みにラッセルは56年にセルティックス入りしている。ジョーンズはディフェンダーとして知られ、9シーズンのキャリアをセルティックスで全う。59~66年の8連覇のすべてに関わっているのは、ジョーンズとラッセル、サム・ジョーンズの3人だけである。67年に現役を引退。その後はまずABAのサンディエゴ・コンキステイダーズのHCとなり、73年にはNBAでキャピタルズ(現ウィザーズ)のHCとなった。ここでは75年にチームをファイナルまで導いている。83年にはビル・フィッチの後を継いでセルティックスのHCに就任。ラリー・バードを中心にチームを2度のチャンピオンに導いている。90・91年にはソニックスでもHCを務めたが、このときは結果を残すことが出来なかった。96~98年にはABLでもコーチを務めている。89年に選手として殿堂入り。アフリカ系アメリカ人で優勝を経験した、数少ないHCでもある(ラッセルもそのひとり)。K.C.とはこれがそのまま本名である。ウッディ・サルズベリーテキサス・サザン大出身で、57年のドラフト8巡目第5位でウォリアーズに入団。6フィート7インチのF/Cだったサルズベリーは得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、黒人選手としては2人目となる新人王を受賞した。2年目にはオールスターにも出場するなど順調なキャリアを歩んでいたが、59年にチェンバレンが加入したことで状況は一変。60年にはホークスへ移籍し、翌61~62シーズン途中にはパッカーズ(現ウィザーズ)へトレードされた。因みにパッカーズは当時エクスパンション・チームであった。62~63シーズン途中にはホークスへ出戻り、シーズン終了後には現役を引退。65~66シーズンにセルティックスで3シーズンぶりの復帰を果たすが、そのシーズン限りで改めてキャリアを終えている。ハーレム・グローブトロッターズにも在籍したことがある。サム・ジョーンズ6フィート4インチのスウィングマン。ノースカロライナ・セントラル大の出身で、そこでは後に殿堂入りもするジョン・マクレンドンHCの指導を受けていた。56年のドラフトではレイカーズに指名されるが、兵役のためにカレッジに戻ることになり、翌57年に今度は1巡目第8位でセルティックスに指名されてプロ入り。以降、引退までの12シーズンをセルティックス一筋で過ごした。チームメイトのKC・ジョーンズとのコンビは「ジョーンズ・ボーイズ」と呼ばれ、強力であった。4シーズン目頃から徐々に活躍の場を増やし、60年代後半の8連覇には主力として貢献。勝負所に強いスコアラーで、キャリア通算は1万5000点を上回る。チームの得点王にも3度なった。オールスターには5度出場し、65~67年は3年連続でオールNBA2ndチームにも選出された。現役時代に経験した優勝回数は8連覇を含む10回で、これを上回るのはビル・ラッセルだけである。シュート・フォームの美しさでも知られ、「ザ・シューター」とも呼ばれた。当時のNBAでは、ジョーンズはGとしては大きく、走れてリバウンドも取れる大型Gのはしりともされる。84年に殿堂入りし、96年にはリーグ史に残る偉大な50人にも選ばれている。

  • 15Mar
    • 昭和35・36・37年ドラフト組

      ダラル・インホフウィルト・チェンバレンが100点をあげた試合で、対戦相手のニックスのスターティングCを務めていた選手。カリフォルニア大バークレー校出身で、当時からリバウンド、ブロックの評価は高かった。60年にはローマ・オリンピックの代表メンバーにも選ばれている。60年のドラフトでは1巡目第3位でニックス入り。しかし、ニューヨークでプレイするというプレッシャーのためか、大きく期待を裏切ってしまう。そして62年にはピストンズへ放出された。クイックネス不足とシュートのまずさは相変わらずだったが、賢明にプレイする姿を評価され、ニックス時代よりは多くのプレイングタイムを得た。64年に移籍したレイカーズでも重宝され、65年にはファイナル進出に貢献。66~67シーズンにはスターターへ。成績も伸ばし、オールスターにも初出場した。しかし、プレイオフではウォリアーズのネイト・サーモンド相手に苦戦。翌68年もファイナルでセルティックスのビル・ラッセルに歯が立たず、オフにはウィルト・チェンバレン獲得のためのトレードでシクサーズへ放出された。2シーズン過ごした後、ロイヤルズへ移籍。71~72シーズン序盤に解雇されるが直後に創設間もないブレイザーズに拾われ、シーズン終了まで在籍した。スターCのいない強豪のCといったところ。レイカーズではジェリー・ウェスト、エルジン・ベイラー、シクサーズではビリー・カニングハム、ハル・グリアーらとチームメイトであった。レニー・ウィルケンス89年に選手として、98年にコーチとして殿堂入り。この両方で殿堂入りしたのはジョン・ウッデン、ビル・シャーマンを含め、3人しかいない。プロビデンス大出身のPGで、同大では背番号14は欠番。60年のドラフトでは1巡目第6位でホークスに入団。20試合しか出られなかった2年目を除けば毎年コンスタントな活躍を見せ、特にホークスで最後のシーズンとなった67~68シーズンにはMVP投票で2位になった(1位はチェンバレン)。68年オフに創設間もないソニックスに移籍。ここでは、69~70シーズンから選手兼HCを務めた。因みに選手として活躍の場が減っていたわけではなく、70年にはアシスト王になっている。72~74シーズンをキャブス、74~75シーズンをブレイザーズ(選手兼HC)で過ごし、現役を引退。当時はオスカー・ロバートソンに次いで、史上2番目に偉大なプレイメイカーという評価を受けていたようである。引退後はもう1シーズン、ブレイザーズのHCを務めた。77年にソニックスのHCに就任すると、このときはいきなりファイナルに進出。翌79年にはチャンピオン・リングを獲得した。ソニックスで8シーズンを過ごした後、86年にはキャブスのHCに就任。今度は低迷していたチームをマーク・プライス、ブラッド・ドアティらを中心に再建に成功。ただ、マイケル・ジョーダン率いるブルズの壁を越えられず、最高でカンファレンス・ファイナルまでしか進めなかった。93年からはホークスのHCに就任。スティーブ・スミス、ディケンベ・ムトンボらを徐々に加え、またしても強いチームを創った。しかしここでもプレイオフで勝てず、00年に解任。そして次はラプターズのHCに就任した。ここでは就任1年目にいきなりカンファレンス・セミファイナルまで進むが、続く2シーズンはエースのヴィンス・カーターの故障などがあり、プレイオフにすら進めなかった。03~04シーズン途中にはニックスのHCに就任し、なんとかプレイオフ進出を決めるが、1stラウンドであっさり敗退。翌04~05シーズン途中に解任され、HCを引退した。通算勝利数1332で史上2位、通算配線数1155で史上1位と息の長いキャリアを送った。96年にはアトランタ・オリンピックでドリーム・チームⅢのHCも務めた。HC勇退後は古巣ソニックスのオーナー・グループのバイス・チェアマンとなり、そこから社長に昇格。その後は解説者としても活躍した。ラリー・シーグフリードオハイオ州立大出身のG。カレッジ時代はジェリー・ルーカス、ジョン・ハブリチェックとチームメイトだった。61年のドラフト1巡目第3位でロイヤルズに指名されるが、その年、オハイオ州立大がシンシナティ大に敗れたことから入団を拒否。そしてABLのクリーブランド・パイパーズに入団した。因みに、ロイヤルズはオスカー・ロバートソンとのコンビを期待していたようである。のちにヤンキースのオーナーとなるジョージ・スタインブレナーがオーナーだったパイパーズにはディック・バーネット、コニー・ダーキングといったスターがおり、シーグフリードは控えであった。そして翌年にはABLが潰れてしまう。シーグフリードはここでNBAのホークスと契約を結ぶが直後に解雇され、引退を考えたという。しかし、当時セルティックスにいたハブリチェックが「シーグフリードにセルティックスのワークアウトを受けさせて欲しい」とフロントに直訴したことでセルティックス入りが実現。以降、7シーズン在籍し、5度の優勝を経験した。ディフェンスとFTの巧さ(2度リーグ首位に立っている)には定評があり、特に68年と69年の優勝に貢献している。最後の2シーズンをロケッツ、ホークスで過ごし、キャリアを終えた。因みに60年のローマ・オリンピックでは代表選考のトライアウトを受けたが、外されている。ジョン・ハブリチェックセルティックス一筋で16シーズンプレイし、計4度の優勝に貢献したF。オハイオ州立大出身で、ジェリー・ルーカス、ボビー・ナイトらと共に60年のNCAAチャンピオンに輝いている。62年にドラフト1巡目第7位でセルティックス入り。因みにこのときNFLのクリーブランド・ブラウンズからも指名されており、ブラウンズのトレーニング・キャンプに参加した後にセルティックスに来た。当時のレッド・アワーバックHCはハブリチェックを「チームのガッツ」と評し、実際にも、スタミナのある非常にタフな選手であった。キャリア序盤はトム・ハインゾーンらがいたためか、6マン的な起用をされていたが、貢献度は高く、スターターと遜色ない活躍をしていた。キャリア後半はスターターとしてプレイ。プレイングタイムは平均40分を超えるなど、今度はエース的存在としてチームを引っ張った。通算得点と出場試合数はセルティックスの歴代1位。タフさやディフェンスを高く評価されているが、得点力も高く、キャリアハイは平均28.9点。16シーズン連続で1000点以上あげた史上初の選手でもある。74年のファイナルでは延長における最多得点(9点)をマークし、MVPにも選ばれた。オールスターには13度出場している。名場面として知られるのが65年のカンファレンス・ファイナル最終戦のスティール。セルティックスは残り5秒で1点ビハインドだったが、ここでハブリチェックが、チェット・ウォーカーをマークしながらもインバウンド・パスをカット。ボールはそのままサム・ジョーンズに渡り、逆転勝ちに繋がった。この試合をコールしていたレフェリーのアール・ストームは「32年試合を見てきて、最も偉大なプレイのひとつだった」としている。背番号17はもちろん永久欠番。84年には殿堂入りもしている。愛称は「ホンドゥ」。ドン・ネルソン62年のドラフト3巡目第19位でシカゴ・ゼファーズ(現ウィザーズ)に入団。63年からの2シーズンをレイカーズで過ごした後、セルティックスと契約を結んだ。すぐにロールプレイヤーとして活躍したネルソンは66年の優勝に貢献。その後も、68、69、74、76年と優勝を経験しており、特に68~75年頃は6マンとして活躍。74~75シーズンにはFG成功率でリーグ首位に立っている。FTはワンハンドで打つのが有名。背番号19は78年にセルティックスの永久欠番になっている。76年からコーチとしてのキャリアをスタート。まずバックスでHC兼GMに就任したネルソンは、在任中の10シーズン中7シーズンで50勝以上をマークし、83年と85年にコーチ・オブ・ザ・イヤーに輝くなど、一定の成果を挙げた。ネルソンのスタイルのひとつである「ポイント・フォワード」の概念は当時からで、バックスではポール・プレッシーにこの役割を任せ、シドニー・モンクリーフ、クレイグ・ホッジス、リッキー・ピアースら得点力のあるGを同時に起用していた。続いてウォリアーズで再びHC兼GMの職に就くと、ここでは徹底してラン&ガンのスタイルを確率。ティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリン、サルナス・マーシャローニスといった得点力の高い選手たちを活かし、また6フィート8インチのロッド・ヒギンズをCに据えるなど独自のラインナップも機能していた。しかし、90年代になるとトレードの失敗や、クリス・ウェバーら若手選手との関係性の悪さが目立つようになり、94~95シーズン半ばに退陣。翌シーズンはニックスのHCとなるが、ここでは1シーズン持たずに解任。ユーイングを放出しようとしたり、スタークスを先発から外したり、アンソニー・メイスンをオフェンスの起点にしたり、という新たな試みは上手くいかなかった。96~97シーズン途中にはマブスのフロント入り。トレード期限にチームを一度解体し、97~98シーズンからはHCとなった。当初は弱小チームだったが、マイケル・フィンリー、スティーブ・ナッシュ、ダーク・ノヴィツキーらを中心に据え、積極的に補強。その結果、当時強豪であったレイカーズやスパーズ、キングスとやり合える数少ないチームとなった。その後はエイブリー・ジョンソンにHCの職を譲って、自身はフロントへ勇退。そして今度は古巣ウォリアーズの再建に乗り出した。HC就任1年目の06~07シーズン、第8シードでプレイオフに滑り込み、1stラウンドでこれまた古巣のマブスを破ったのは記憶に新しい。ただ、その後は思うように勝てず、2010年を最後にチームを去った。2018年現在の通算最多勝HCだが、コーチとしては、優勝経験もファイナル進出経験もない。94年にトロントで開催された世界選手権では金メダルを獲得している。

  • 14Mar
    • 昭和38年ドラフト組

      時代を遡るにつれ、画像探しが難しくなってきました。アート・ヘイマン6フィート5インチのスウィングマンでデューク大出身。NCAAトーナメントでは勝てなかったが、個人賞は幾つも受賞している。63年のドラフトでは1巡目第1位でニックス入り。オール・ルーキー・チーム入りするが2年目はイマイチで、3年目の65~66シーズンをロイヤルズとシクサーズで過ごすと、そこから1シーズンのブランクを空け、67年オフにABAのニュージャージー・アメリカンズ(現ネッツ)と契約を結んだ。ABAはこの年できたばかりの新リーグ。ヘイマンはシーズン中にパイパーズへ移籍するが、20点以上のアベレージをマークするなど中心選手として活躍。ABAの初代チャンピオンとなった。69~70シーズン途中でマイアミ・フロリディアンズへ移籍し、シーズン終了後にキャリアを終えた。カレッジ時代の背番号25は90年に欠番となっている。ネイト・サーモンド愛称は「ネイト・ザ・グレート」。ペティット、チェンバレン、ジャバーといった名だたるビッグマンたちを苦しめた選手である。高校時代はガス・ジョンソンとチームメイトで共に活躍。それを認められてオハイオ州立大から声をかけられるが、ジェリー・ルーカスの控えになることに懸念を抱き、それをパス。マイナーなボウリング・グリーン州立大を選択した。63年のドラフトでは1巡目第3位でウォリアーズ入り。チームにはチェンバレンがいたが、ルーキーシーズンから存在感をアピールし、オール・ルーキー・チームに選出された。チェンバレンがシクサーズへ移籍するとスターティングCとなり、特に66~68年にかけてはラッセル、チェンバレンに次ぐ成績を残すなどプライムタイムを迎えた。67年にはMVPの投票で2位となっている(1位はチェンバレン)。もちろんオールスターの常連でもあり、個人成績も申し分なかったサーモンドだが、チームとしての成功には恵まれなかった。リック・バリーやルーカスらとチームメイトになったこともあるが、優勝には手が届かず、74~75シーズンの開幕前、遂にブルズへトレードされてしまう。ブルズではデビュー戦でクアドゥルプル・ダブルを達成したのがハイライト。若手の台頭などもあって出番は限られており、翌シーズン序盤には今度はキャブスへトレードされた。34歳となったサーモンドだったが、このときは故障したジム・チョーンズの代役を担い、チームのカンファレンス・ファイナル進出に貢献している。リバウンドとディフェンスに定評があり、パスやスクリーンといったチームプレイの巧さも評価が高かった。1Qで18リバウンドというのはリーグ記録。背番号42はウォリアーズとキャブスで欠番となっている。エディ・マイルス6フィート4インチのGで、高校時代にはそのシュートの巧さから「黄金の腕を持つ男」と呼ばれた。高校卒業時には50ものカレッジからリクルートされたが、マイルスはエルジン・ベイラーの母校であるシアトル大を選択した。63年のドラフトでは1巡目第4位でピストンズ入り。以降7シーズン半を過ごし、ブレッツ、ニックスでもプレイした。71~72シーズン中にアキレス腱を負傷し、それが元で現役を引退。キャリア平均は13.4点。66年にはオールスターにも選ばれている。ガス・ジョンソン6フィート6インチ・235ポンドのPFで前歯にある金歯がトレードマーク。跳躍力と強さが秀でており、身体能力に恵まれていた。高校時代はネイト・サーモンドとチームメイトで、もちろん当時から活躍していたが、当時はまだ人種差別の色が強く、黒人のジョンソンはあまりリクルートされなかった。そこでジョンソンは、ジュニア・カレッジを経てアイダホ大へ編入。ここで、HCのジョー・シプリアーノから「ハニーコム」という愛称を付けられた。因みにクレイトン大のポール・サイラスとはライバル関係だったという。63年のドラフトでは2巡目第2位でブレッツ入り。得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、新人王争いではジェリー・ルーカスに次いであと一歩というところまで迫った。このルーカスとジョンソン、そして旧友サーモンドはライバルであり、特にルーカスの影響でジョンソンが過小評価されるという向きもあったようである。インサイドでもミドルレンジでもオープン・コートでも魅力的な選手で、その動きの良さはジュリアス・アービングらと比較されるほど。複数のポジションを守ることが出来、リバウンドも優れていた。難点は故障の多さ。特に慢性的な膝の故障を抱えていたという。68~69シーズンにはリーグ最高勝率をマークするが、ジョンソンは怪我でシーズン途中に離脱。プレイオフでも復帰できず、ブレッツは早々に敗退した。71年には初のファイナル進出を経験するが、このときもプレイオフで故障に苦しみ、カンファレンス・ファイナルとファイナルではそれぞれ2試合ずつしかプレイできなかった(バックスに敗れる)。そして33歳となった71~72シーズン。39試合しか出られず、スタッツも大きくダウン。オフにはサンズと契約を結んだ。しかし、すぐに解雇されてしまい、シーズンの残りをABAのペイサーズでプレイ。ここで優勝を経験し、現役を終えた。オールスターに5度、オールNBA2ndチームに4度、ディフェンシブ1stチームに2度選出されており、背番号25はブレッツの欠番。また、ダンクも有名で、3度バックボードを粉砕したことがある。故障でキャリアが制限されたためか、リーグ史に残る偉大な50人は選ばれず、殿堂入りもルーカス、サーモンドに比べて遅かった。87年に48歳で逝去。

  • 12Mar
    • 昭和28・29年ドラフト組

      レイカーズのシーズンは一足早く終わってしまいました。ある意味で、99年にファンになって以来、いちばん残念なシーズンだったかもしれません。ボブ・ペティットもしかしたらホークス史上最高の選手。PF。高校時代は、最初はチームに残ることさえ危うい実力しかなかったが、父親に練習に行かされて上達し、最終的にはチームを優勝に導くほどになったという。ルイジアナ州立大では、同大をチーム史上初のファイナル4に導き、卒業した54年には背番号50が永久欠番となった。54年のドラフトでは1巡目第2位でホークス入り(当時のフランチャイズはミルウォーキー)。すぐに活躍し、新人王を獲得した。チームがセントルイスに移転した55~56シーズンには、得点王とリバウンド王に輝き、シーズンMVPとオールスターMVPも受賞(58・59・62年にも受賞)。58年にはクリフ・ヘイガン、エド・マコーリーらと共にチームを牽引し、ホークスに初の優勝をもたらした。因みにこのときは、ビル・ラッセル擁するセルティックスが相手で、この2チームの対戦でホークスが勝ったのはこのとき限りである。58~59シーズンには再び得点王となり、シーズンMVPも受賞。60~61シーズンには史上5人しかいない、アベレージで20リバウンドを上回った。65年に引退。通算2万点を超えた最初の選手で、プレイオフでの1試合50点もペティットが最初である。通算のリバウンド・アベレージはチェンバレン、ラッセルに次いでおり(2人はC)、オールスターに11度、オールNBA1stチームに10度、2ndチームに1度選出された。オールスターでは58年にリバウンド26本、62年に27本という驚異的な記録も残している。71年に殿堂入り。当時は得点力が高く、リバウンドも強いPFというのは珍しかったようである。スリック・レオナードスリックは愛称。インディアナ大出身で、6フィート3インチのG。54年のドラフト2巡目でブレッツ(現在のウィザーズとは無関係)に指名された。デビューは56~57シーズンのミネアポリス・レイカーズ。60~61シーズンまでここでプレイし(最後のシーズンからレイカーズはフランチャイズをロサンゼルスに移転)、61年オフにはエクスパンション・チームのパッカーズ(現ウィザーズ)に移籍。ここでキャリアハイとなる平均16.1点をマークした。62~63シーズンの最後に現役を引退。このシーズンは選手としてプレイする傍ら、コーチングも経験している。引退後の翌63~64シーズンまで同チームのコーチを務め、68年にはABAのペイサーズのHCに就任。以降、NBA加盟を跨いで79~80シーズンまで指揮を執り、ABA時代には3度の優勝に導いた。85年には解説者としてインディアナに戻ってきている。3Pが決まったときには「Boom!Baby!」と言うのがトレードマークだったとか。ラリー・コステロナイアガラ大出身で、54年のドラフト2巡目第3位でウォリアーズ入り。2シーズン後にはナショナルズ(現シクサーズ)にトレードされた。65年に一度引退するが、66~67シーズン、新たにシクサーズのHCとなったアレックス・ハンナムの「ベテランPGが必要」という意向を受けて復帰。アキレス腱の負傷などもあったが、初めてチャンピオン・リングを獲得した。68年に改めて現役を引退。オールスターには6度出場し、62~65年にかけてはFT成功率でリーグ首位であった。最後の両手打ちシューターとされているとか。引退後は高校などでコーチをしていたが、68年に新興チームのバックスのHCに就任。70~71シーズンにはルー・アルシンダー、オスカー・ロバートソンを中心としたチームで66勝をマークし、見事チャンピオンとなった。このシーズンは20連勝も達成している(当時の記録)。76~77シーズン序盤に解任。78~79シーズンに56試合だけブルズのHCを務め、以降は女子リーグや大学で指導していた。フランク・セルビー6フィート3インチのG/F。愛称は「ザ・コービン・コメット」。ファーマン大の出身で、カレッジ最後の試合でなんと100点をマーク。「フランク・セルビー・ナイト」と呼ばれたこの試合は①セルビーをオール・アメリカンの1stチームに入れる②得点で全米トップにさせる、という2つの意図があったようで、HCのライル・アリーHCはセルビーが得点を稼げるように指示をしたという。100点の内訳は66本中41本のFGに、22本中18本のFT。最後の2点はコートの中央辺りから放ったブザービーターであった(当時は3Pがなかった)。セルビーはのちに「この試合に打ったシュートは10本くらいは3Pだったよ」と回想している。54年のドラフトでは1巡目第1位でボルチモア(現ウィザーズとは無関係)に入団。ルーキーシーズンはオールスターにも選ばれるなど活躍していたが、シーズン半ばにホークスへ移籍した。チームがフランチャイズをセントルイスに移転した2年目は17試合しかプレイせず、翌シーズンは兵役のために全休。復帰した57~58シーズンの途中にはレイカーズへ移籍した。この頃はパッとせず、ここから更にニックス、ナショナルズと移籍を繰り返すが、59~60シーズン途中にレイカーズに復帰してからキャリアが好転。若き日のジェリー・ウェスト、エルジン・ベイラーらとチームを支え、61~62シーズンには久しぶりにオールスターにも選出された。セルビーで有名なのがこのシーズンのファイナル第7戦。4Q終盤、レイカーズは4点ビハインドだったが、セルビーのリバウンドと2本のシュートで試合は同点に。最後のプレイで、レイカーズはロッド・ハンドリーにボールを託した。しかし、ハンドリーはオープンになっているセルビーを見つけてパス。セルビーはこのジャンプショットを決めることが出来ず、試合はオーバータイムへ。これでセルティックスが持ち直してしまい、レイカーズは敗れてしまった。ハンドリーは前夜、ウィニング・ショットを決める夢を見たそうで、試合後、セルビーに電話して「ナイスショット!」とだけ言って切ったというエピソードもある。レイカーズには60年にフランチャイズをロサンゼルスに移したばかりで、これが移転後初めてのセルティックストのファイナルであった。セルティックスはこの優勝を皮切りに8連覇を達成する。フランク・ラムジー6フィート3インチのGで、セルティックス王朝を支えた選手のひとり。ケンタッキー大出身。アドルフ・ラップの指導を受け、51年にはNCAAチャンピオンとなるが、翌52年に八百長スキャンダルが発覚。これに関わった3人のうちのひとりが51年の優勝メンバーであったことから、同大は1シーズンの出場停止を受けることとなった(当時、このペナルティーを受けた初のチーム)。ラムジーは53年のドラフト1巡目第5位でセルティックスに指名されるが、卒業していたにもかかわらず大学に戻ることを選択。ケンタッキー大はラムジーの活躍もあって25勝0敗というパーフェクトな成績を残した。しかし、「一度卒業した選手はポストシーズンをプレイできない」という規定により、ラムジーはNCAAトーナメントでプレイできず、チームは戦力が落ち、シーズンを終えてしまった。翌54~55シーズンにプロデビュー。翌シーズンを兵役で全休するが、復帰後8シーズンに渡ってセルティックス一筋でプレイ。ボブ・クージー、ビル・ラッセルをはじめとした数々のスターと一緒にセルティックスの黄金期を築いた。当時のHC、レッド・アワーバックは「6マン」という概念を最初に創った人物とされており、その最初の6マンがラムジーであった(と考えられている)。アワーバックは試合終盤の大事な時間帯にフレッシュな状態のラムジーを起用することを好み、ラムジーもまたその起用に歓びを感じていたとか。因みにセルティックスにはこれ以降、ハブリチェック、ポール・サイラス、マクヘイル、ウォルトンといった優秀な6マンが誕生している。64年に引退。70~71シーズンにABAのケンタッキー・カーネルズのHCとなり、成績こそ芳しくなかったが、なんとかファイナルまで導いた。当時のチームには大学の後輩に当たるダン・イッセル、ルーイー・ダンピアーがいた。ファイナルでは、現役時代のチームメイト、ビル・シャーマン率いるユタ・スターズに敗れ、そのオフには職を退いている。背番号23はセルティックスの永久欠番で、82年に殿堂入り。57・59~64年と7度の優勝を経験している。

  • 27Feb
    • 昭和39年ドラフト組

      ドン・ガバチョってネーミングが好きです。ウィリス・リードニックス史に残る偉大なC。グランブリング大出身で、64年のドラフト2巡目第1位でニックス入り。当時のニックスは弱く、特にリードが加入する前のシーズンは22勝58敗と大きく負け越していた。リードは一試合46点(新人としてはチーム2位の記録)をあげるなどいきなり大活躍。オールスター出場と新人王受賞を果たした。ただ、チームの成績にはあまり反映されなかった。低迷を続けるニックスが強くなったのは、67~68シーズンの途中、レッド・ホルツマンがHCに就任してからであった。それまで15勝22敗だったチームは、シーズンの残りを28勝17敗と勝ち越し、最終的に43勝をマーク。実に58~59シーズン以来の勝ち越しとなった。因みにこの頃までウォルト・ベラミーがチームにいたため、リードはPFであった。翌68~69シーズン途中、そのベラミーがピストンズへトレードされ、見返りにデイブ・デバッシャーが加入。デバッシャーはインサイドに強いPFで、この動きでリードはCに戻ることが出来た。リードは「トレードで僕は生まれ変わったんだ。僕はCだからね」とコメントしている。トレードの効果は絶大で、トレード相手のピストンズを48点差で下したり(チーム記録)、10連勝・11連勝をマークするなど強豪となった。チームの強みはディフェンスで、その要だったのが、ウォルト・フレイジャーとリード。これ以降の6シーズン中5シーズンでリーグ最少失点を記録している。69~70シーズン。ニックスは当時の記録であった18連勝と、チーム記録の60勝をマーク。チーム史上初のNBAチャンピオンとなった。レイカーズとのファイナルでは、リードはゲーム5で足首を負傷。ゲーム6を欠場するが、ゲーム7で復帰。完調ではないながらもコートに立った話は有名。4点しか取れなかったが、ディフェンスではチェンバレンを抑えた。このシーズンは史上初となるシーズンMVP、オールスターMVP、ファイナルMVPの三冠を達成している。翌70~71シーズンはチームタイ記録となる1試合33リバウンドを達成(もうひとりはハリー・ギャラティン)。ただ、チームはカンファレンス・ファイナルでブレッツに敗れた。71~72シーズンになると慢性的な膝の痛みに悩まされるようになり、70試合以上を欠場。次の72~73シーズンはなんとか復帰し、再びファイナルMVPになる活躍でニックスに優勝に導くが、故障が癒えたわけではなく、翌73~74シーズン後に引退した。Cとしては背が低く、6フィート9インチしかなかったが、それでもチェンバレンらと渡り合っていた。引退後は70年代後半に古巣ニックスのHCを短期間務め、その後、大学のHCとNBAのACを経て、87~88シーズン途中にネッツのHCとなった。しかし、成績は奮わず、89年からはGMへ。96年まで務め、その間には3度プレイオフに進んでいる(いずれも1stラウンド敗退)。ルイジアナ州のヒコという小さな町の出身。ポール・サイラスクレイトン大出身。6フィート7インチのPFで、カレッジ3年間で記録した総リバウンド数と、63年に記録した平均20.6リバウンドはNCAA記録である。64年のドラフト2巡目第3位でホークス入り。最初はパッとしなかったが、4年目の67~68シーズンにプチブレイク。得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残した。その後69年にサンズに移籍して開花し、72年から在籍したセルティックスでも優秀なリバウンダーとしてチームに貢献した。76~77シーズンをナゲッツ、77~80シーズンをソニックスで過ごして現役を引退。オールスターには2度出場し、オール・ディフェンシブ・チームの常連でもあった。優勝も、セルティックスで2回、ソニックスで1回経験している。故障が少なく、36試合を欠場した2年目以外は5試合以上欠場したことがなかった。引退した翌年、クリッパーズのHCに就任するが結果は残せず、83年に解任。以降はACとして色んなチームを転々とし、次にHCに就任したのは98~99シーズンであった。このときはホーネッツを指揮し、優勝を狙えるほどではなかったが、プレイオフでも戦えるタフなチームを作り上げた。バロン・ディビスの成長に一役買っており、自身も「私がした最高の仕事は、恐らくバロンを1年目にスターターにしなかったことだね」と評している。03年にはキャブスのHCとなり、ルーキーのレブロンを指導。成績もまずまずだったが、大きな期待をかけられた翌シーズンにステップアップできず、シーズン終盤に解任されてしまった。ジェリー・スローン選手としてもコーチとしても成功を収めたひとり。エバンスビル大の出身で、64年のドラフト3巡目でブレッツに指名されるが大学に戻ることを選択し、翌65年に改めて1巡目第4位でブレッツ入りした。しかし、ルーキーシーズンはあまり戦力にならず、オフにはエクスパンション・ドラフトでブルズへ移籍した。スローンはここで「オリジナル・ブル」と呼ばれるようになり、初年度からプレイオフに導くなど活躍。特にディフェンスに定評があり、オール・ディフェンシブ・チームに6度、オールスターにも2度選出されている。Gながら平均7.4リバウンドというのも見事。ただ、膝の故障などで現役生活は長くなかった。背番号4はブルズの永久欠番。コーチとしてのキャリアはブルズが最初。しかし、3シーズンで94勝121敗と奮わなかった。しかし、88年にフランク・レイデンの後任としてジャズのHCに就任してからは、ストックトン&マローンを軸とした強豪チームを作り、97・98年にはファイナルにも進んだ。2人がチームを去った04年には、プレイオフ進出こそ出来なかったが、42勝40敗をマークしてコーチ・オブ・ザ・イヤーの投票で2位となった(1位はヒュービー・ブラウン)。その後、10~11シーズン途中で辞任。実に23シーズンに渡ってジャズを率いた。10シーズン連続でチームを勝率5割以上に導いた、史上3人目のHC。ただ、優勝経験がないだけでなく、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれたこともない。真面目なHCで、選手と衝突することもしばしば。辞任した際には、当時エースだったデロン・ウィリアムスとの確執が噂されたこともあった。ハッピー・ヘアーストンニューヨーク大出身。6フィート7インチのPFで、64年のドラフト4巡目第8位でロイヤルズ入り。得点源のひとりとして活躍し、67~68シーズン中にピストンズへトレードされると、リバウンドでも力を発揮。得点とリバウンドでダブルダブルをマークするようになり、翌68~69シーズンは更に成績をアップさせた。しかし、69~70シーズンになるとオットー・ムーアの台頭などがあってか役割が減り、シーズン序盤のうちに今度はレイカーズへトレードされた。ここでは再び得点とリバウンドでコンスタントに貢献。リバウンドに関しては、ウィルト・チェンバレンがいながらも存在感を見せた。特に、記録的に強かった71~72シーズンのレイカーズではチェンバレンと共にシーズン1000リバウンドをマーク。1シーズンに同一チームで2人以上が1000リバウンド稼いだのは史上唯一である。74・75年にはリバウンドとFG成功率でチームをリード。74~75シーズンのシクサーズ戦では1Q13リバウンドという記録も樹立している。サイズは大きくなかったがタフなリバウンダーだった。マフディ・アブドゥル-ラフマン(ウォルト・ハザード)UCLA出身。60年代前半に同大が無敗を誇った頃の主力で、当時はゲイル・グッドリッチとバックコートを形成。NCAAチャンピオンとなった64年にはMVPに選ばれている。この年はオリンピックで金メダルも獲得している。NBAには、64年にテリトリアル・ピックでレイカーズ入り。3シーズンを過ごし、その後はソニックス、ホークス、ブレーブス、ウォリアーズと渡り歩き、73~74シーズンのソニックスを最後に現役を引退した。ソニックス在籍時の68年にオールスターに出場しており、ホークスへ移籍する際はレニー・ウィルケンスとのトレードであった。引退後は84年から4シーズン、UCLAのHCを務めた(このときはウォルト・ハザードの名前であった)。背番号42は同大の欠番だが、のちにケビン・ラブに着用を認めている。

  • 20Feb
    • 昭和40・41年ドラフト組②

      笑点は、歌丸さん、楽太郎さん、こん平さんが上手側に並んでる時代が好きでした。ボブ・ラブサザン大出身の6フィート8インチのF。65年のドラフト4巡目でロイヤルズに指名されるが、1年目はEBLという別リーグでプレイ。ここで平均25点をあげて新人王に輝く活躍をみせ、1年越しでロイヤルズに入団した。しかし、ここでは控え止まりで、68年にはエクスパンション・ドラフトでバックスへ移籍。そしてその68~69シーズン中にブルズにトレードされた。これはラブにとって大きな転機で、ブルズでは先発に定着し、69~70シーズンには平均21点・8.7リバウンドをマーク。翌シーズンと翌々シーズンには25点を超えるアベレージを記録し、オールスターとオールNBA2ndチームに選出された。その後も73年に再びオールスター、74・75年にはオール・ディフェンシブ2ndチームにも選ばれている。現役最後の76~77シーズンまで、毎シーズン少なくとも平均19点・6リバウンドは残していた。背番号10はチーム史上2人目の欠番(BJ・アームストロングが10番を付けていたのは、欠番に決まったのが95年のため)。引退後はどもりがあって仕事に苦労したこともあったようだが、スピーチ・セラピーを受けて克服したとか。95年にはユナイテッド・センターで結婚式を挙げている。ゲイル・グッドリッチシーズン中にリーグ史上最長の33連勝をマークし、最終的に69勝をあげて優勝した71~72シーズンのレイカーズのスターティングSG。このチームにはジェリー・ウェスト、ウィルト・チェンバレンがいたが、リーディング・スコアラーはグッドリッチだった(2人ともキャリア終盤ではあったが)。UCLA出身で、65年にテリトリアル・ピックでレイカーズ入り。6フィート1インチ・170ポンドと小柄だったため、評価はそれほど高くなかったようで、2シーズン後にはエクスパンション・ドラフトでサンズへ移籍した。しかし、サンズでリーグ上位に食い込むほどの得点力を見せ、2シーズン後に古巣レイカーズへ帰還。冒頭で触れたメモリアルなチームの一員となるのであった。76年オフ、79年のドラフト1巡目指名権と交換でジャズへ移籍。3シーズン過ごして引退した。オールスターに5度出場し、74年にはオールNBAチーム入り。サウスポーの選手としては歴代3位のスコアラーだが、ハンドリングの良さやコート・ビジョンの広さも評価されていたよう。背番号25はレイカーズの永久欠番。96年に欠番となったので、それに伴ってエディ・ジョーンズは背番号を6にした。愛称は「スタンピー」。グッドリッチの見返りに得たドラフト1巡目指名権で指名されるのがマジック・ジョンソンである。クライド・リー6フィート10インチのF/C。バンダービルト大出身。リバウンドの強さとインサイドの得点力には定評があり、「バンダービルト大史上最高の選手」という評価もあったとか。66年のドラフトでは1巡目第3位でウォリアーズ入り。プロ入り後は主にリバウンダーとして活躍し、8シーズンをここで過ごした。74~75シーズンはホークスで開幕を迎えるが、直後にシクサーズへトレード。そして翌シーズン終了後にキャリアを終えた。キャリア平均でリバウンドは2桁をマーク。68年にはオールスターにも出場した。ジェリー・ルーカスやネイト・サーモンドらとチームメイトでなければもっと目立ったかもしれない。ロニー・ライトバスケットだけでなくフットボールでもプロでプレイした選手。コロラド州立大ではバスケットをプレイしており、同大が66年にNCAAトーナメントに進んだときのメンバーである。66年のドラフトでは6巡目第54位でホークスに指名されるが、同じ頃、NFLのカウボーイズもライトに関心を示しており、結局66年4月にAFLのデンバー・ブロンコスと契約を結んだ。ライトはここで約2年プレイ。そして、フットボールのシーズンが終わった数週間後の68年1月、今度はABAのデンバー・ロケッツ(現ナゲッツ)に加入した。バスケットでは6フィート2インチのGで、このシーズンは加入後の全試合に出場して平均9.8点をマークした。翌68~69シーズンにはキャリアハイの平均16.4点を稼ぎ、69~70シーズンにはリーグ2位の好成績に貢献。このシーズンはスペンサー・ヘイウッドの存在も大きかった。70~71シーズンの途中にザ・フロリディアンズに移籍し、72年オフに現役を引退。フロリディアンズのHCは、ナゲッツ入りしたときのHC、ボブ・バスだった。バスケットとフットボールの両方でプロとなったのはオットー・グラハム、バッド・グラント、ロン・ウィドビーという3人しかいないとか。

  • 09Feb
    • 昭和40・41年ドラフト組①

      トレード騒動でADのことがちょっと嫌いになりました。笑リック・バリーアンダーハンドで放るFTが有名なスコアラー。65年のドラフト1巡目第2位でウォリアーズ入り。バリー加入で前年度から18勝も上積みしたウォリアーズはプレイオフに進み、バリーは新人王を受賞した。2年目には圧倒的な得点力で得点王に輝き、オールスターでも38点をあげてチェンバレン、ラッセル、オスカー・ロバートソンらがいたイーストを撃破している。このシーズンはチームもファイナルまで進み、シクサーズに敗れるが、バリーのシリーズ平均40.8点というのは記録である。しかし、オーナーのフランク・ミューリンが充分なサラリーをくれないと感じたバリーは、なんと多額の契約金を用意してくれたABAのオークランド・オークスへの移籍を決意。これは裁判沙汰になり、バリーは、67~68シーズンを全休することを条件にオークスへの移籍が認められた。迎えた68~69シーズン、バリーは期待通りの活躍を披露。膝の怪我でシーズンの半分以上を欠場するが、プレイした35試合は31勝4敗と大幅に勝ち越した。バリーは個性が強く感情的で、味方であろうと遠慮無くモノを言う性格から、NBAでは批判されることがあったが、ABAではそうではなかった。バリーも居心地が良かったようで、「年に100万ドルくれたらNBAには戻らないだろう」とコメントしていたとか。ただ、「子供を南部訛りで育てたくない」ともコメント。72年にはネッツへ移籍した。このときは格上と見られたカーネルズとスクワイアーズに勝ち、ファイナルに進んだ(ペイサーズに敗れる)。72~73シーズンからは再びNBA(ウォリアーズ)でプレイ。74~75シーズンにはチームにチャンピオンシップをもたらした。このシーズンのウォリアーズは「バリーとロールプレイヤーたち」のようなロスターでシーズン前の評判は高くなかったのだが、48勝でディビジョン首位を奪取。バリー自身も得点・スティール・FT成功率でリーグ首位となった。プレイオフではソニックス、ブルズを破り、ファイナルでは60勝をあげたブレッツをスウィープで撃破。当時のブレッツは優勝候補とされるような強豪で、これはリーグ史に残るアップセットのひとつとして記憶されている。因みにファイナルMVPはもちろんバリーであった。その後、78年にジョン・ルーカスとのトレードでロケッツへ移籍。80年に現役を引退した。史上唯一、NCAA、ABA、NBAのそれぞれで得点王に輝いた選手。ディフェンスも良く、コート・ビジョンも優れ、アシストも多かった。NBAに復帰したくらいから膝に問題があったようで、アウトサイドでのプレイが増えたというが、シュートエリアも広く、キャリア最後の79~80シーズンには、導入されたばかりの3Pも武器としていた(成功本数リーグ2位)。引退後は他リーグでのコーチや解説者として活躍。ジョン、ブレント、ドリュー、スクーターという4人の息子がいるのは有名か。ブレント・バリーがスパーズで優勝したことで、史上2組目の優勝経験のある親子となった。ディック・バンアースディル後述するトム・バンアースディルの双子の兄弟。トムと同じくインディアナ大出身で、トムと同じ6フィート5インチのスウィングマン。65年のドラフト2巡目第2位でニックス入りし、3シーズンまずまずの成績を残した。68年オフにエクスパンション・ドラフトでサンズに移籍し、以後、引退するまで9シーズンに渡ってプレイ。トムとチームメイトとなった76~77シーズンを最後に現役生活を終えた。シュートが上手く、得点力のある選手。コニー・ホーキンス、チャーリー・スコット、ニール・ウォークらと共に初期のサンズを支えたことで知られている。引退後はそのままサンズのGMを務めたことがあるほか、86~87シーズンにはジョン・マックロードの後任として36試合だけ指揮を執ったこともある。トム・バンアースディルこちらは65年のドラフト2巡目第11位でピストンズ入り。まずまずの成績を残していたが、3年目の途中にハッピー・ヘアーストン、ジム・フォックスと交換で、ジョン・トレスバントとともにロイヤルズへ移籍した。これはアースディルにとって大成功の動きで、スコアラーとして開花。20点前後アベレージを叩き出し、オールスターにも選出された。72~73シーズン途中にはシクサーズへトレードされ、74~75シーズン途中には今度はホークスへ移籍するが、どこのチームでも2桁得点を稼ぐくらいの成績は残していた。76~77シーズンに控えとしてサンズでプレイしたのを最後に引退。シュートが上手く、特にFTは高確率だった。キャリアを通じて929試合もプレイしたにもかかわらず一度もプレイオフ進出経験がなく、これはNBA記録。また、プレイオフ経験がない選手の中では史上最も得点を稼いだスコアラーでもある。ボブ・ワイスペン州立大出身のPGで、65年のドラフトでは3巡目第22位でシクサーズに入団した。ハル・グリアー、チェット・ウォーカーら蒼々たる面々の中に入っては出番がなかったが、67年には一応優勝を経験。セルティックスの連覇を8で止めたチームの一員となった。そのオフ、エクスパンション・ドラフトでソニックスへ移籍。控えながら全82試合に出場し、平均9.8点・4.2アシストをマークした。しかし直後のオフには再びエクスパンション・ドラフトで今度はバックスへ移籍。68~69シーズンが始まると、今度は更にブルズ(これまた創設3年目)へ移籍した。新興チームをたらい回しにされたワイスだったが、このブルズ時代が恐らくプライムタイムで、4シーズン連続で全82試合に出場するなどボブ・ラブ、ジェリー・スローンらと共に若いチームを支えた。74年オフにブレーブスへトレードされ、76~77シーズンをブレッツで過ごして引退。引退直後はブレーブスでACとなり、80年にはまたしてもエクスパンション・チームのマブスのACに就任。ここで6シーズンを過ごし、86年オフ、スパーズで初めてHCとなった。このときは2年目にプレイオフ進出を果たしている(但し、31勝51敗)。89~90シーズンにはこれまたエクスパンション・チームのマジックのACとなり、90年オフにはホークスのHCに就任した。ここでは3シーズン指揮を執り、うち2シーズンはプレイオフに進んだ(プレイオフに進めなかったシーズンは、途中でドミニク・ウィルキンスが故障で離脱した)。93~94シーズンにクリッパーズのHCを務めた後は、95年からソニックスのコーチング・スタッフ入り。ジョージ・カール、ポール・ウェストファル、ネイト・マクミランをサポートした。05年にマクミランが退くと、チームはワイスをHCとするが上手くいかず、3年契約を結んだにもかかわらず、年明けには解雇されてしまった。HCとしては結果を残せていないが、その後も中国リーグでのHCなども挟みつつ、NBAでACを続けている。史上唯一、クリッパーズの3つすべてのフランチャイズに関わった人物でもある。

  • 01Feb
    • 昭和50年ドラフト組

      嵐は曲がわからないんです。でも、ジャニーズファンじゃなくても馴染みのある?ジャニーズがまた一組いなくなるのは寂しいです(お休みだけども)。ダリル・ドーキンス6フィート11インチのC。高卒でNBA入りした初の選手で、75年のドラフト1巡目第5位でシクサーズに入団した。ドーキンスを有名にしたのがバックボード粉砕ダンク。79~80シーズンの開幕直後のキングス戦で、次に壊したのがその約3週間後に行われたスパーズ戦であった。因みにチームは2試合とも敗れている。これらのダンクがきっかけで、リーグは折り畳み式のバックボードを設計。また、ドーキンスは自分のダンクに名前を付けることでも知られ、バックボード粉砕ダンクのことはシャッタリング・ダンクと命名していた。NBAでのキャリアは短く、30代前半で終わったが、その後ハーレム・グローブトロッターズでもプレイした。84年にはリーグ歴代2位のファウル数をマークしたこともある。ジョー・ブライアントコービー・ブライアントの父。6フィート9インチのF/Cでラサール大出身。75年のドラフト1巡目第14位でウォリアーズにトレードされるが、すぐにシクサーズへトレードされた。以降4シーズンを控えとして過ごし、79年にクリッパーズへ移籍。ここでは2桁の得点アベレージを残し、82~83シーズンをロケッツで過ごした後はヨーロッパへ。91年までプレイし、その後もABAなどで50歳まで現役を続けた。奥さんは元NBA選手、ジョン・コックスの姉妹。シクサーズでの3年目が終わった夏にコービーが生まれた。ある試合の選手入場時にファンがジェリービーンズのバッグを投げ入れたことから「ジェリービーンズ」という愛称になった。ビル・ウィロウビー6フィート8インチ・205ポンドの小柄なF/C。高校卒業後、75年のドラフト2巡目第19位でホークス入りしており、ダリル・ドーキンスとともに初の高卒指名選手なのだが、こちらはあまり有名ではない。ホークス、ブレーブス、キャブスと渡り歩き、80~82シーズンにロケッツでファイナル進出を経験。そこでは同じ高卒選手であるモーゼス・マローンとチームメイトであった。その後はスパーズ、ネッツを経て26歳の若さでNBAでのキャリアは幕を閉じた。のちに大学に行かなかったことを後悔したようだが、44歳のときに学位を取得している。ガス・ウィリアムス6フィート2インチ・175ポンドのPG。75年にはNBAではドラフト2巡目第20位でウォリアーズ、ABAでは1巡目でスピリッツ・オブ・セントルイスから指名された。ウォリアーズを選択したウィリアムスは、控えながら平均11.7点をマークしてオール・ルーキー・チーム入り。2シーズン過ごし、77年オフにはソニックスへ移籍した。この移籍で出場機会が増えたウィリアムスは平均18点を超える活躍。シーズン途中にHCがボブ・ホプキンスからレニー・ウィルケンスに代わるとチームも絶好調でファイナルまで進んだ。翌78~79シーズン、ソニックスは再びファイナルまで進み、そして優勝。ファイナルMVPはデニス・ジョンソンだったが、ウィリアムスも平均28.6点を稼ぐなど貢献度は高かった。79~80シーズンは平均22点を超え、オールNBA2ndチーム入り。カンファレンス・ファイナルでルーキーのマジック・ジョンソンが加わったレイカーズに敗れるが、56勝26敗は当時のチーム記録であった。個人としてもチームとしてもいい状態にあるかと思われたが、ウィリアムスは契約で揉め、なんと80~81シーズンを全休。80年のオフにはジョンソンも移籍しており、ソニックスは低迷した。しかし81~82シーズンに復帰すると、得点とアシストでキャリアハイのアベレージを残すなどブランクを感じさせない活躍振りで、オールNBA1stチーム入り。その後も83~84シーズンまでチームの中心であった。84年オフにはブレッツへ移籍。移籍2年目に数字を大きく落とし、86~87シーズンにホークスで33試合だけプレイして現役を終えた。愛称は「ウィザード」。若い頃は得点力の高さが目立ったが、1シーズンのブランクを空けてからはアシストも増加。スティールも多かった(平均2.0本)。オールスターに2度選ばれているが、それもブランク空けのことであった。背番号1はソニックスの欠番。弟のレイ・ウィリアムスもNBAでプレイしている。ワールド B・フリーノースカロライナ州にあるギルフォード大出身のG。75年のドラフト2巡目第23位でプロ入りし、以降、クリッパーズ、シクサーズ、ウォリアーズ、キャブス、ロケッツでプレイ。跳躍力があり、垂直跳びで44インチを記録したり、360度回転してダンクする姿から「ワールド」と呼ばれたりした。スコアラーで、ある時期に限れば、ジョージ・ガービンと張り合えるほどであった。80年には30点を超えるアベレージを残しており、オールスターにも出場。元々ロイド・フリーという名だったのをワールド B・フリーとしたのもこの年だった。87~88シーズンを最後に現役を引退。05年には「キャブスに属した偉大な選手のひとり」として讃えられている。ダン・ラウンドフィールド6フィート8インチのF/Cでミシガン大出身。75年のドラフト2巡目第28位でキャブスに指名されるが、ABAのペイサーズをチョイス。そこからペイサーズ、ホークス、ピストンズ、ブレッツと渡り歩いた。リバウンダー、ディフェンダーとして知られ、オール・ディフェンシブ・チームに5回、オールスターに3回選出されており(82年は故障で欠場)、「Dr.ラウンズ」の名前で親しまれた。因みにオールスターに選ばれたのはすべてホークス時代で、初出場となった80年はベンチ・スタートながら18点・13リバウンドをマーク。当時オールスターの常連だったモーゼス・マローンはこの活躍を見て、ラウンドフィールドがいつか自分のチームメイトになることを望んだという(ラウンドフィールド最後のシーズンにブレッツで実現)。MVPはジョージ・ガービンだったが、このパフォーマンスで名前が知られたとのこと。スキップ・ワイズ6フィート2インチのPG。のちにマグジー・ボーグスやレジー・ルイスらを輩出するダンバー・ハイスクール出身で、クレムソン大で1年プレイした後、75年にABAのボルチモア・クロウズと契約を結んだ。しかし、ドラッグの使用でプレイの質は落ち、チームもエキシビジョン・ゲームの期間中に解散。ワイズはウォリアーズと契約を結ぶがドラッグの問題で解雇され、結局75~76シーズン中にスパーズで2試合だけプレイした。NBA、ABAでプレイしたのはこれっきり。のちにドラッグ絡みの罪で服役したこともある。因みに、クロウズはメンフィス・サウンズが前身。75年オフにボルチモア・クロウズとなるが、財政的問題からエキシビジョン3試合のみで解散しており、バスケットボール・リファレンスのサイトでもクロウズの名前は確認できない。マービン・ウェブスター「ヒューマン・イレイサー」と呼ばれた7フィート1インチのC。75年のドラフト1巡目第3位でホークスに指名されるがABA行きを選択。ナゲッツと契約を結んだ。故障でシーズンの半分以上を休み、あまり目立たなかったが、チームはリーグ首位の60勝24敗をマーク。ファイナルまで進んだ(ネッツに敗れる)。ABAが消滅し、NBAに参入した76~77シーズンは控えCながらブロックで活躍。チームも50勝32敗でディビジョン首位に立つなどABA時代からの強さを見せた。77年オフにはソニックスへ移籍。ルーキーのジャック・シクマとフロントラインを形成し、自身はリーグ9位の平均2.0ブロックに加え、キャリアハイの平均14.0点・12.6リバウンド(これもリーグ9位)をあげた。チームは開幕から躓いたが、HCがレニー・ウィルケンスに代わると一気に好転し、なんとファイナルまで進出。ウェブスターはプレイオフでシーズンを上回るパフォーマンスを披露し、特にハーフで21リバウンドというのはチーム記録となった。78年オフにはニックスへ移籍。移籍2年目に故障とビル・カートライトの加入で先発の座を失い、復帰後はカートライトの控えとして83~84シーズンまでプレイした。84~86年の2年間は肝炎で欠場。86~87シーズンの中盤以降にバックスで15試合だけプレイして現役を終えた。ニックス時代にチームメイトだったダレル・ウォーカーは歴代でも最高のショットブロッカーのひとりだよ」と評している。09年に56歳で逝去。高卒でプロ入りしたマーテル・ウェブスターの叔父にあたる。

  • 30Jan
    • 昭和49年ドラフト組②

      円谷劇場が一旦?終わってしまって寂しいです。ジョン・ドリュー6フィート6インチのスウィングマン。ガードナー・ウェッブ大出身で、74年のドラフト1巡目第7位でホークス入り。いきなり19点・10リバウンドに迫るアベレージを残し、オフェンス・リバウンドではリーグ首位に立つなどオール・ルーキー・チームに選出された。その後もコンスタントに平均20点ほどを毎シーズン稼ぎ、76年と80年にはオールスターにも出場している。82年にはドミニク・ウィルキンスの交渉権と交換でジャズへ移籍するが、シーズン前半のうちにコカインの使用が発覚してリハビリに専念。シーズンの半分近くを欠場した。翌年は無事に復帰し、カムバック・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞するのだが、85年にドラッグの使用が再度発覚。これによってドリューはリーグから永久追放されてしまった。これは当時リーグ史上初めてのことであった。フィル・スミスサンフランシスコ大出身のG。同大が73・74年とNCAAファイナルまで進んだときの主力(ともにUCLAに敗れた)。在学中の73年にABAのスクワイアーズから1巡目第1位で指名されたが、大学に残ることを選択。背番号20は同大の欠番である。74年のドラフト2巡目第11位でウォリアーズ入り。ルーキー・シーズン、個人成績は大したことはなかったが、チャンピオン・リングを獲得した。2年目には先発になり、キャリアハイの平均20点をマーク。オールスターにも初出場し、オールNBA2ndチームとオール・ディフェンシブ・セカンド・チームにも選出された。80年にはクリッパーズへ移籍し、81~82シーズン途中にはソニックスへトレード。トレード後は出場機会が激減し、83年に現役を引退した。79~80シーズンにアキレス腱を負傷したのがキャリアを縮めた原因のようである。ジョージ・ガービン「アイスマン」の愛称で親しまれたSGで、リーグ史に残るスコアラーのひとり。72年にABAのスクワイアーズでデビュー。トライアウトで25本中22本の3Pを決めたという逸話がある。翌73~74シーズン途中にスパーズへ移籍。74年にはドラフト3巡目でサンズから指名されるが、そのままスパーズに残ることを選択した。ABAが消滅し、NBAに移ってからもスパーズのエースとして活躍。78年にはナゲッツのデビッド・トンプソンを破って初めて得点王の座を奪取。シーズン最終戦ではトンプソンが73点をあげたが、ガービンも63点をあげ、史上稀に見る僅差で得点王となった(2Qだけで33点は記録)。その後も79・80・82年と得点王になっている。85~86シーズンをブルズで過ごした後はイタリアへ。40歳のときにはスペインでもプレイした。もちろんかつてのクイックネスはなかったが、それでも得点に対する感覚は衰えていなかったという。ガービンの代名詞といえば「フィンガーロール」で、FTラインからでも決めることが出来たとか。オフェンスに目がいく選手だが、Gとしてブロックも多かった。背番号44はスパーズの永久欠番で、もちろん殿堂入りもしている。ゲーリー・ペイトンは子供の頃、ガービンのファンだったようで、その理由を「生意気だから」としていた。モーゼス・マローンABAとNBAで計21シーズンをプレイしたCで、ABAでのプレイ経験がある最後のNBA選手。高校卒業後、74年のABAドラフトを経てユタ・スターズに入団した(本来はメリーランド大に進む予定だった)。1年目をスターズ、2年目をスピリッツ・オブ・セントルイスでプレイ。76年にABAが消滅した際、ディスパーサル・ドラフトでブレイザーズから指名されるが、開幕直前に78年のドラフト指名権とのトレードでブレーブスへ移籍。しかし、僅か2試合をプレイしただけで、今度はドラフト1巡目指名権2つと交換でロケッツへトレードされてしまった。しかし、ここでようやく自分の居場所を見つける。ロケッツのHCはスターズ時代のトム・ニッサルクで、マローンは攻守に活躍。リバウンドでリーグ3位、ブロックで7位にランクインし、オフェンス・リバウンド総数ではリーグ1位となった(ポール・サイラスの保持していた記録を上回った)。チームもカンファレンス・ファイナルまで進出。セミファイナルではオフェンス・リバウンド15本という記録を作っている。翌77~78シーズンは疲労骨折で最後の23試合を欠場。ただ、リバウンドのアベレージはリーグ2位であった。復帰した78~79シーズンは23歳の若さでシーズンMVPに輝く大活躍。オールNBA1stチーム、オール・ディフェンシブ2ndチームに選出され、自身の持っていたオフェンス・リバウンドの記録も更新して見せた。2月のジャズ戦ではキャリアハイの37リバウンドを取っている。4年目の翌シーズンもチーム史上3番目の記録となる1試合51点をマークするなど、この頃の活躍は素晴らしかったが、残念ながらチームは奮わず、プレイオフに出てもあっさり敗れていた。しかし続く80~81シーズン、40勝42敗という成績にもかかわらず、なんとファイナルまで進出。結果的には負けてしまうが、リーグ最高勝率を誇ったセルティックス相手に2勝した。81~82シーズンには、マローンは自身2度目のシーズンMVPを受賞。ただ、チームとしてはまたしても傑出した成績を残せず、プレイオフでは1stラウンドでソニックスに敗れた。82年オフ、シクサーズへの移籍が成立。シクサーズはコールドウェル・ジョーンズと83年のドラフト1巡目指名権を諦めねばならなかったが、ジュリアス・アービング、ボビー・ジョーンズ、モーリス・チークスといった布陣にマローンを加えたのは大成功でチームは優勝、マローンはMVPに輝いた。この年のシクサーズは特にプレイオフで強く、負けたのは僅かに1回(相手はバックス)。プレイオフが始まるときにマローンが、優勝するのに必要な最低限の試合数を指して「フォー、フォー、フォー」とコメントしたのは有名である(当時は3ラウンドしかなかった)。しかし、シクサーズはこれがピークだった。83~84シーズン、マローンは4年連続5度目のリバウンド王となるが(5度以上リバウンド王になった初の選手)、1stラウンドで格下のネッツ相手に敗戦。翌シーズンもカンファレンス・ファイナルでセルティックス、85~86シーズンはセミファイナルでバックスに敗れた。このシーズンのマローンは6度目のリバウンド王になったが、3月終盤のバックス戦で右目の周りを骨折し、プレイオフでプレイできなかった。86年オフ、ジェフ・ルーランド、クリフ・ロビンソンと交換でテリー・キャトリッジ、2つのドラフト指名権とともにブレッツへ移籍。ブレッツでもこれまで通りの活躍を見せ、87年4月にはチーム史上3人目となる50点をマーク。翌87~88シーズンも、出場した79試合中55試合でダブルダブルを達成している。ただ、チームの成績は思うように伸びず、どちらのシーズンも1stラウンド敗退に終わった。88年オフにはドミニク・ウィルキンス率いるホークスと契約。同オフにはレジー・セウスもホークスに加入しており、戦力アップに期待がかかった。しかし、ケビン・ウィリスが怪我でシーズン全休となってしまうなどうまくいかず、結果はプレイオフ1stラウンド敗退。翌89~90シーズンにはプレイオフにも進めなかった。HCがボブ・ワイスになった90~91シーズンは、開幕から1ヶ月ほどでベンチスタートへシフト。歴代のFT成功数で歴代1位となったり(のちに抜かれる)、1046試合連続ファウルアウトなしという記録を作ったり(その後も継続)、殿堂入りクラスのベテランならではの偉業が達成されたが、さすがに衰えは隠せなかった。シーズンが終わると今度はバックスと契約。ここでは再びスターターとして起用され、個人成績もアップさせるが、チームは弱く、地区最下位に低迷。翌シーズンは背中の故障で71試合を休み、93年オフには古巣シクサーズへ戻った。シクサーズはルーキーCのショーン・ブラッドリーのサポートを必要としており、それにマローンが抜擢。ACのジェフ・ルーランドとブラッドリーの面倒を見たが、ブラッドリーは膝の故障で2月半ばにシーズンを終えてしまった。94年オフにはスパーズと契約。しかし、11月12月しかプレイはしなかった。キャリア最後のシュートはバックコート側から放った3Pだったという。キャリアの終盤はゴーグルを着けてプレイ。まさに息の長いキャリアを送った選手で、リック・バリー、ジョン・バリーの親子それぞれとチームメイトだった。移籍も多く、シーズンMVPを受賞した翌シーズンにトレードされたのは史上唯一。異なる3チームで平均20点・10リバウンド以上を記録した3人のうちのひとりでもある(あと2人はチェンバレンとシャック)。人望があり、チャールズ・バークリーが慕っていたというのは有名か。ブレッツ時代にプレイスタイルの違いで苦しんでいたマグジー・ボーグスの相談役になっていたのもマローンだそうである。背番号2はシクサーズの永久欠番。2015年に逝去しており、欠番となったのは意外にも2019年になってからであった。スコット・ウェドマン74年のドラフト1巡目第6位でキングス入りしたシューター。キングス時代は2度オールスターに選ばれており、ウェイトルームでの姿から「インビジブル・ハルク」と名付けられた。ピーク時には平均19点を稼いでおり、81年にキングスが(40勝42敗だったにもかかわらず)カンファレンス・ファイナルに進んだ際の主力でもあった。しかし、81年オフにドラフト1巡目指名権と交換でキャブスへ移籍。当時のキャブスは壊滅状態で、82~83シーズンの途中には今度はセルティックスへ放出された。キャリアで初めて強豪に入ったウェドマンは、控えではあったが重要なプレイヤーとなり、84年と86年の優勝に貢献した。85年のファイナルでは、結果的にシリーズに負けてしまったが、ゲーム1で3P4本を含む11本すべてのシュートを決めるパフォーマンスを見せた。87年オフにソニックスにトレードされるが、ここで引退を宣言。ソニックスではプレイしなかった。78~79シーズン中に交通事故を起こしたことがある。現役時代はベジタリアンだったとか。トム・バールソン7フィート2インチのC。ノースカロライナ州立大出身で、同大が74年にUCLAを破ってNCAAチャンピオンになったときの主力。当時はデビッド・トンプソン、モンテ・タウらがチームメイトにいたが、そのときファイナル4のMVPを受賞したのは、UCLAのビル・ウォルトンを抑えたバールソンだった。72年にはアメリカ代表としてオリンピックに出場。このときは後々まで議論となる疑惑の判定で、決勝でソビエトに負けており、アメリカは銀メダルを受け取らなかった。74年のドラフトでは1巡目第3位でソニックス入り。HCはビル・ラッセルで、バールソンはオール・ルーキー・チームに選出された。2年目もまずまずでこれからかと思われたが、ある試合での乱闘騒ぎをきっかけに膝を故障して、そこからキャリアはトーンダウン。77~80シーズンはキングスで過ごすが、特に最後のシーズンなどは戦力になっておらず、80~81シーズンをホークスでプレイして現役を引退した。カレッジ時代からショットブロッカーとして有名だった選手。大学から勧誘された際、「7フィート2インチ半」と公表されていたが、大学側は「7フィート4インチ」と登録し、史上最も背の高い選手となっていたこともある。

  • 19Jan
    • 昭和49年ドラフト組①

      ビル・ウォルトンルーク・ウォルトンの父親であり、殿堂入りも果たした名C。UCLA出身で、同大が72・73年と連覇したときの中心選手。この2年のUCLAの強さは圧倒的で、両シーズンともに30勝0敗で終えるなど無敵であった(同大が保持している88連勝というNCAA記録の一部)。個人としてももちろん素晴らしく、73年には名だたる賞を複数受賞している。そして74年のドラフトでは1巡目第1位でブレイザーズ入り。70年に誕生したばかりだったブレイザーズにとって期待のスターだったが、最初の2シーズンは故障に泣かされ、半分程度しかプレイできず、チームもプレイオフにすら進めなかった。転機となったのはジャック・ラムジーがHCに就任した、3年目の76~77シーズン。初めて健康に過ごしたウォルトンは(それでも17試合を休んだが)、リバウンドとブロックでチームをリード。怪我で出場はしなかったがオールスターのメンバーにも選出された。因みにオールNBA2ndチームとオール・ディフェンシブ1stチームにも選ばれている。プレイオフではカンファレンス・ファイナルで、UCLAの先輩であるジャバー率いるレイカーズをスウィープ。シクサーズとのファイナルでは最初の2戦を落とすが、そこから4連勝で優勝。ウォルトンはMVPに輝いた。翌77~78シーズンもその勢いでブレイザーズは強さを見せるが、50勝10敗というところでウォルトンが足を骨折。シーズンの残りを欠場し、プレイオフでは一旦復帰するも、復帰2戦目で再度故障。結局6試合でソニックスに敗れてしまった。このシーズンはウォルトンがキャリアで唯一オールスターでプレイしたシーズンであり、またオールNBA1stチームとオール・ディフェンシブ1stチームにも選ばれており、それだけに残念な結果となった。そのオフ、ウォルトンは故障時のチームの対応を不服としてトレードを要求。しかしそれは受け入れられず、ブレイザーズの一員として78~79シーズンを全休したのち、クリッパーズへ移籍した。ここでは更に故障に苦戦。移籍1年目は68試合を欠場し、続く2シーズンは全休。82~83シーズンに復帰するも、33試合にしか出られなかった。チームがフランチャイズをロサンゼルスに移した84~85シーズンに初めてフルタイムで健康な姿を見せるが(といっても67試合の出場)、このときはもうスターターではなかった。85年オフ。度重なる怪我で信頼を失っていたウォルトンに声をかけたのはレイカーズとセルティックスという東西の強豪であった。ただ、レイカーズはウォルトンの故障を気にしてあまり積極的ではなかったようで、一方のセルティックスはラリー・バードが獲得をレッド・アワーバックに進言するなど前向きにアプローチ。結果的にセドリック・マクスウェル&ドラフト1巡目指名権と交換で、ウォルトンはセルティックスの一員となった。セルティックスでプレイするのが子供の頃からの夢だったというウォルトンは、懸念された数々の不安をよそになんと6マン・アワードを受賞。翌86~87シーズンは再び故障に見舞われ、そこでキャリアを終えるのだが、それでも最後に見事な再起を見せたと言えるだろう。因みに90年頃、復帰を目指したこともあったとか。キャリアを通して足の故障に苦しみ、引退時には両足首が限界だったようで、繰り返し治療した医者のことを引退後も批判していた。13シーズンのキャリアのうち3シーズンを全休し、総試合数の約半分しかプレイしていないことから評価が割れることもあるようだが、96年には偉大な50人のひとりに選ばれている。攻守にバランスのとれたCで、パスやスティールもこなせた。若い頃は髭に長髪で、それをヘッドバンドで束ねたヒッピー風なスタイルでも知られた。背番号32はブレイザーズの欠番。引退後は解説者として活躍。ユニークなコメントや極端なコメントをすることで有名。カリフォルニア育ちだがセルティックスのことを大事にしており、「たとえレイカーズの土地で育ったとしてもセルティックスが自分のチームなんだ」としている。自宅に昔のボストン・ガーデンの床板を一枚飾っているとか。ジャマール・ウィルクスレイカーズとウォリアーズで計4度の優勝を経験したSF。UCLAの黄金期の主力で、当時はジャクソン・キース・ウィルクスといった。74年のドラフト1巡目第11位でプロ入りする頃、イスラム教の関係でジャマール・アブドゥル・ラティーフと改名している。スムーズ且つ堅実なプレイが売りで、愛称の「シルク」もその滑らかなプレイスタイルに由来。ルーキーシーズンは新人王を獲得し、チームもNBAチャンピオンに輝いた。のちにレイカーズでも80・82・85年とリングを獲得。レイカーズは84年にもファイナルに進んでいるが、このときは故障のためにプレイできず、チームもセルティックスに敗れた。シュートフォームは独特だが正確で、特にコーナーからのジャンプショットは「20フィートのレイアップ」とチック・ハーンが名付けたほどだった。オールスターに3度、オール・ディフェンシブ・チームに2度選ばれており、背番号52はレイカーズの欠番となっている。ブライアン・ウィンタースサウスカロライナ大出身で、6フィート4インチのスウィングマン。74年のドラフト1巡目第12位でレイカーズに入団し、オール・ルーキー・チームに選出された。しかし、オフにはレイカーズがカリーム・アブドゥル-ジャバーを獲得するためのトレードの一部としてバックスに移籍。そこから8シーズンを同チームで過ごした。75~79シーズンが個人としてはキャリアの最盛期で、この期間の得点アベレージは19点を上回った。パスも上手く、背番号32は欠番となっている。引退後はプリンストン大のピート・キャリルHCのもとで働いたのち、NBAでレニー・ウィルケンスのACを9シーズン務めた(キャブスで7シーズン、ホークスで2シーズン)。95年に新興チームであったバンクーバー・グリズリーズの初代HCに就任。創設1年目のチームは開幕2連勝を飾るが、その後は負けが込み、リーグ最低成績でシーズン終了。翌シーズンもまったく改善が見えず、シーズン途中で解任された。ウォリアーズで暫定的にHCを務めたこともあるが、NBAでの通算勝率は2割にも満たない。WNBAでもHC経験がある。現役時代は立派な顎髭と口髭を生やしていた。モーリス・ルーカス6フィート9インチのPFでマーケット大出身。74年のドラフト1巡目第14位でブルズから指名されるが、ABAのスピリッツ・オブ・セントルイスに入団。プロキャリアをスタートした。オール・ルーキー2ndチームに選ばれたルーカスは、翌シーズン途中にカーネルズに移籍。この年はオールスターに選出された。76年にABAが消滅。それに伴ってディスパーサル・ドラフトが行われた際、ブレイザーズはジェフ・ペトリー&スティーブ・ハウズを出して同ドラフト2位指名権を獲得。それによってルーカスはブレイザーズの一員となった。NBA1年目のルーカスは得点・出場時間など多くのカテゴリーでチームをリード。ビル・ウォルトンとともにブレイザーズをチーム史上初のプレイオフに導き、そのままNBAチャンピオンとなった。シクサーズとのファイナルでは0勝2敗からの逆転優勝。第2戦で乱闘騒ぎがあり、このときルーカスはダリル・ドーキンスとやり合って双方退場になっているが、このルーカスのファイトでブレイザーズが精神的に持ち直したという見方もあるという。キャリア終盤は移籍が多く、79~80シーズン途中にネッツへ移籍し、そこから81~82シーズンをニックス、82~85シーズンをサンズ、85~86シーズンをレイカーズ、86~87シーズンをソニックスと渡り歩いた。最後に87~88シーズンを古巣ブレイザーズで過ごして現役を引退。NBAでも4度オールスターに選ばれており、78年にはオール・ディフェンシブ1stチームとオールNBA2ndチーム、79年にもオール・ディフェンシブ2ndチームに選出されている。背番号20はブレイザーズの頁岩。元チームメイトのウォルトンはルーカスを尊敬しており、息子にルーク(ルーカスの愛称)と名付けたという。トラック・ロビンソン本名はレオナルド・ロビンソン。「トラック」の愛称で親しまれ、SF並の機動力を持ったPFとして有名だったロビンソンは、テネシー州立大の出身。74年のドラフトでは2巡目第4位でブレッツに入団した。当時のチームにはエルビン・ヘイズらがおり、あまり活躍できず、2年目には成長を見せるも3年目の76~77シーズン途中にはホークスへ放出されてしまった。しかし、ここでいきなり平均20点・10リバウンドを上回るスタッツをマーク。ジャズへトレードされて迎えた翌77~78シーズンには出場時間・リバウンドでリーグ首位に立ち、オールスターとオールNBA1stチームに選ばれるなどキャリア最高の活躍を見せた。ただ、いずれのシーズンもチームの成績は奮わず、翌シーズン途中には(前のシーズン上回る成績を残していたにもかかわらず)サンズへトレードされた。当時のサンズは、ロビンソンが過去に在籍してきたチームに比べると層が厚く、プレイングタイムをはじめとして数字は下降したが、貢献度は高く、主力のひとりとして活躍。81年には再びオールスターにも選ばれた。81~82シーズン終了後、モーリス・ルーカスとのトレードでニックスへ移籍。当時31歳だったロビンソンは移籍1年目を大乱調のまま終えると、そのまま復活することなく、84~85シーズンの開幕直後に2試合だけプレイしたのを最後に現役を引退した。ニックスでは「4輪がパンクしたトラックだ」とファンから批判されるなど、いいところがなかった模様。

  • 04Jan
    • 昭和46年ドラフト組

      あけましておめでとうございます!オースティン・カー高校時代の67年にアーティス・ギルモアらとともにオール・アメリカンに選出され、ノートルダム大に進んだ。6フィート4インチのSGで、ピート・マラビッチに次いで1シーズン1000点以上を稼いだり、NCAAのプレイオフで平均50点(未だに記録)をマークしたりと高い得点力を誇っていた。71年のドラフトでは創設2年目のキャブスから1巡目第1位で指名されて入団。因みにABAのヴァージニア・スクワイアーズからも指名を受けていた。ルーキーシーズンは、プレシーズンで足を骨折して最初の1ヶ月ほどを欠場。一旦は復帰するが再度足を負傷して7週間ほど欠場するなど、出場時にはそれなりに活躍していたが、厳しいシーズンとなった。そのオフ、ベテランのレニー・ウィルケンスが加入したことで、強力なバックコートが完成。カーは翌73~74シーズンにはオールスターにも初選出された、74~75シーズンには今度は膝を故障するが、翌75~76シーズンに復帰し、キャブスもチーム史上初めてプレイオフに進出。ウィルケンスはもういなかったが、ようやく最初の低迷期を脱した。80~81シーズンをマブスとブレッツで過ごして引退。背番号34はキャブスの永久欠番である。シドニー・ウィックスUCLA出身。高校時代の学業成績が悪く、サンタモニカ・カレッジで1年間過ごしてからUCLAへ。同大ではスター選手で、69~71年まで3年連続でNCAAのチャンピオンシップまで導いている。因みに71年にはアカデミック・オール・アメリカンも受賞した。6フィート8インチ・225ポンドのFで、71年のドラフトでは1巡目第2位でブレイザーズ入り。創設2年目のブレイザーズはウィックスの加入くらいでは強くならず、18勝64敗と苦しんだが、ウィックスは全82試合に出場して平均24.5点・11.5リバウンドをマーク。オールスターにも選ばれ、新人王にも輝いた(因みに前シーズンにはチームメイトのジェフ・ペトリーも新人王を受賞しており、ブレイザーズは創設から2年連続で新人王を輩出した史上唯一のチームである)。2年目以降も平均20点・10リバウンド前後の成績をキープし、74年にはビル・ウォルトンという強力なチームメイトも加入。同年には選手権HCとしてレニー・ウィルケンスも加わったが、ウィックスの在籍中にチームはプレイオフに進めなかった。76年オフにはセルティックスへ移籍。デイブ・コーウェンスと強力なフロントラインを形成した。しかし、翌シーズンにはカーミット・ワシントンの加入もあってか役割が減少。チームも低迷し、78年オフにはそのワシントンとともにクリッパーズへ移籍した。ここではあまりパッとせず、3シーズン過ごした後に現役を引退。79~80シーズンにはウォルトンもクリッパーズに来たが、そのウォルトンは故障で鳴かず飛ばず。僅か14試合に出場したのみで、80~81シーズンは全休した。ブレイザーズ時代には4度オールスターに選ばれたが、ルーキーシーズンがピークだった感もある。サイズは大きくなかったが、ピーク時はリバウンドにも強かった。ウィックスが移籍した翌年、ブレイザーズは優勝している。フィル・シュニアー6フィート3インチのG。カリフォルニア大バークレー校を卒業後、71年のドラフト1巡目第4位でブレッツに入団。チームがキャピタル・ブレッツ、ワシントン・ブレッツと移り変わる時代を過ごし、78年には優勝を経験。ただ、シュニアーは故障のためにシーズンの半分以上を欠場し、プレイオフでもプレイしなかった。79~80シーズン中にペイサーズにトレードで移籍。80~81シーズンに9試合だけウォリアーズでプレイし、現役生活を終えた。ピーク時には得点力の高さだけでなく、スティールも上手かった。ブレッツ時代に3度オールスターに出場している。スペンサー・ヘイウッド68年のオリンピック代表メンバーで金メダリスト。デトロイト大出身で、68~69シーズンに平均30点・20リバウンドを上回る成績を残し、すぐにプロ入りを希望。当時のNBAはアーリー・エントリーを認めていなかったため、ABAのデンバー・ロケッツに入団した(のちのナゲッツ)。ヘイウッドはすぐに大活躍を見せ、新人王とMVPを同時受賞。平均リバウンドはABA記録で、オールスターのMVPにも輝いた。しかし、2年目のシーズンを迎えるにあたって、ロケッツと契約問題が生じたことなどもあってか、なんとNBAのソニックスと契約。当時、NBAはアーリー・エントリーを認めていなかったため、騒動となった。「ヘイウッドは大学で4年間プレイしていない」という周囲からの批判と、「既にABAでプレイしたのだから、そのルールの対象にはならない」というヘイウッド側の主張が対立。最終的には法的措置を経て、ヘイウッド側の主張が認められることとなった。NBAでも活躍は続き、72~75年にはオールNBAチームに選出されており、オールスターにも4度出場。75年にニックスに移籍すると、その後はジャズ、レイカーズ、ブレッツと渡り歩くが、80年にはレイカーズで優勝を経験している。背番号24はソニックスの永久欠番。マジック・ジョンソンは、「あいつの頭の中はお花畑だ」とヘイウッドの性格を評している。アーリー・エントリーが認められるようになったきっかけを作った選手と言えるが、当の本人は「もしやり直せるなら同じことはしない。あんな面倒くさいことはごめんだよ」としていた。因みに、その騒動のため、既にソニックスに在籍していたにもかかわらず、71年のドラフトでブレーブスから指名されている。ランディ・スミス72~82年にかけて、906試合連続出場という記録を作った鉄人。97年にAC・グリーンが記録を塗り替えるが、それでも歴代2位の大記録である。バッファロー州立大の出身。優秀なアスリートだったようだが、チームはディビジョンⅢだったためか注目度は低く、71年のドラフト7巡目でようやく地元のブレーブスから指名されたのであった。そんなスミスはトレーニング・キャンプで早速ブレイク。6フィート3インチと小柄ながらもポジションを掴み、1年目から平均13.4点をマーク。その後もスピードとクイックネス、跳躍力を活かしたスミスは成長を続け、76年にはオールスターとオールNBA2ndチームに選出されるまでになった。ディフェンスの評価も高く、スコアラーのワールド・B・フリーも賛辞を送っていたという。78年にもオールスターに出場しており、このときはベンチ・スタートながら27点をあげてMVPに輝いている。79年にキャブスにトレードで移籍し、キャプテンとして2シーズンプレイ。その後、ニックス、古巣クリッパーズで1シーズンずつ過ごし、キャリアを終えた。魅せる選手でもあり、カレッジ時代は試合前のウォームアップでダンクを披露して観衆を楽しませていたという(当時、試合中はダンクが禁止されていた)。アーティス・ギルモア7フィート2インチのC。ジャクソンビル大出身で、71年のドラフト7巡目でブルズから指名されるが、ABAのケンタッキー・カーネルズに加入。1年目から大活躍を見せ、新人王とMVPをダブル受賞した。その後も、オールABA1stチームに5年連続、ディフェンシブ・チームに4度、オールスターMVPに2度選出されるなど、ABAを代表する選手のひとりとしてプレイ。リバウンド王に4度、ブロック王に2度輝き、FG成功率でも2度リーグ首位に立つなど、個人成績も素晴らしかった。75年にチームが優勝したときにはプレイオフのMVPも受賞している。76年にABAが消滅すると、ディスパーサル・ドラフトの1巡目でブルズ入り。82年ににトレードでスパーズへ移籍し、87年までプレイ。87~88シーズンをセルティックス、89年をイタリアで過ごし、キャリアを終えた。 NBAでもオールスターに6度選出され、FG成功率で4度首位に立つなど立派な実績を残しているが、ABA選手に対する評価が厳しいためか、殿堂入りには時間が掛かった。ネイト・ウィリアムス本名はナタニエル・ラッセル・ウィリアムス。ユタ州立大出身で、6フィート7インチのスウィングマン。ドラフトにはかからず、71~72シーズンにシンシナティ・ロイヤルズでデビュー。当時のHCはあのボブ・クージーだった。ルーキーシーズンは81試合に出場して平均11.9点をマーク。チームメイトのタイニー・アーチボルドが史上唯一の得点王&アシスト王に輝いた次のシーズンも、1年目に近い成績を残した。3年目の73~74シーズンは、個人としては多くの部門で自己最高のスタッツを残すが、アーチボルドが故障に苦しむなどチームは低迷。クージーも解任され、翌74~75シーズンの途中にはジャズへ移籍した。ジャズでもしばらくは安定した成績を残していたが、77~78シーズン途中にはウォリアーズへ移籍。翌シーズン終了後(79年オフ)、28歳の若さでキャリアを終えた。怪我が少なく、現役8シーズンのうち6シーズンで80試合以上プレイしている。所属チームに恵まれず、プレイオフでは一度もプレイできなかった。

  • 09Dec
    • 昭和42年ドラフト組②

      流行語大賞は「そだねー」。今年はちゃんと知ってる言葉でよかったです。笑ジミー・ウォーカー6フィート3インチのGで、ジェイレン・ローズの父親(ローズが生まれる前にローズの母親と別れた)。ボストンのストリートでプレイしていたウォーカーは、高校時代に既にサム・ジョーンズに一目置かれており、従兄弟がプロビデンス大にリクルートされたときには、従兄弟自身が同大のHCに「あなたは私の従兄弟のジミーを見るべきだ」と言ったという。カレッジ時代、そのプレイは当時まだ現役だったオスカー・ロバートソンと比較されるほどで、ボブ・クージー率いるボストン・カレッジ相手に50点稼いだこともある。この頃のプロビデンス大は強く、ウォーカー3年目のシーズンは、ボブ・スペンサー、マイク・リョーダンらをスターターに並べていた。しかし、Cのデクスター・ウェストブルックが学業不振で退学になると戦力はダウン。タイトルを獲得するチャンスもなくなってしまった。僅か3シーズンの通算得点は同大史上2位の記録である(一位はライアン・ゴメス)。67年のドラフトでは1巡目第1位でピストンズに指名された。この年はテリトリアル・ピックが廃止されて初のドラフトで、もし廃止されていなかったら、ウォーカーはセルティックス入りしていたと言われているとか。因みにこの年、NFLのニューオリンズ・セインツからも指名されている(カレッジでフットボールはプレイしていない)。プロでのウォーカーは、オールスターに2度出場し、キャリア平均は約17点を誇る。しかし、クイックネスが売りとされるプレイスタイルなのに体重の問題があると見られたり、ピストンズ時代はデイブ・ビング、ロイヤルズ時代はタイニー・アーチボルドといったスターとチームメイトだったから目立っていたという評価があったり、印象は分かれるようだ。バイロン・ベック6フィート9インチのF/C。デンバー大出身で、ABAとNBAを通してナゲッツ一筋でプレイした。67年のドラフトでは3巡目でブルズに指名されたが、ABAのデンバー・ロケッツ(のちにナゲッツに改名)入りを選択した。運動能力が優れているわけではなかったが、堅実なリバウンドと精度の高いフックショットで知られ、69年と76年にはオールスターにも選ばれた。ABAが消滅してNBAに参入した76~77シーズン、1シーズンだけNBAでプレイして現役を引退。背番号40は77年にチーム史上初の永久欠番となっている。フィル・ジャクソン高校時代、フットボールと野球(ピッチャー)をやっていたジャクソンは、次第に野球でスカウトの注目を集めるようになった。その中にビル・フィッチがいた。フィッチは野球のHC経験があり、且つアトランタ・ブレーブスのスカウトもしており、更に当時はノースダコタ大のバスケットのHCであった。ジャクソンはフィッチの勧誘を受け、同大へ進む。そして67年のドラフト2巡目第5位でニックス入り(因みにニックスは1巡目でウォルト・フレイジャーを指名していた)。ジャクソンはプロ入り後、自分のスキルがプロでは通じないことに気付く。アスリートとしては悪くなかったが、腕が非常に長く、オフェンスで出来ることが限られていたのである。その弱点を、ジャクソンはハードワークとディフェンス、頭の良さで補っていく。アグレッシブなスタイルのためか、75年にはバックスのボブ・ダンドリッジと共にファウル数でリーグ首位に立ったこともある。しかし、73年にニックスが優勝したときには6マンとしてチームに貢献(70年は故障でプレイせず)。控え選手としてファンの人気も高かったようである。この後、主力の引退や移籍を受け、一時的に先発となったジャクソンだったが、目立った結果は残せず、78年にはネッツへ移籍。80年に現役を引退した。引退後はまずCBAでHCに就任。チームを優勝に導くなど早速手腕を発揮した。しかし、現役時代、反伝統的なものに理解と関心を示していたこと、髪と髭を伸ばしたヒッピー風の外見、ニューヨークにいた頃にはLSDを使用していたこと…といった印象がマイナスに作用し、NBAからのオファーはなかなか来なかったという。それでもジャクソンに魅力を感じたのが、ブルズのGMだったジェリー・クラウスであり(後に犬猿の仲となるが)、ジャクソンは紆余曲折を経て87年にブルズのACとなり、89年にはHCに就任した。ジャクソンのコーチングの特徴は、ACのテックス・ウィンターが考案したトライアングル・オフェンスと全体主義の精神である。特に後者は禅の要素を取り入れた独自のものであり、これが「禅マスター」と呼ばれる所以でもあろう。こうしたチームの調和とメンタル面を重視するジャクソンのやり方は、ブルズに8年間で6回の優勝・2度の3連覇というリーグ史上に残る栄光をもたらした。あのマイケル・ジョーダンと信頼関係を築いたのもジャクソンならではだったが、その一方でフロント、特にクラウスとの関係は悪化の一途を辿っていった。当時、クラウスと関係が悪かったのはジャクソンだけではなかったが(有名なのはピッペンとの確執)、97~98シーズン前にジャクソンが1年契約を結んだ際、クラウスは「たとえ82勝0敗でシーズンを終えたとしても再契約はない」と言い切った。ジョーダンは「フィルが辞めるなら僕も辞める」として、こうして2度目の3連覇を達成したところで強いブルズは解体した。そして1シーズンのブランクを空け、ジャクソンはレイカーズのHCとして復帰。ジャクソンはシャックを中心とし、ロバート・オーリーらロールプレイヤーたちを巧みに使い、またしても3連覇を達成した。04年オフに一度チームを去るが、1シーズンのブランクを空けて再びレイカーズのHCに復帰。ジャクソンは、以前はコービー・ブライアントとの関係が微妙で、その著書の中でコービーのことを「コーチできないタイプの選手」として批判したほどだった。しかし、今度はそのコービーと良好な関係を築き、07~08シーズン途中のパウ・ガソル獲得などもあり、09・10年と連覇を達成した。07年1月には史上最速で通算900勝を達成。HCとしては歴代最多となる11度のチャンピオンになっている。ジョーダンやシャック、コービーといった史上屈指のスターだけでなく、デニス・ロドマンなど「才能はあるが扱いが難しい」とされる選手を指導することも多かった。かつての恩師、フィッチは「フィルは頭が良すぎるからコーチには向かないと思った」とコメントしていたとか。偉大なHCであると同時に、最も個性的なHCのひとりとも言えるかも知れない。ボブ・ルール6フィート9インチのC。コロラド州立大の出身で、67年のドラフト2巡目で新チームのソニックスに入団。すぐに活躍を見せ、ソニックスにとって最初のスター選手となった。ルーキーでマークした平均18.1点は、ケビン・デュラントに抜かれるまで、ルーキーとしてはチーム史上1位だった。また、ルーキー・シーズンにはレイカーズ戦で47点をあげるなど印象的な試合もあり、当然のようにオール・ルーキー・チームに選出されている。2年目・3年目も着実に成績を伸ばし、その3年目にはオールスターにも出場。リーグ屈指のビッグマンのひとりであった。しかし、4シーズン目の開幕4試合目にアキレス腱を負傷。シーズンの残りを全休し、翌71~72シーズンに復帰しても故障前の状態には戻らなかった。ルールが欠場している間にスペンサー・ヘイウッドが加入したことも影響しているかもしれない。こうしてルールはシクサーズへトレードされた。このシーズンの残りはまずまずの成績を残したが、翌72~73シーズンは再び故障に泣き、シーズン半ばにキャブスへ移籍。74~75シーズンに1試合だけバックスでプレイして現役を終えた。問題の4年目のシーズン、怪我をするまでは平均29.8点・11.5リバウンドをマークしていた。アート・ウィリアムス本名はアーサー・T・ウィリアムス。6フィート1インチ・180ポンドのGでカリフォルニア州立ポリーテクニック大パモナ校の出身。カレッジ卒業後、少しの間を置いた28歳のときにロケッツと契約を結んだ。ロケッツは創設1年目のシーズンを迎えるところであった。ルーキーシーズンは79試合に出場。ジョン・バーンヒルと役割を分け合いながらも、チーム1位の平均4.9アシストをマークした。3年目の69~70シーズンに、スチュ・ランツの台頭で出場機会が減少。それでもアシストはチーム1位だったが、シーズンが終わるとセルティックスへ移籍した。69~70シーズンのセルティックスはプレイオフ進出を逃しており、ウィリアムスが加わった70~71シーズンも、44勝38敗ではあったがプレイオフに進むことが出来なかった。しかし、ジョン・ハブリチェック、デイブ・コーウェンス、ジョジョ・ホワイトら蒼々たるメンバーとチームメイトになったウィリアムスは、堅実な控えとして貢献。チームは再び強くなり、74年にはNBAチャンピオンとなった。ウィリアムスはここでチームを離れ、翌シーズンはABAのサンディエゴ・コンキステイダーズで7試合だけプレイ。そして現役を引退した。

  • 08Dec
    • 昭和42年ドラフト組①

      「ウルトラセブン」を「ウルトラマンセブン」と呼ぶ人を許せません。笑アール・モンロードリブル、パス、プレイメイクなどの巧さで知られたG。「アール・ザ・パール」という愛称が有名だが、地元フィラデルフィアでは「ブラック・ジーザス」と呼ばれていたという。また、かつてはプレイグラウンドの伝説としても知られ、高校時代には多くの独自のムーブを使うことから「トーマス・エディソン」という愛称もあったとか。67年のドラフト1巡目第2位で、ウィンストン・セーラム大からブレッツに入団。ルーキー・シーズンはレイカーズ戦で56点(ルーキー史上第3位、チーム史上第2位)をマークするなど大活躍を見せ、新人王に輝いた。モンローとCのウェス・アンセルドは強力な2枚看板で、モンローの、スピードとアクロバティックな魅力を兼ね備えたプレイはファンの心を掴み、あっという間に地元のヒーローとなった。モンローは自身のプレイに関して、「自分が何をしようとしているかは僕にもわからないんだ。ただひとつ確かなのは、僕をマークしている選手も、これから何が起こるかわからないのさ」とコメントしている。ブレッツ時代には、ひとつのオーバータイムで13点を挙げるという記録も作った(のちにギルバート・アリーナスが更新)。71年にはトレードでニックスへ移籍。ここで形成されたウォルト・フレイジャーとのバックコート・コンビはリーグ史上で見ても強力で、ニックスが73年に優勝したひとつの要因となった。4度オールスターに選出されたモンローは、80年に膝の怪我で引退(35歳ではあったが)。ピート・マラビッチと共に、NBAのゲームをエキサイティングなものにした選手とも言えるかもしれない。背番号15は86年にニックスの永久欠番になっている。05年にABAに誕生したボルチモア・パールズはモンローに敬意を表したネーミングである。90年に殿堂入り。スパイク・リーがレイ・アレン主演で映画を撮った際、アレンの演じた役はモンローに因んで「ジーザス」という名であった。トム・ワークマンシアトル大出身。6フィート7インチ・218ポンドのF/C。67年のドラフト1巡目第8位でホークスに入団した。1年目はいいところがなく、シーズン途中でブレッツに移籍した。翌68~69シーズンも21試合しかプレイできず、オフにはピストンズへ移籍。ここでも出番はなく、シーズン中にABAのロサンゼルス・スターズと契約を結んだ。ビル・シャーマンがHCを務めていたスターズでは、26試合の出場ながら平均20分近く起用されて平均11.9点をマーク。ようやく戦力となった。しかし、フランチャイズの移転でユタ・スターズとなった70~71シーズンは役割が減少。シーズン途中にデンバー・ロケッツ(現ナゲッツ)に移り、このシーズン限りでキャリアを終えた。メル・ダニエルズ6フィート9インチのCでニューメキシコ大出身。67年のドラフト1巡目第9位でロイヤルズから指名されるが、新しいリーグであるABAのミネソタ・マスキーズからも指名され、ダニエルズはマスキーズを選んだ。ダニエルズはABAの初代新人王を受賞。オフにはペイサーズへトレードされ、翌69年と71年にはMVPをも受賞した。ペイサーズがABA時代に3度優勝したときの中心選手であり、オールスターにも7度出場。71年にはオールスターMVPにも輝いた。74~75シーズンをメンフィス・サウンズ、75~76シーズンをイタリアで過ごし、76~77シーズンにネッツでプレイして現役を引退。その後はインディアナ州立大のコーチング・スタッフとなり、86年にはペイサーズのフロント入り。ABAを代表する名選手のひとりで背番号34はペイサーズの永久欠番だが、殿堂入りには時間が掛かり、2012年に殿堂入りを果たした。トゥルーパー・ワシントン本名はトーマス・ワシントン。6フィート7インチ・215ポンドのF/Cで、チェイニー大ペンシルバニア校というマイナーなカレッジ出身。67年のドラフト5巡目第50位でロイヤルズから指名冴えるが、67~73年をABAでプレイした。ABA最初のシーズンでもあった67~68シーズンは、ピッツバーグ・パイパーズでコニー・ホーキンスらと優勝を経験。平均11.6点・10.7リバウンドをマークしただけでなく、FG成功率ではリーグ首位に立った。フランチャイズがミネソタに移った翌シーズンは更に成績を伸ばし、オールスターにも選出されたが、69年オフにホーキンスがNBAへ去るとチーム力が大きくダウン。フランチャイズをピッツバーグに戻した69~70シーズンは開幕から苦しみ、ワシントンもシーズン赤羽にスターズへ移籍した。70~71シーズンはザ・フロリディアンズ、71~73シーズンをネッツで過ごし、現役を引退。通算は平均10.6点・10.0リバウンド。NBAではプレイしなかった。コニー・ホーキンスニューヨークのプレイグラウンドで「伝説」と言われた選手。跳躍力があり、アクロバティックなプレイが魅力で、片手でダンクを叩き込むことが出来た最初のひとりとしても知られている。はじめはハーレム・グローブトロッターズであちこちを周り、19歳のときにABLのピッツバーグ・レンズでプレイ。ここでMVPに輝くと、ABAが始動した67~68シーズンにピッツバーグ・パイパーズに加入した。ホーキンスは得点王となり、シーズンMVPとプレイオフMVPを両方受賞するなど大活躍。パイパーズも54勝24敗とリーグトップの成績を残した。その後はNBAに移り、サンズ、レイカーズ、ホークスで計7シーズンをプレイ。4度オールスターに選出され、70年にはオールNBA1stチームにも選ばれた。背番号42はサンズの永久欠番で、92年には殿堂入りも果たしている。名将ラリー・ブラウンは、6フィート8インチのホーキンスを「ジュリアスの前のジュリアス、エルジンの前のエルジン、マイケルの前のマイケルだった。私が見た中で最も偉大な選手のひとりだよ」としている。ところで、ホーキンスを語る上では避けられない話題として、「八百長騒動」がある。ホーキンスがアイオワ大1年のときにNCAAの八百長騒動があり、このときホーキンスに繋がりのあった関係者がリストアップされたことで、ホーキンスは騒動の渦中にある人物となってしまった。ホーキンスは無実で、逮捕も起訴もされなかったが、アイオワ大からは追い出され、NBAでプレイすることを禁止されてしまう。これがハーレム・グローブトロッターズでキャリアをスタートさせた理由である。因みにホーキンスはNBAを告訴し、これにNBAが最終的に同意したことで、NBAでのプレイが可能になった。

  • 15Oct
    • 昭和51年ドラフト組②

      先日、弦楽四重奏でサウスポーをやったら意外と好評でした。スコット・メイ6フィート7インチのFで、無敗で知られた76年のインディアナ大の主力メンバー。ボビー・ナイトの元でNCAAチャンピオンに輝き、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー、76年のオリンピックの金メダルを獲得。76年のドラフトでは1巡目第2位でブルズに指名された。最初2シーズンはまずまずだったが、3年目は故障で大きくブレーキ。4年目は持ち直すが、80~81シーズンになると、ラリー・ケノンの加入などがあってか出番が減少。81~82シーズンはバックス、82~83シーズンはピストンズで9試合だけプレイしてキャリアを終えた。カレッジ時代の活躍とドラフト指名順位を考えると期待外れであった。息子が2人おり、ひとりはNBAでプレイしたショーン・メイである。ロバート・パリッシュセンテナリー大出身。80年代にセルティックスが強かったときのスターティングCである。76年のドラフト1巡目第8位でウォリアーズ入り。80年にセルティックスへトレードされ、パリッシュはこの移籍を「屋外便所からビルの最上階に行くようなものだ」と表現した。ここではラリー・バード、ケビン・マクヘイルと強力なフロントラインを形成し、3度の優勝に貢献した。7フッターながら機動力とスキルがあり、速攻に絡むことも出来たし、ジャンプショットも上手かった。アーチが高く、独特なシュートではあったのだが。93~94シーズンまでセルティックスで過ごし、94~96年をホーネッツ、96~97シーズンをブルズでプレイし、43歳で現役を引退した(計21シーズン)。NBA史上3番目の最高齢でプレイした選手だが、1位のナット・ヒッキー(46歳)は47~48シーズンに2試合プレイしただけのキャリアで、2位のケビン・ウィリス(44歳)も、43歳のシーズンはプレイしていなかった。キャリアを通じて大きな故障に見舞われたこともなく、総試合出場数は歴代1位である。これだけ長くプレイできたのは、ウォリアーズ時代にクリフォード・レイから体のメンテナンスを教わったからだとか。セルティックスに在籍した最後のシーズンは40歳だったが、スターティングCを務め、ホーネッツでの2シーズンも主力として精力的にプレイした。ブルズでの最後のシーズンは出番が限られ、キャリアで初めて1シーズンに11試合欠場したが、それでも控えの中ではベストのCであった。ここで自身4つ目のチャンピオン・リングを獲得するが、「このチーム(ブルズ)も強いけど、86年のセルティックスの方が上だろうね。あのチームはフロントラインが充実していた」とコメント。因みに、当時のブルズのHC、フィル・ジャクソンは、パリッシュがデビューしたときはまだ現役選手だった。タフな選手で、87年プレイオフのピストンズとのシリーズで、ビル・レインビアをフロアに倒したのは有名か。ビル・ウォルトンは「歴代最高のシューティング・ビッグマン」と評している。背番号00はセルティックスの永久欠番で、もちろん殿堂入りも果たしている。愛称の「チーフ」は、セルティックスでチームメイトだったセドリック・マクスウェルに名付けられた。デニス・ジョンソンDJの愛称で知られた6フィート4インチのG。プロ入り当初はSGとして苦闘する姿が見られたが、のちにPGとして大成功のキャリアを収めた。高校時代は6フィートもなく、出番もほとんどなかったという。その後、ジュニア・カレッジ、ペパーダイン大で実績を積み、76年のドラフトにエントリーするが、評価はそれほど高くなく、ソニックスが2巡目第29位で指名。ジュニア・カレッジ時代にコーチと衝突したり、それがきっかけでチームから追い出されたりと、プレイ以外のマイナス要素も足を引っ張ったようである。4年契約を結んだジョンソンは、フレッド・ブラウン、スリック・ワッツのバックアップとしてキャリアをスタート。1年目のHCはビル・ラッセルであった。2年目、ボブ・ホプキンス新HCを迎えるが、チームは5勝17敗と低迷。しかし、ここでホプキンスが解任され、レニー・ウィルケンスがHCに就任すると状況は一気に好転。ジョンソンとガス・ウィリアムスを積極的に起用するなどウィルケンスのプランは当たり、最終的に47勝35敗をマーク。プレイオフではレイカーズ、ディフェンディング・チャンピオンのブレイザーズ、ナゲッツを破り、なんとファイナルまで進出した。ファイナルではソニックスが3勝2敗で先に王手をかけるが、最終第7戦まで縺れた末に敗退。ジョンソンはこの最終戦で14本のFGをすべて外すなど精彩を欠き、戦犯となってしまった。のちに「このときは本当に息が詰まりそうだった。でも、この経験が自分を成長させてくれたよ」と語っている。そして、この言葉通り一皮むけたジョンソンは、翌79年ファイナルで大活躍。持ち前の得点力だけでなく、5試合で14ブロックをマークするなど攻守に渡って素晴らしいプレイを見せ、ソニックスは優勝。ファイナルMVPに輝いた。しかし、79~80シーズンは、引き続き戦力的には整っていたにもかかわらず、カンファレンス・ファイナルでルーキーのマジック・ジョンソンがいたレイカーズに敗戦(のちにジョンソンは、この敗戦をキャリアで最も大きな失望としている)。また、ジョンソンはHCのレニー・ウィルケンスとの衝突が続いており、その影響もあってか、80年オフ、ポール・ウェストファル+ドラフト指名権と交換でサンズへ放出された。ジョンソンはサンズでも攻守に渡って大活躍。得点ではリーディング・スコアラーとしてチームを引っ張った(因みに、ジョンソンが去った80~81シーズンのソニックスは勝ち星を22も減らしている)。最初の2年は、カンファレンス・ファイナルに進むなど悪くなかったのだが、82~83シーズンに1stラウンドで負けてしまうと、ソニックス時代と似たような状況になってしまう。ジョンソンは、ここでもHCのジョン・マックロードと衝突を繰り返しており、GMのジェリー・コランジェロによってリッキー・ロビー+ドラフト指名権と交換でセルティックスへ放出されてしまった(因みにジョンソンが83~84シーズンのサンズは勝ち星を12減らすことになる)。当時のセルティックスはシクサーズ相手に苦戦しており、その理由のひとつがアンドリュー・トゥーニーを止められないということであった。オール・ディフェンシブ・チーム常連のジョンソンの加入はこの問題を解決すると期待され、ジョンソン自身もこの移籍を「夢が叶った」と喜んだ。ジョンソン加入1年目のセルティックスは早速ファイナルに進出。4勝3敗でレイカーズを破り、チャンピオンに輝いた。ジョンソンはそれまでのようにスコアラーとしてではなく、PGとしてチームに貢献。マジック・ジョンソンを抑えたディフェンスも光り、逆にマジックはシリーズ中に何度か判断ミスを犯して「トラジック・ジョンソン」と呼ばれるようになった。翌84~85シーズンもセルティックスはファイナルでレイカーズと激突。ジョンソンはゲーム5で勝負を決めるブザービーターを決めるなど貢献したが、このときは38歳のカリーム・アブドゥル-ジャバーを止められずに2勝4敗で敗戦。ジョンソンはのちに「最もタフな負けのひとつだった」とコメントしている。しかし、セルティックスは翌85~86シーズンもファイナルに進出。ツインタワー擁するロケッツを4勝2敗で退け、ジョンソンは自身3つめのチャンピオン・リングを獲得した。続く86~87シーズン、セルティックスはセミファイナルでバックスに苦戦。最終第7戦の終盤、アウト・オブ・バウンズになりかけたボールをジョンソンが客席にダイブしてティップし、それがジャック・シクマにぶつかってラインを割り、ボールをキープしたプレイがセルティックスの勝利に繋がった。そして、カンファレンス・ファイナルではピストンズとタフな戦いを繰り広げることになる。ジョンソンの見せ場はゲーム5。残り時間6秒で、アイザイア・トーマスが入れたインバウンズ・パスをバードがスティールしてジョンソンにパス。ジョンソンは難しい体制からレイアップを決め、チームを逆転勝利に導いた。この瞬間、実況担当のジョニー・モストが叫んだのは有名だろうか。ジョンソンもお気に入りの瞬間だという。また、ゲーム6・7ではデニス・ロドマンと挑発し合うなど、別の持ち味も出している。結局、この年もファイナルに進むのだが、2年ぶりの再戦となったレイカーズに勝てず、2勝4敗で敗れてしまった。そして翌87~88シーズン、セルティックスの戦力は落ちており、カンファレンス・ファイナルでピストンズに敗退。88~89シーズンはバード不在もあって1stラウンドで敗れてしまい、ジョンソンにとって最後となった89~90シーズンも1stラウンドで姿を消した。衰えは隠せなかったが、HCのジミー・ロジャースは「うちのチームの繋ぎ役だね」と評価。背番号3は永久欠番となった。引退セレモニーでは、マジック・ジョンソンが「史上最も偉大なバックコートのディフェンダー」と賛辞を送り、バードも「最高のチームメイト」と賞賛している。キャリア通算でオールスターに5度、オールNBAチームに2度、オール・ディフェンシブ・チームに9年連続選出。若い頃は果敢にダンクを狙うなど積極的なプレイで知られ、セルティックスでは理性的なGとして名を馳せた。競争心の強い選手としても有名だった。勝負強さから「マネー・プレイヤー(金を稼げる選手)」とも呼ばれたとか。引退後は93年にセルティックスのスカウトに就任。しかし同年のうちにACとなり、97年まで務めた。03年にはアルビン・ジェントリーの後を継いで24試合だけクリッパーズのHCを務めた。これ以外にブレイザーズのスカウトやNBDLのHCも務めている。07年に心臓発作で他界。そこから3年後の2010年に殿堂入りを果たした。殿堂入りまで時間が掛かった理由として、トラブルメイカーとしての一面が邪魔をしたという評価もあるようだが、真偽の程は不明。因みにジョンソンが亡くなったときには、ダニー・エインジは「歴代で最も過小評価されていた選手だよ」とコメントも。また、ビル・レインビアは「偉大なチームの偉大な選手だ」と呼んだ。フライ・ウィリアムス本名はジェームス・ウィリアムス。元々は野球をやっており、ピッチャーだったが、野球でやっていくには背が高くなりすぎたと助言されてバスケットへ転向。ストリート・バスケットに頻繁に参加するようになり、ワールド・B・フリーら素晴らしい選手たちと共に腕を磨いた。高校1年で6フィート5インチまで背の伸びたウィリアムスは活躍。そのプレイング・スタイルから「フライ」という愛称を授かったのもこの頃だった。出席率が悪かったウィリアムスは大学進学予備校を経て高校を卒業し、オースティン・ペイ州立大に進学。のちにウィザーズのHCとなるレオナード・ハミルトンに勧誘されてのことだった。入学時、空中に「フライ」と書くというデモンストレーションを含む大歓迎で迎えられたウィリアムスは、いきなり全米5位となる平均29.4点をマーク。チームはNCAAトーナメントに進んだ(2回戦で敗退)。そして、2年次が終わると生活の苦しさを理由にプロ入りを決意。74年、ABAのナゲッツに指名を受け、その後、スピリッツ・オブ・セントルイスに売られた。プロデビューとなった74~75シーズンは平均9.4点。得点力というよりはショー的要素で知られたウィリアムスは、一貫した活躍が出来なかったようだ。そして、翌シーズンはプレイしなかった。75~76シーズン終了後にはABAが消滅し、4チームがNBAに吸収合併。ウィリアムスはCBAでキャリアを続けた。しかし、NBAのチームから魅力的なオファーはなく、次はイスラエルでプレイ。それでもNBAのチームに注目されることはなかった。ウィリアムスはのちに、自分の気性の荒さが、オファーがなかった理由だとしている。カレッジ時代は本当にスターで、ファンからの人気も高い選手だった。背番号35は2009年にオースティン・ペイ州立大の永久欠番となっている。

  • 14Oct
    • 昭和51年ドラフト組①

      もう開幕ですね~BSでやってくれないけど…エイドリアン・ダントリースコアラータイプのSF。73~76年までノートルダム大でプレイ。この間、2度オール・アメリカンに選出されており、また73年に同大がUCLAの88連勝を止めたときのメンバーでもある。そして76年のモントリオール・オリンピックで金メダルを獲得した。76年のドラフトでは1巡目第6位でブレーブスに入団。新人王を受賞し、過去5年間でブレーブスで新人王を受賞した3人目となった。しかし、オーナーの意向のためか、オフの間にペイサーズへトレードで移籍。シーズンが始まって23試合プレイしたところで、今度はレイカーズへトレードされた。1シーズン半を過ごし、79年オフにはジャズへ移籍した。ジャズに在籍していた頃が恐らく選手としてのピーク。6度オールスターに選ばれ、オールNBAチームにも2度選出。81年と84年には30点を超えるアベレージを残して得点王になった。86年にはケリー・トリピューカらとのトレードでピストンズへ移籍。ここでも平均20点前後を稼いでいたが、88~89シーズン半ばにマーク・アグワイアとのトレードでマブスへ移籍。アグワイアは、アイザイア・トーマスと旧知の仲で、そのことがこのトレードに関係していたとかいないとか。因みにこのシーズン、ピストンズは優勝している。33歳となった翌シーズンは衰えが顕著になり、シーズン半ばには故障で離脱。翌90~91シーズンの終盤にバックスで10試合だけプレイしてキャリアを終えた。ジャンプショット、ゴール近辺、FT…3Pを除くあらゆるスタイルで高得点をあげることができたスコアラー。ファウルをもらうことが多く、1試合におけるFT成功数28本はウィルト・チェンバレンと並んでリーグタイ記録である。背番号4はジャズの永久欠番だが、ジャズがダントリーを放出したのは、期待の若手だったカール・マローンに悪影響を与えるかも知れないからだったとか。ピストンズもジョー・デュマース、デニス・ロドマンら若手へのダントリーのアプローチを気にしていたという。クイン・バックナーインディアナ大出身で、76年のドラフト1巡目第7位でバックス入り。キャリアを通じてタフなディフェンダーとして知られ、4度オール・ディフェンシブ2ndチームに選出された。また、軌道の低いシュートは独特だったが、得点力もないわけではなかった。個人としては地味な選手だったがそのキャリアは華やかで、高校・大学・NBAで優勝し、金メダルを獲得したことのある3人のうちのひとり(あと2人はマジック・ジョンソンとジェリー・ルーカス)。先述のディフェンスだけでなく、堅実なプレイメイクのできるロールプレイヤーとしても一定の評価があったようだ。インディアナ大時代は4年間先発としてプレイし、うち3年間はキャプテンを務めた。感情的なことで有名なボビー・ナイトHCとうまくやっていたようで、「最初に学んだのは権力を持っている人をリスペクトするということ。正しかろうと正しくなかろうとね(笑)」とのちにコメントしている。因みに74年には世界選手権(銅メダル)、76年の夏にはオリンピック(金メダル)の代表チームにも選ばれている。プロ1年目は、個人としては平均2.4スティールをマークするなど持ち味は見せたが、チームは30勝52敗でディビジョン最下位に低迷。1シーズンで、高校と大学で喫した総敗戦数(25敗)の倍以上も負けを経験してしまった。しかし、シーズン途中にドン・ネルソンがHCに就任してからチームは改善しており、翌シーズンはプレイオフに進出。バックナーは2年目でオール・ディフェンシブ2ndチームに選出された。その後、バックスは80年にミッドウェスト・ディビジョン首位に立ち、81年には60勝をマーク。バックナーは79~81年にかけて3年連続でオール・ディフェンシブ2ndチームに入っただけでなく、2桁の得点アベレージをマークしていた。尤も、バックナー自身は「私の長所はディフェンス。あとはゲームに対する知識と、チームメイトをゲームに関わらせる力だと思う。シュートが自分の強みだなんて思ったことはないよ」とのちにコメントしているが。82年オフ、デイブ・コーウェンスとのトレードでセルティックスへ移籍。コーウェンスは将来殿堂入りをする名選手だが、このときは一度目の引退から復帰するところで、コーウェンスは2シーズンのブランクがある上に34歳であった。因みにセルティックスのGMだったレッド・アワーバックは、バックナーについて「彼は勝者でありリーダーだ。よく訓練された選手だよ」といった旨の評価をしている。ここでのバックナーはデニス・ジョンソンの加入などで年々役割が縮小していくが、84年には遂にNBAでもチャンピオン・チームのメンバーとなった。85年オフにペイサーズに移籍し、シーズン半ばに解雇されたところで選手としてのキャリアは終了。引退後は解説者を経て、93年、マブスのHCに就任した。当時のマブスのオーナー、ドナルド・カーターは選手として常に勝者だったバックナーに白羽の矢を立てたが、11勝71敗に終わったばかりのチームを立て直すことはできずに大失敗。選手層が薄すぎた上、一部では「ボビー・ナイトのやり方に似ている」とも言われた厳格なやり方は若手と合わず、最初の24試合を1勝23敗、トータルでも13勝69敗という無惨な結果であった。これは(当時)、HC1年目の最低勝率記録であり、オフにはすぐ解任された。因みに76年にはNFLのワシントン・レッドスキンズからも指名されたという。ロン・リーオレゴン大出身のG。同大時代、その恐れを知らないプレイスタイルと激しい勝利への執念から、HCのディック・ハーターに「カミカゼ・キッズ」と呼ばれた。76年のドラフトでは1巡目第10位でサンズ入り。まずまずの成績でオール・ルーキー・チームに選ばれた。78~79シーズン途中にネッツへトレードされ、翌79~80シーズンはホークスで開幕。シーズン途中にはピストンズへトレードされ、82年に現役を引退した。カレッジ時代の活躍は素晴らしく、オレゴン大の歴代の得点王でもあるが、プロでは大成せず。特にシュートは今ひとつで、ディフェンシブな選手として知られた。スティールも多かった。また、堅実でハードにプレイする姿は評価されており、キャリアのほとんどが控えだったがファンからの人気は高かったようだ。ラリー・ライトグランブリング州立大出身のPG。カレッジ時代は輝かしい実績を残し、76年のドラフト1巡目第14位でブレッツ入り。トム・ヘンダーソンやフィル・チェニアーらの控えとして、70年代後半の強いブレッツに貢献した。2年目の77~78シーズンには優勝、翌78~79シーズンもファイナル進出を経験している。しかし、79~80シーズンは1stラウンドで敗退。ライトは、80~81シーズンの開幕から1ヶ月ほど経ってからピストンズと契約を結んだ。81~82シーズンは1試合プレイしただけでイタリアへ。地元のクラブチームに加入した。ここでのライトはスターで、ライトが加わったチームは初めてイタリアン・チャンピオンシップを奪取。翌年にはチームをこれまた初めてのヨーロッパ王者に導き、ライトはMVPを受賞。ヨーロピアン・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞した。その後もイタリアでプレイを続け(移籍はしている)、キャリア終盤には選手兼HCとなっていた。引退後は90年に母校グランブリング大のACに就任。2シーズンをそこで過ごした後は、ソニックス、ブレッツのスカウトを経て高校のACに就任。99年には再びグランブリング大でHCとなるが、0年に解任された。NBAではスターではなかったが、控えPGとしては悪くなかった。