ひばち
  • 10Sep
    • 昭和43年ドラフト組②

      NBAがBSで放送されなくなり、WOWOWも来シーズンは放送しないと聞いて、がっかりです。リック・アデルマンロヨラ・メリーマウント大出身。68年のドラフト7巡目でロケッツに入団。2シーズン過ごし、70年にはエクスパンション・ドラフトでブレイザーズに移籍。そこで3シーズンプレイした。その後、ブルズ、ジャズ、キングスと渡り歩き、75年に現役を引退。引退後は、まず77~83年までカレッジでHCを務め、83年に古巣ブレイザーズのACに就任。当時のHCはジャック・ラムジーであった。86年にラムジーが解任され、その後任のマイク・シューラーも88~89シーズン途中に解任、アデルマンがいよいよHCとなった。アデルマン就任後、成績は落ち、39勝43敗と5割を割るのだが、オフに正規の契約を勝ち取ると、翌89~90シーズンは大躍進。59勝23敗をマークし、なんとファイナルまで進んだ。このときはバッドボーイズに敗れるが、ウェスト屈指の強豪となり、翌91年もカンファレンス・ファイナルまで進出。92年には再びファイナル進出を果たした(ブルズに負けるが)。しかし、これをピークにチーム力は下降。主力の高齢化などもあってロスターも入れ替わり始め、アデルマンは94年にチームを離れた。そこから1シーズンのブランクを空け、95年オフに今度はウォリアーズのHCに就任。ベテランのティム・ハーダウェイ、クリス・マリンをベンチスタートに回すなど、新しい試みもあったが、目立った効果はなく、僅か2シーズンで職務から退いた。そして、また1シーズンのブランクを空け、98年オフにキングスのHCに就任。クリス・ウェバー、ブラデ・ディバッツ、ジェイソン・ウィリアムスを中心として、ドアマットの常連だったキングスをプレイオフ・チームに仕立て上げた。波の激しいウィリアムスとは良好な関係を築けなかったが、それがマイク・ビビーの獲得に繋がって戦力は更にアップ。優勝候補に名前が挙がるほどになり、黄金期のレイカーズとの対戦は注目度も高かった。プレイオフで勝ちきれなかったが…06年にチームを去り、07年にはロケッツのHCに就任。2011年にはウルブズのHCになった。「プレイヤーズ・コーチ」と言われ、問題児とされるボンジ・ウェルズ、ロン・アーテストらの信頼も得ていた一方、「選手たちを自由にやらせすぎる」という批判もあるという。91年のブレイザーズ、02年のキングスは強力なチームだったが、いずれもカンファレンス・ファイナルで敗れており、肝心なところで勝てなかった印象もある。ボブ・カフマンギルフォード大出身のF/C。6フィート8インチ。68年のドラフトでは、エルビン・ヘイズ、ウェス・アンセルドに続く1巡目第3位でソニックスに入団した。当時のソニックスは創設2年目で32勝止まり。カフマンも控えで、オフには選手権HCだったレニー・ウィルケンスによって、これまた創設間もないブルズに放出された。ディック・モッタHCの指揮下にあったブルズは機動力のあるラインナップで主力が固まっており、カフマンの出番は激減。オフには紆余曲折を経て、エクスパンション・チームのブレーブスへ移籍した。ここでカフマンはブレイク。当時のビッグマンとしても小柄ではあったが、正確なシュート力を武器に平均20.4点をマーク。リバウンドも平均10.7本稼ぎ、オールスターに選出された。翌年はルーキーのエルモア・スミスとまずまずのフロントラインを形成。チームの勝ち星は伸びなかったが、カフマンは2年連続でオールスターに選ばれた。72年にはジャック・ラムジーがHCに就任。このシーズンはボブ・マッカドゥーも加わり、カフマンは3年連続でオールスターに出場したが、勝ち星は逆に減り、そしてラムジーは幾つかの決断を下す。スミスをトレードに出し、カフマンをベンチに回し、マッカドゥーをチームの中心に据えた。これにより、ブレーブスは42勝40敗をあげて、チーム史上初のプレイオフ進出を果たすが、カフマンの影は薄くなってしまった。74年オフにはホークスに移籍するが、ここでは出場機会が更に減少し、ここで引退。引退後は、短期間ではあるが、ピストンズでHCとGMを経験している。ピーク時はFG成功率50%・FT成功率80%をクリアするなど、器用なビッグマン。パサーとしてもディフェンダーとしても悪くなかったという。ゼイ・アブドゥル・アジス元の名はドナルド・スミス。ドラフト時の登録名はドン・スミスだった。6フィート9インチのC/Fでアイオワ州立大を卒業後、68年のドラフト1巡目第5位でロイヤルズに入団。当初は戦力にならなかったが、シーズン中にバックスへ移籍して開花。移籍後はダブルダブルのアベレージを残した。70~72シーズンはソニックス、72~75シーズンはロケッツでプレイ。ここまでは戦力となっていた。75~76シーズンにソニックスに出戻ると成績は大幅にダウンし、76~77シーズンをブレーブス、77~78シーズンをセルティックス&ロケッツで過ごし、現役を引退した。「カンガルー」の愛称で知られたディフェンシブなビッグマン。ピーク時には平均30分足らずで2桁のリバウンドを稼いでいた。ミルト・ウィリアムス6フィート2インチのGでリンカーン大ミズーリ校の出身。68年のドラフト17巡目第202位でニックスに指名されるが、NBAデビューは70~71シーズンであった(ニックス)。その後も生き残り当落線上のキャリアが続き、ソニックスに在籍した73~74シーズンは自己最多の53試合に出場するなど、ささやかなハイライトであった。74~75シーズンを、ABAのスピリッツ・オブ・セントルイスで過ごして現役を引退。当時のチームにはルーキーのモーリス・ルーカスがいた。ウィリー・ウォースリーテキサス大エルパソ校出身のGで、同大がドン・ハスキンスHCの元、66年にNCAAを制したときのメンバーである。5フィート9インチ・175ポンドと小柄な選手で、68~69シーズンのネッツで24試合だけプレイ。結果は残せなかった。プロキャリアを終えた後は、子供たちの収容施設やハイスクールなどでコーチを務めていた模様。

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  • 30Aug
    • 昭和43年ドラフト組①

      今週末は本番…!ウェス・アンセルド88年に殿堂入りしたCで、リーグの偉大な50人にも選ばれている。ルイビル大出身で、1年次には平均35.8点・23.6リバウンドという驚異的な数字を残した。68年のドラフトでは1巡目第2位でブレッツに入団。平均18.2リバウンドをマークし、ウィルト・チェンバレン以来史上2人目となる、新人王とMVPの同時受賞を達成。チームも57勝25敗と好成績を残した。ディフェンシブなCで、75年にはリバウンドとブロックでリーグ首位を記録。リバウンドにも強く、ディフェンス・リバウンドを取ったあとのアウトレット・パスで速攻のチャンスを作り出すのも上手かった。Cとして当時としても非常に小さく、6フィート7インチしかなかったが、それを補うだけの屈強な強さがあった。ブレッツが4度のファイナルに進み、そのうち一度優勝したときの中心選手で、78年に優勝したときはファイナルMVPも受賞している。因みにオールスターには5度出場。背番号41は、81年に引退するとすぐに欠番となった。引退後はブレッツのフロントに入り、87年にはHCにも就任。しかし、コーチとしての力量は選手としての実績に遠く及ばず、202勝345敗と大きく負け越し。6シーズン半も指揮を執ったが、プレイオフに進んだのはシーズン半ばに職務を受け継いだ1年目のみ。5シーズン連続で32勝にも届かなかった。96年にはGMに就任。4年近く務めるが、GMとしても手腕は微妙。アンセルド在任中にチームは一度しかプレイオフに進めず、補強も上手くいかなかった。ロン・ウィリアムス6フィート3インチ・188ポンドのG。ウェスト・ヴァージニア大出身で、同大最初のアフリカ系アメリカ人のひとり。68年のドラフト1巡目第9位でサンフランシスコ時代のウォリアーズ入り。2年目、3年目には平均14点・5アシストを上回る成績を残したが、チームがゴールデンステイト・ウォリアーズとなった71~72シーズンからは役割が減少。73年にはバックスへ移籍し、2シーズン在籍。75~76シーズンに9試合だけレイカーズでプレイし、NBAでのキャリアを終えた。キャリア平均は9.3点・3.5アシスト。70~71シーズンにはFT成功率でリーグ3位になったこともある。引退後はカレッジを含む幾つかのチームでコーチを務めていた。ドン・メイデイトン大出身のF。68年のドラフト3巡目第30位でニックス入り。2シーズン過ごすが戦力にならず、70年オフにエクスパンション・チームのブレーブスに移籍した。ここでは層の薄さもあり、平均20点を超える活躍を見せたが、翌シーズン、ホークスに移籍すると控えに逆戻り。72~73シーズンは更に出番が減少し、シーズン中にシクサーズへ移籍した。このシーズンのシクサーズはリーグ史上最低勝率(当時)をマークした弱小チームで、そこに放り込まれたメイは、キャリア2度目の平均2桁得点をマークした。シクサーズではもう1シーズン過ごし、74~75シーズンをキングスでプレイして現役を引退。キャリア平均は8.8点。70年にニックスが優勝したときのメンバーでもある。チャック・ウィリアムス本名はエドワード・ウィリアムス。6フィート2インチ・175ポンドの小柄なPGで、コロラド大出身。68年のドラフト6巡目第76位でシクサーズに指名されるが入団とはならず、70~71シーズンにABAでデビューを飾った。ピッツバーグ・コンドルスに加入したウィリアムスは83試合(総試合数は84)で、平均9.5点をマーク。翌71~72シーズンはアレックス・ハンナム率いるデンバー・ロケッツで全試合に出場した。72~73シーズンには創設1年目のサンディエゴ・コンキステイダーズに移籍して大ブレイク。キャリアハイの平均17.7点をあげただけでなく、平均7.7アシストでアシスト王にも輝いている。因みにこのシーズンのHCは、HC1年目のKC・ジョーンズであった。73~74シーズンは、シーズン途中にケンタッキー・カーネルズに移籍したため、リーグ最多の90試合に出場。74~75シーズンに在籍したメンフィス・サウンズでも活躍したが、シーズン終了後にチームが消滅。ABA最後の75~76シーズンはナゲッツに戻った。NBAに移ると成績は大きく下降し、シーズン途中にブレーブスへ移籍。77~78シーズン終了後に引退した。ハーム・ギリアム6フィート3インチのG/F。パデュー大出身。68年のドラフト13巡目第3位でブルズから指名されるが入団はせず、翌69年のドラフト1巡目第8位でロイヤルズに入団した。2年目はブレーブスで過ごし、71~75年をホークス、75~76シーズンをソニックスでプレイ。そして76~77シーズンにブレイザーズの初優勝に貢献し、30歳にして現役を引退した。05年に心臓発作で他界。ジャック・ラムジーは(ブレイザーズ時代のHC)は、77年のプレイオフでは、レイカーズとのシリーズ第2戦後半のギリアムの活躍で流れが変わったと回顧した。

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  • 25Aug
    • 昭和58年ドラフト組④

      基本的に主人公を好きにならないタイプでして、キン肉マンも、キン肉マン以外の超人が好きでした。ラルフ・サンプソンヴァージニア大出身のC。カレッジ史上3人しかいない、ネイスミス・アワードとナショナル・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを3度受賞した選手のひとり(あと2人はビル・ウォルトンとシェリル・ミラー)。また、ウッデン・アワードを2度受賞したのは唯一である。82~83シーズンの終盤、幾つかのチームが「サンプソン獲得のためにワザと負けているのでは?」と囁かれたほど注目された選手で、83年のドラフトではもちろん1巡目第1位でロケッツに入団。軽々とダンクできる7フィート4インチというサイズがありながら、ガードのようにボールを運ぶことも出来、当時としては稀有なインサイド・プレイヤーであった。2年目には本格派Cのアキーム・オラジュワンが加入し、ツインタワーを形成。このシーズンはオールスターでMVPにも輝いており、マジック・ジョンソンは「彼が自分のチームにいたらと思うよ」と賛辞を送っている。サンプソン加入前のロケッツは僅か14勝しかできず、サンプソンのルーキーイヤーも29勝止まりだったが、ツインタワー結成後は急な飛躍を見せ、86年にはなんとファイナル進出を果たした。しかし、サンプソンのキャリアはここから下降線を辿っていく。まず、サンプソンはHCのビル・フィッチとの関係が良好ではなかった。従来のビッグマンとはまったく異なるサンプソンのスタイルはフィッチに信頼されなかったという。また、86~87シーズン中盤に膝を負傷。サンプソンは重傷にも関わらず復帰を優先し、これが仇となった。翌87~88シーズンになっても故障前の状態には戻れず、19試合プレイしたところでウォリアーズへトレード。このシーズンも34試合の欠場を強いられた。HCがドン・ネルソンに代わった88~89シーズンはシーズン中盤からベンチ・スタートが多くなり、成績は平均6.4点・5.0リバウンドまでダウン。続く2シーズンを過ごしたキングスでは、トータル51試合しか出られず、91~92シーズンをブレッツでプレイして現役を引退した。最後のシーズンは10試合で平均2.2点・3.0リバウンドという寂しいものであった。オールスターには4度出場。2年目にしてMVP投票で10位に食い込み、オールNBA2ndチームにも選出された。故障前は非常に見応えのある選手だったが、肝心なときに活躍できないという批判もあり、「最盛期ですら、実力を出し切れていなかった」とする見方もあるという。スタッツで見るとターンオーバーとファウルが多いのも難点か。アントワン・カー6フィート9インチのF/C。愛称は「ビッグドッグ」。ウィチタ州立大出身で、当時はゼイビア・マクダニエルやクリフ・レビングストンらとチームメイトだった。83年のドラフト1巡目第8位でピストンズに指名されるが、その年はイタリアのオリンピア・ミラノでプレイ。翌84年夏、ダン・ラウンドフィールドと交換で、元チームメイトであるレビングストン、86・87年のドラフト2巡目指名権と共にホークスへ移籍し、NBAデビューとなった。決して悪くはなかったが、インサイドの層が厚かったために出番は限定的で、89~90シーズン半ばにケニー・スミスと交換でキングスに放出されたところでブレイク。そのシーズンの残りは控えながら平均18点を上回る数字をマーク。翌90~91シーズンは先発に定着し、キャリアハイの平均20.1点をあげた。91年にはスパーズへ移籍。デビッド・ロビンソン、テリー・カミングスらのバックアップを務めることが多かったが貢献度は高く、そのシーズンのプレイオフ1stラウンドでは、手を骨折して欠場したロビンソンの代役として見事なプレイを披露した(シリーズには敗れた)。94~95シーズンの開幕直前にはジャズと契約。ここでは主に控えだったが、重要な場面ではコートに立つことも多く、98年のファイナル第5戦でブルズの地元優勝を防いだ活躍は印象的であった。その後、ロケッツとグリズリーズで1シーズンずつ過ごして現役を引退。目を負傷したあとはサングラスを付けてプレイ。Cとしては小さく、最盛期でもリバウンドは少なかった。ジャンプショットは精度が高く、キャリア終盤でも武器であった。弟のヘンリー・カーは87年のドラフトでクリッパーズに指名されている。ジェフ・マローン得点力のあるSG。ミシシッピ州立大出身で、83年のドラフト1巡目第10位でブレッツ入り。1年目は主に控えだったが、2年目にはソニックスから加入したガス・ウィリアムスと先発バックコートを組み、平均18.9点を記録。3年目の翌85~86シーズンには平均22.4点をあげている。チームはプレイオフ1stラウンド止まりだったが、この年と翌年はオールスターにも選ばれた。89~90シーズンにキャリアハイの平均24.3点をあげたのを最後にジャズへ移籍。ジャズではカール・マローンに次ぐ得点源として活躍した。93~94シーズンのトレード期限にはジェフ・ホーナセックと交換でシクサーズ移籍。持ち前の得点力は健在だったが、94~95シーズンは足の怪我で19試合しか出られず、95~96シーズン途中に解雇されてしまう。シーズン後半にヒートに拾われるが出番はほとんど無かった。精度の高いシューター。3Pはほとんど打たないが、FG成功率48%、FT成功率87%を誇る。シュート力や得点力で評価されることの多い選手だが、マイケル・ジョーダンはマローンのディフェンスを高く評価しており、ミスも少ない。84年1月3日のピストンズ戦で決めた3Pの劇的なブザービーターはキャリアのハイライト。引退後はNBADLのHCなど、コーチ業に勤しんでいる模様。ランディ・ウィットマン6フィート6インチのSG。インディアナポリス出身でインディアナ大に進み、名将ボビー・ナイトの指導を受けた。アイザイア・トーマスは当時からの友人である。81年に同大がNCAAチャンピオンになったときの主力で、83年にはカンファレンスのプレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞。同大の殿堂入りも果たしている。83年のドラフトでは1巡目第22位でブレッツに指名され、直後にホークスへ移籍。3年目の85~86シーズンから87~88シーズンまでの大半で先発を務め、その間に平均12点・3.5アシストをマークした。88年オフにキングスに移籍するが、ロドニー・マックレイ、ハロルド・プレッシーらの控えに留まり、出場機会は激減。シーズン半ばに故郷インディアナのペイサーズへトレードされ、91~92シーズンまで3シーズン半を過ごした。ここでも出場機会は少なく、プレイングタイムは平均10分にも満たなかったが。92年、引退してすぐにペイサーズのACに就任。翌シーズンはマブスとマジックを渡り、94~99年はウルブズでACを務めた。99年にはキャブスで初めてHCを務めるが、再建途中のチームは荷が重く、2シーズンで解任(62勝102敗)。その後、マジックのACを経て、06~07シーズンには再度ウルブズへ移り、シーズン半ばにはドゥエン・ケイシーの後を継いでHCに就任した。しかし、ウィットマン就任後、チームの成績は下降。オフにはガーネットがチームを去り、07~08シーズン序盤、ウィットマンは解任された。このときはオーナーのグレン・テイラーが、それまでフロントにいたケビン・マクヘイルにHCになるよう頼んだようである。因みにマクヘイル就任後、成績は上向いた。ウィットマンはその後、ウィザーズでもHCを務めている。スチュアート・グランジャーカナダ出身。モントリオールで育ち、高校からニューヨーク州ブルックリンへ。79年と81年にはそれぞれ別の高校を州チャンピオンに導いた。因みに、その両方のチームで、同じくカナダ人であり、のちにNBAでプレイするビル・ウェニントンとチームメイトであった。ヴィラノバ大を経て、83年のドラフト1巡目第24位でキャブス入り。2年目はホークスに移籍し、86~87シーズン、ニックスで15試合プレイしたのを最後にNBAを離れた。USBLでは1stチームにも選ばれたことがあり、オールスターにも出場している。フィリピンなどでも研鑽を積んだ。ドック・リバース「ドック」は愛称で、グレン・リバースの名でも知られた。82年の世界選手権でアメリカ代表として優勝を経験し、トーナメントのMVPにも選出された。マーケット大を経てプロ入り。83年のドラフト2巡目第31位でホークス入り。エディ・ジョンソンの故障もあってシーズン半ばに先発に昇格。ここで結果を残し、翌シーズン以降7シーズンに渡ってホークスの先発PGを務めた。年々成績をアップさせ、86~87シーズンには平均12.4点・10アシストをマーク。翌88年にはオールスターにも選ばれた。この頃をピークとしてアシストが減っていくのだが、当時はTOも少なく、FG成功率も高く、リーグ有数のPGであった。91~92シーズンはクリッパーズで過ごすが故障もあって満足に力を発揮できず、オフにはニックスへ移籍。移籍1年目はグレッグ・アンソニーらとプレイングタイムを分け合い、93~94シーズンは膝の故障で63試合を欠場。チームはファイナルに進んだが、リバースはそこでプレイすることは出来なかった。そして翌94~95シーズン、3試合プレイしたところで解雇され、直後にスパーズと契約。リバースは、優勝を狙えるチームと契約したかったようで、ニックスがトレードではなく解雇してくれたことに感謝したという。結局、スパーズではファイナルに進むことも出来なかったのだが、2シーズン過ごして現役を引退した。引退後のリバースは99年にマジックのHCに就任。当時のマジックはペニー・ハーダウェイらそれまでの主力をごっそり放出して再建モードに入ったときだったが、ダレル・アームストロングを中心としてロールプレイヤーを上手く起用し、41勝41敗をマーク。プレイオフにこそ出られなかったが、リバースはコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。オフにはグラント・ヒル、Tマックを加え、大幅な戦力アップが期待されるが、ヒルが故障でシーズンの大半を欠場。ヒルの故障は長引き、リバースは以降3シーズンに渡って、Tマックとロールプレイヤーで戦わねばならない苦境を強いられた。プレイオフには3年連続で進んだが、いずれも下位シードであり、1stラウンドで負けている。そして、壊滅的なスタートを切った03~04シーズン序盤に解任。リバースはヒルを常に庇い、Tマックもリバースへの信頼を見せるなど、選手達との関係は悪くなかったようだが、結果には繋がらなかった。シーズンの残りはコメンテーターを務め、そのオフにはセルティックスのHCに就任。当時はアントワン・ウォーカー放出などで戦力が低下しており、再建モードだったが、「ダニー・エインジ(GM)の熱意に打たれた」として契約。就任後しばらくは戦力が上がらず、チーム唯一のスターであるポール・ピアースとの不和も噂されるなど芳しくない状態が続いた。しかし、07年オフにケビン・ガーネットとレイ・アレンが加入して、リーグ屈指の強豪に一気にステップアップ。セルティックスは優勝し、リバースは自身二度目のコーチ・オブ・ザ・イヤーに輝いた。ビッグ3の起用法など、コーチングには多少の疑問符がついている印象もあったが、2010年にもファイナルに進んでおり、2度のファイナル進出は立派。2013年からはクリッパーズのHCを務めている。オースティン・リバースの父。

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  • 16Aug
    • 昭和58年ドラフト組③

      遊園地ってあまり得意じゃないんですが、ディズニーランドは楽しいと思います。スティーブ・スティパノビッチクロアチア系、6フィート11インチのC。ミズーリ大出身で83年のドラフトでは1巡目第2位でペイサーズ入り。大学時代はシューターのジョン・サンドボルドとともにチームを支えていた。堅実なプレイスタイルが持ち味で、1年目から先発として起用されるが、膝に大きな故障を負ったことによって、僅か5シーズンでキャリアは終わってしまった。キャリア平均は13.2点・7.8リバウンド。高校時代はスターだったが、大学では私生活でもコート上でも苦戦。あるときは、セントルイスのレストランで、自分のプレイを批判した客と喧嘩。この騒動でスティパノビッチは誤って自分を打ってしまい、1シーズンの欠場を強いられた。ただ、このあと、トレーニングを積んで勉強にも励み、選手として成長。ヴァージニア大との試合では、あのラルフ・サンプソンをシャットアウトしたこともあるという。デレク・ハーパーイリノイ大出身のPG。83年のドラフト1巡目第11位でマブス入り。3年目(85~86シーズン)の途中から先発に定着。以降、長きに渡ってチームを支えた。ハーパーで有名なのが、84年のプレイオフでレイカーズと対戦したとき。残り時間僅かでマブスが勝っていると勘違いしてボールをキープするのだが、これが原因でレイカーズに負けてしまうというミスをやらかした。2年後にプレイオフで再戦したときにはクラッチシュートを決めるなど、レイカーズを苦しめている(シリーズには負けたが)。80年代終盤からマブスは補強の失敗などで戦力が落ち、90年代序盤にはドアマットチームにまで低迷。93~94シーズン途中、故障したドック・リバースの代役を探していたニックスへ移籍した。ここでハーパーはいきなりファイナル進出を経験。その後も、95~96シーズンまでスターティングPGを務めた。96~97シーズンは古巣マブス、97~98シーズンはマジックでプレイ。この頃にはさすがに衰えていたが、経験とテクニックでそれをカバーする姿が光っていた。98~99シーズンはレイカーズでプレイ。デニス・ロドマンの契約・解雇があったり、大型トレードがあったりするなど波乱含みのチームの中でよくリーダーシップを発揮。デレック・フィッシャーよりもハーパーの方が明らかに貢献度は高かった。シーズン終了後にメルビン・レベットの権利と交換でピストンズへトレードされ、オフのうちに引退。アウトサイド・シュートとミスの少ないゲームメイクが売り。トレードマークはちょび髭。37歳になった最後のシーズンまで主力として活躍した。オールスターに出場したことのない選手の中ではトップクラスと言えるかも知れない。マーク・ウェスト6フィート10インチのC。オールド・ドミニオン大出身。83年のドラフト2巡目第30位でマブス入り。1年目は戦力外状態だったが、オフにバックス、更に2年目の序盤にキャブスに移籍して、ポジションをゲット。主にバックアップだったが成績も上げていき、87~88シーズンのトレード期限にはラリー・ナンス、マイク・サンダース、88年のドラフト1巡目指名権と交換で、ケビン・ジョンソン、タイロン・コービン、複数のドラフト指名権とともにサンズへトレード。移籍直後のウェストは先発として起用され、平均11.8点・8.3リバウンドとキャリアハイの成績を残した。翌88~89シーズンは控えながら、65.3%という高いFG成功率をマーク(シュートの試投数・成功数が規定に足りず、ランキング対象外)。89~90シーズンには先発に返り咲き、FG成功率65.2%で見事リーグ首位となった。その後、94~96シーズンをピストンズ、96~97シーズンを古巣キャブスでプレイ。この頃には衰えもあり、戦力としては弱かったが、人材不足から先発起用される機会もまだ多かった。97~98シーズンをペイサーズ、98~99シーズンをホークス、99~00シーズンをサンズで過ごして現役を引退。引退時点で、通算のFG成功率は3位であった(1位・2位はアーティス・ギルモアとシャック)。82年の世界選手権では代表チームの一員として銀メダルを獲得。キャブス、サンズと長くチームメイトだったケビン・ジョンソンは、オールスターに初選出された際、ウェストへの感謝を込めて背番号41(当時のウェストの背番号)を着用したというエピソードがある。ダレル・ウォーカー6フィート4インチのPGでシカゴ出身。コミュニティ・カレッジを経てアーカンソー大に進学、83年のドラフトでは1巡目第12位でニックスに指名された。1年目は先発起用こそなかったが全82試合に出場し、ラルフ・サンプソンらと共にオール・ルーキー1stチームに選ばれた。2年目も全82試合に出場し、そのうち66試合で先発も務め、キャリアハイの平均13.5点をマーク。チームは弱かったが、悪くない働きを見せていた。86~87シーズンはナゲッツで過ごし、87年オフには更にブレッツへ移籍。移籍1年目は冴えなかったが、2年目にはスティーブ・コルターから先発の座を奪い、オールラウンドに活躍。翌89~90シーズンはPGながら、平均8.8リバウンドをマークした(Gではファット・レバーに次ぐ2位)。91年オフにはピストンズへ移籍。しかし、終焉を迎えていたバッドボーイズでは力を出せず、翌92~93シーズンの開幕直後に解雇されてしまう。ただ、同シーズンの中盤に10日間契約で王者ブルズに加入。出番は少なく、貢献度は高くなかったが、自身初のチャンピオン・リングを獲得した。ここで現役を終えたウォーカーはコーチに転向。96年オフにはラプターズの2代目HCとなり、デイモン・ストウダマイヤーを中心として、創設2年目のチームを30勝52敗の成績に導いた。しかし、翌シーズンは開幕からドアマットに沈み、ストウダマイヤーがトレードされたところで解任。ウォーカーは、このシーズンのルーキー、トレイシー・マクグレディと関係が良くなかったようである。99~00シーズン途中にはガー・ハードに代わってウィザーズのHCに就任。これは、フロント入りしていたマイケル・ジョーダンの初仕事となった。ウォーカーは成績を多少好転させたが、シーズン終了後にあっさり解任。翌年はレオナード・ハミルトンが後を継いだ。選手としては、Gの割にリバウンドに強く、オールラウンドなスタイル。スティールも多かった。難点はシュート。シドニー・ロウノースカロライナ州立大出身。PG。同大がジム・バルベイノHCの指揮で、「シンデレラ・ラン」と呼ばれた快進撃を見せ、83年のNCAAチャンピオンになったときの主力である。ただ、プロ選手としては今ひとつで、83年のドラフトでは2巡目第25位でブルズに指名されるが契約には至らず、1年目はペイサーズで78試合に出場。2年目はピストンズとホークスで過ごし、以降3シーズンはCBAでプレイ。88~89シーズン終盤にエクスパンション・チームのホーネッツと10日間契約を結んでNBAに復帰するが、89~90シーズンにこれまたエクスパンション・チームのウルブズでプレイして、NBAでのキャリアを終えた。ウルブズではチーム史上最初の先発PGを務めるなど、80試合中38試合で先発起用された。引退後はウルブズのTV解説者を務め、91年にはウルブズのACに就任。92~93シーズン半ばにはジミー・ロジャースの後を継いで、早くもチーム史上3人目のHCとなった。結果は残せなかったが、翌93~94シーズンが終わるまで指揮を執っている。94~99年はマイク・フラテロのACを務め、99~00シーズンはウルブズに帰還。そして00~01シーズンには創設以来低迷を続けるグリズリーズのHCとなった。23勝59敗ではあったが、一応球団最高勝率をマーク。ただ、メンフィスに移転して迎えた翌シーズンも奮わず、02~03シーズンの開幕直後、開幕8連敗となったところで解任されてしまった。03年、ロウは再びウルブズに帰還。フリップ・サウンダースのACとなり、サウンダースがピストンズのHCになると一緒にピストンズへ移籍。1シーズンACを務めた。06年には母校ノースカロライナ州立大のHCに就任。トレードマークの赤いブレザーは、恩師ジム・バルベイノに肖っているという。若い頃は大食漢としても有名だったとか。NBAでは、選手としてもコーチとしても弱いチームに属することが多かった。ラリー・ミショウ6フィート9インチのPF。ヒューストンの高校時代、最高学年次に「州で最高の選手」とされ、ヒューストン大に進学。アキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、マイケル・ヤングらと共にファイ・スラマ・ジャマの一員となり、3度のNCAAファイナルを経験した。カレッジ時代のミショウは高いFG成功率を誇り、ブロックも多かった。83年のドラフトでは2巡目第29位でブルズに指名され、83~84シーズン、キングスでNBAデビュー。しかし、シーズンの半分程度しか出られず、オフにはバックスへ移籍。そして84~85シーズン途中、故郷であり、かつてのチームメイトであるオラジュワンのいるロケッツへ移籍した。しかし、平均10分程度しか出番はなく、NBAでのキャリアはここで終了。以降はイタリアとスペインでプレイ。95年に引退するのだが、ミショウはスペイン・リーグ史上に残るリバウンダーのひとりとして考えられている。愛称は「Mr.Mean」。引退後は高校のコーチなどを務めていた模様。

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  • 11Aug
    • 昭和58年ドラフト組②

      最近、BSでよく金田一耕助やってるんですよね。悪魔の手毬唄はお気に入りです。サール・ベイリー「ビッグT」と呼ばれた6フィート11インチのビッグマン。ノースカロライナ州立大出身。同大がNCAA決勝まで進んだときの主力で、83年のドラフト1巡目第7位でジャズに入団した。ジャズは、プレイだけでなく、人柄も重視したようである。1年目の半ばには先発の座を射止め、オール・ルーキー1stチームに選出。2年目には先発として及第点の働きを見せた。カール・マローンが加入してからは控えに回ったが貢献度は高く、88・89年には控えながら平均19点を上回った。しかし、その後、プレイオフでのパフォーマンスが低調だったことや、新戦力の加入などで役割が減少し、91~92シーズンの開幕直後にタイロン・コービンと交換で、ドラフト2巡目指名権とともにウルブズへ移籍した。低迷するチームでは起用法が安定せず、成績も急降下。94年オフにはギリシャへ渡り、95~98年はイタリアでプレイした。98~99シーズンに7シーズン振りのNBA復帰をジャズで果たし、引退を表明。イタリアではオールスターのMVPにも輝いた。シュートが上手く、通算のFT成功率は8割を上回る。ブロックもまずまずだがリバウンドは多くない。ボランティア活動に熱心で、アナリスト、シンガーソングライターとしても活動するなど、多岐に渡る活躍を見せている模様。シドニー・グリーン6フィート9インチのFで、UNLV時代はオール・アメリカンに選出されている。83年のドラフトでは1巡目第5位でブルズ入り。しかし、オーランド・ウールリッジやデビッド・グリーンウッドの壁を越えられず、不本意な2シーズンを過ごした。85~86シーズンは80試合中68試合で先発を務め、キャリアハイの平均13.5点・8.2リバウンドを記録するが、そのオフにアール・キュアトン、87年のドラフト2巡目指名権と交換でピストンズへ移籍。ここでも主に先発を務めるが、来るオフには、今度はニックスへ放出された。移籍1年目は再び先発起用が多かったが、翌シーズンにはチャールズ・オークリーの加入で控えに回り、89年オフにはエクスパンション・ドラフトでマジックへ移籍。90~92年をスパーズで過ごし、92~93シーズン、ホーネッツでのプレイを最後に現役を終えた。成績は平凡だが、サイズの割にシュートが上手かった。引退後はカレッジのコーチを経験。息子は2000年代中頃に少しだけNBAでプレイしたタウリン・グリーン。セダル・スリートウェスト・ヴァージニア工科大出身のコンボガード(6フィート2インチ)。83年のドラフト6巡目第138位でシクサーズ入り。何とか生き残り、2年目には全82試合に出場するなど、ローテーション入り。3年目には控えながら平均9.9点をあげた。86~87シーズンの途中にブルズへトレードで移籍。87~88シーズンの途中には更にソニックスへ放出された。89~90シーズンには平均11.4点とキャリア初の二桁アベレージを記録し、翌シーズンには80試合中57試合で先発。ルーキーのゲーリー・ペイトンを支えた。91年オフ、マジック・ジョンソンのバックアップとしてレイカーズへ、3つのドラフト2巡目指名権と交換で移籍。ところがその直後にマジックがHIV感染によって引退したため、急遽先発PGに抜擢され、ここでブレイクした。平均15.1点・7.2アシストをマークするなど一気にチームの中心となり、翌92~93シーズンには、レイカーズではマジック以来となる、得点・アシスト・スティールでチームをリードするマルチな活躍を見せた。ただ、チームは再建期に入っており、93年にニック・ヴァンエクセルが加入すると次第に出場機会は減少。96年にレイカーズを離れた。96~97シーズン途中にロケッツと契約し、シーズンの残りをプレイ。その後、フランスとギリシャを渡り、現役を引退した。ドラフト6巡目で指名されてNBAでプレイした最後の選手。3Pは少ないがシュートが上手く、ピーク時のFG成功率は5割前後であった。ジュリアス・アービング、チャールズ・バークリー、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、アキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーとチームメイトだったのに一度も優勝することが出来なかった。引退後はオーストラリアでHCを務めたことがある。グレッグ・カイトブリガムヤング大出身の白人C。83年のドラフト1巡目第21位でセルティックス入り。87~88シーズン途中に解雇されるまでバックアップCとして在籍し、出番は少なかったが、84年と86年には優勝を経験している。87~88シーズンの残りはクリッパーズで主力級Cとして活躍。翌シーズン終盤には解雇されるが、直後に創設1年目のホーネッツと契約を結び、シーズン最後の12試合をスターターとしてプレイした。89~90シーズンをキングスで過ごしたのを挟み、90年にマジックと契約。移籍1年目はキャリア最高のシーズンとなり、全82試合でスターターを務めた。しかし、翌年にスタンリー・ロバーツ、更にその翌年にはシャックが加入し、カイトの出場機会は激減。94~95シーズンをニックスとペイサーズで過ごし、現役を引退した。黙々と自分の仕事を頑張るロールプレイヤー。成績の割には息の長いキャリアを送った。シュートは苦手で通算のFT成功率は5割に届かない。ミッチェル・ウィギンス6フィート4インチのG。トゥルーエット-マッコネル・カレッジとクレムソン大を経て、最終的にはフロリダ州立大でプレイ。83年のドラフトでは1巡目第23位でペイサーズに指名され、オフの間にブルズへ移籍。全82試合に出場し、うち40試合で先発を務め、平均12.4点を稼いだ。オフにはキャルドウェル・ジョーンズと交換でロケッツへ移籍。移籍2年目にはファイナルを経験した(セルティックスに敗退)。しかし、86~87シーズン途中にドラッグの問題でNBAから追放処分を喰らってしまう(チームメイトのルイス・ロイドと一緒)。89~90シーズンにロケッツで復帰を果たし、キャリアハイの平均15.5点をマークするが、このときのロケッツはもうファイナルに進めるようなチームではなかった。90~91シーズンはプレイせず、91~92シーズンをシクサーズで過ごしてNBAキャリアを終えた。ギリシャ、フランス、フィリピンなどでもプレイした経験がある。82年の世界選手権では銀メダルを獲得した。息子はアンドリュー・ウィギンス。ボビー・ハンセン6フィート6インチのGでアイオワ大出身。83年にドラフト外でジャズ入り。デビュー当時はただの控えに過ぎず、出場機会も少なかったが、3年目には先発に定着。以降約4シーズンに渡って先発SGを務めた。90~91シーズンはキングスで過ごし、91~92シーズンはブルズでチャンピオン・リングを獲得。ファイナルの第6戦では最終Qが始まる時点でブルズが15点ビハインドだったが、ピッペンと4人のベンチ陣の活躍がきっかけとなって逆転勝利に成功。そのうちのひとりがハンセンで、3Pを決めたり、ジェローム・カーシーからボールを奪ったりと貢献した。マジック・ジョンソンは「彼のタフさと鼻っ柱の強いディフェンスは、プレイオフのフィジカルさに対応する準備ができている」と評していた。引退後はラジオ解説者などを務めた模様。

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  • 06Aug
    • 昭和58年ドラフト組①

      ルオール・デン、来季どこのチームでもいいからプレイできるといいなぁ、と昨日のハイライトを見て改めて。デイル・エリステネシー大出身のシューター。83年のドラフト1巡目第9位でマブス入りするが、ここではベンチを温めることの方が多かった。転機となったのは86年オフのソニックス移籍。86~87シーズンの開幕7試合目から先発に定着すると大ブレイク。シューターながらFG成功率51%・平均24.9点をあげ、MIPを受賞した。88~89シーズンには1シーズンの総得点でスペンサー・ヘイウッドの保持していたチーム記録を破り、オールスターにも初出場。27点をあげている。オールNBA3rdチームにも選出された。しかし、翌シーズンは怪我に泣き、またオフコートでのトラブルなどもあり、90~91シーズン半ばにはリッキー・ピアースと交換でバックスへ移籍。ここでも持ち前の得点力は健在だったが、ベンチから起用されることが多く、92年オフにはトレイシー・マレーと交換でスパーズに移籍した。2シーズン、得点源の一角として活躍した後、94年オフにナゲッツと契約。チームはあまり強くなかったが、個人としては一定のレベルを維持していた。古巣ソニックスに戻った97~98シーズンは、37歳ながら6マンとして活躍。3P成功率46.4%でリーグ首位に立った。99年オフにはマジックを経てもうひとつの古巣、バックスへ移籍。ここでも限られた出場機会の中で渋い働きを見せていたが、シーズン途中にホーネッツへ移籍。オフにはエディ・ジョーンズ、ジャマール・マッシュバーンを絡めた大型トレードの一部としてヒートへトレードされ、直後に解雇。現役を引退した。クイックリリースできれいなシュートが持ち味。FG成功率47.9%、3P成功率40.3%と精度も高かった。1試合69分出場という記録も持っている。80年代前半にデビューして、3Pを武器とした数少ない選手のひとり。エニス・ワットリーマイケル・ジョーダンのデビュー戦でスターターを務めたPG。アラバマ大出身。83年のドラフト1巡目第13位でキングスに指名され、直後にブルズへ放出された。1年目からスターターとして活躍したワットリーは平均8.3アシストをマーク。意外と、ブルズの1試合最多アシスト記録を保持しているのもこのワットリーである。しかし、2年目の途中にはウェス・マシューズに奪われ、85年のドラフト当日にチャールズ・オークリーの権利を絡めたトレードでキャブスへ放出された。そしてここから一気にジャーニーマンと化していく。85~86シーズンはキャブス、ブレッツ、スパーズと渡り歩きながらも計14試合しかプレイできず、86~87シーズンはブレッツでスターティングPGとして復活したが、翌オフには解雇された。その後は10日間契約がメインとなり、89~91年はNBAのチームでプレイできなかった。91~92シーズンにブレイザーズでNBA復帰を果たし、戦力にはならなかったがNBAファイナルを経験。翌シーズンはまたプレイしなかったが、93~94シーズンは、ホークスでなんと全82試合に出場。平均12分程度ではあったが、ムーキー・ブレイロックのバックアップを務めた。94~95シーズンは出場機会が激減し、95~97年は再びNBAでプレイせず。97~98シーズンに古巣ブレイザーズで3試合だけプレイし、NBAでのキャリアを終えた。因みにそのシーズンにはザルギリウス・カウナスにも在籍した。クライド・ドレクスラーリーグ史に残るSGのひとりであり、恐らく83年ドラフト組いちばんのスター。ヒューストン大でアキーム・オラジュワンと共に活躍したドレクスラーは、83年のドラフト1巡目第14位でブレイザーズに入団。因みに、ロケッツはドレクスラーより前の順位でラルフ・サンプソンとロドニー・マックレイを指名している。この当時は、(のちのちまで言われるが)物静かな性格や、時折気が抜けたように見えることなどから、必ずしも評価は高くなかったようである。ルーキーシーズンはそこまで目立たなかったが、2年目の半ば頃からスターターとして起用される機会が増え、3年目にはSGながら平均8.0アシストをマーク(キャリアハイ)。4年目からはスターターに定着し、成績もアップ。リーグを代表する選手のひとりとなった。ブレイザーズも強くなり、90年と92年にはチームをファイナルまで牽引。92年にはMVPの投票で、マイケル・ジョーダンに次ぐ2位の得票数を獲得した。しかし、92~93シーズンに膝を故障してシーズンの半分近くを休んでからは、身体能力の高さが一部損なわれ、主力の高齢化によってチーム力も低下。ファイナルに進めるようなチームではなくなり、ドレクスラーは優勝を求めてトレードを希望。94~95シーズン途中、オーティス・ソープと交換でロケッツに移籍した。ルディ・トムジャノビッチHCは「ドレクスラーのような選手を獲れるチャンスがあるなら活かすべき」としたが、元々リバウンドの弱かったロケッツがソープを出したこの動きは批判された。事実、ドレクスラー加入後のロケッツは成績がダウンしている。しかし、プレイオフに入ってからロケッツは復調。第6シードながら勝ち進み、最終的には史上最低シードからの優勝で連覇を達成。ドレクスラーは悲願のチャンピオン・リングを獲得した。翌シーズンは再び膝の故障で30試合を欠場。96~97シーズンはチャールズ・バークリーの加入でビッグ3が形成され、好調なスタートを切るが、高齢な主力と層の薄さが響いてか次第に失速。プレイオフでは、それまで相性の悪かったソニックスを破るが、カンファレンス・ファイナルにジャズに負けた。因みにこのシーズンの開幕戦で、ドレクスラーはあと1アシストでクアドゥルプル・ダブルという活躍を見せている。現役最後となった97~98シーズンはオラジュワンとバークリーが衰えと故障から冴えず、ドレクスラーは健闘したが、ロケッツは第8シードが精一杯で1stラウンドで敗退。第1シードのジャズを2勝3敗と追い込んだが、及ばなかった。第5戦、ドレクスラーはデルタ・センターのファンからスタンディング・オベーションで送り出された。背番号22はブレイザーズとロケッツの両方で永久欠番。高い運動能力を持ったフィニッシャーで、ボディバランスの良さは抜群。アウトサイド・シュートからポストプレイまでこなすこともできた。オールラウンドなプレイも魅力で、リバウンド、アシストが多いほか、スティールも平均以上。ブロックも上手かった。引退時点で、通算2万点、6000リバウンド、6000アシストをマークしたのはドレクスラーとオスカー・ロバートソン、ジョン・ハブリチェックの3人しかいなかった。また、平均2.4本のオフェンス・リバウンドというのはGとしてはトップクラスである。ご存知の通り、ドリーム・チームⅠのメンバーでもある。97年の偉大な50人のセレモニーに出席する際には、ロケッツのユニフォームを選んでいる。レオ・ローティンズ6フィート8インチのカナダ人F。トロントの高校を卒業後、渡米してミネソタ大とシラキュース大でプレイ。4年次には1ヶ月間で2度のトリプルダブルを達成し、所属カンファレンス史上初めてトリプルダブルをマークした選手ともなった。83年のドラフトでは1巡目第17位でシクサーズに入団し、NBA史上初の1巡目指名されたカナダ人となった。しかし、1年目は膝の故障で50試合以上を欠場。翌シーズンに少しだけホークスでプレイした後はヨーロッパへ渡り、92年まで幾つかのクラブチームを渡り歩きながらキャリアを続けた。現役時代は膝の故障に悩まされ、引退時、計14回の手術を行っていたという。カナダのナショナル・チームのロスター入りした最年少の選手(16歳)で、ドリーム・チームⅠに敗れたバルセロナ・オリンピックまで代表チームの一員であった。引退後は、ラプターズの解説者やカナダのナショナル・チームのHCなどを務めた。マイク・ホルトン6フィート4インチのコンボガード。79~83年をUCLAで過ごし、83年のドラフト3巡目第53位でウォリアーズに指名された。NBAキャリアは84~85シーズンのサンズでスタート。74試合中59試合でスターターとして起用され、同年の1巡目指名選手であるジェイ・ハンフリーズと遜色のない数字を残した。しかし、翌シーズンの開幕直後に解雇され、ブルズと契約。ジョーダンの故障、クインティン・デイリーの出場停止の影響があったかと思われる。翌オフにはブレイザーズへ移籍。初めて2シーズンを同一チームで過ごした。88年にはエクスパンション・ドラフトでホーネッツへ移籍。67試合中60試合でスターターを務め、キャリアハイのスタッツを残した。NBAでプレイしたのは89~90シーズンが最後。CBAでもプレイ経験がある。引退後は複数のカレッジでACを務め、01年にポートランド大のHCに就任。しかし、06年3月、契約を3年残して解任された。ジョン・ピノン6フィート8インチ・230ポンドのPF。ヴィラノバ大出身で、カレッジ時代の活躍は目覚ましく、背番号45は永久欠番である。82年には世界選手権でもプレイしており、銀メダルを獲得している。しかし、プロからの評価は低く、83年のドラフト3巡目第58位でホークス入り。7試合出た後、解雇されてしまった。シーズンの残りはCBAへ移り、84~85シーズンから92~93シーズンまでスペインでプレイ。91~92シーズンには優勝も経験し、同チームでは通算1万2000分、6000点を上回る成績を残している。

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  • 23Jul
    • 昭和61年ドラフト組⑤

      秋に弦楽四重奏でポップスを演奏する機会があるんですが、選曲に悩みます。レン・バイアス6フィート9インチ。心臓の病気を患っていた選手で、86年のドラフト1巡目第2位でセルティックスに指名され、そこから2日も経たないうちにコカインの摂取過多により、メリーランド大の寄宿舎で亡くなってしまった。因みに、そのときが初めての使用だったそうである。メリーランド州出身で、地元の高校を卒業後、メリーランド大に進んだスター。バイアスは身体能力に恵まれ、跳躍力、フィジカル面の強さ、クリエイティブさ、などによって魅力的な選手であった。カレッジ時代の評価は非常に高く、これまでで最も魅力的な選手のひとりとする見方もあれば、マイケル・ジョーダンと比較する評価もあったという。実際、マイク・シャシェフスキーとディーン・スミスは、ACC史上最高の選手はジョーダンとバイアスだとしていた。スティーブ・フランシスも、子供の頃に好きだった選手としてバイアスの名前を挙げている。もしバイアスがセルティックスでプレイしていたら…というのは誰もが気になる、たられば。バイアスがいたら、セルティックスの90年代の低迷はなかったかもしれない。因みに元々は85年のドラフトにエントリーする可能性もあったようだが、故障への懸念などから取りやめたとか。クリス・ウォッシュバーン6フィート11インチのC。高校時代から注目される存在で、84年にはジョン・ウィリアムス、ダニー・マニングと並び、高く評価されていた。ノースカロライナ州立大では、ネイト・マクミラン、ビニー・デルネグロらとプレイ。恵まれたサイズと、それに似つかわしくないスピードとテクニックを持ち、才能に溢れた選手だったという。ただ、高校時代から素行の悪さでも有名で、授業に出ないために試合出場が危うくなったり、窃盗で逮捕・拘留されたりするなど、問題児でもあった。そのため、ノースカロライナ州立大進学時、実力の割に評価は高くなく、同大のファンはトラブルや、それによって大学のプログラムが乱されることを危惧していたという。しかし、いざ入学すると潜在能力の高さを見せ、ジム・バルベイノHCのもと、チャッキー・ブラウンやチャールズ・シャックルフォードらとチームを牽引し、ブラッド・ドアティー率いるノースカロライナ大を破るなど、インパクトを残した。2年のカレッジ生活を経て、86年のドラフトにエントリー。ドラフト当時、各チームのスカウトたちはそのスキルの高さに驚いたという。カール・マローンにも喩えられる体格がありながら、インサイドでもアウトサイドでもプレイできたからである。そして1巡目第3位でウォリアーズに入団するのだが、ウォッシュバーンは見事にその期待を裏切ってしまう。その大きな原因がドラッグの問題だった。高校時代に飲酒とマリファナをはじめ、カレッジ時代にはコカインに手を出していたウォッシュバーンは、ドラフト直後のバイアスの事件を受けて、コカインの使用をやめたと言った。しかし、ウォリアーズの本拠地、オークランドは麻薬中毒者の町と呼ばれており、それは長続きしなかった。チームはジョー・バリー・キャロルにウォッシュバーンのメンターとして役割を求めたが、それもあまり機能しなかった。ルーキーにありがちな荷物運びなどをせねばならず、練習後のシューティング・コンテストに勝っても賭け金が払われないなど、ウォッシュバーンにとってはあまり良い環境ではなかったようである。開幕から2試合連続でスターターとして起用されるのだが、すぐベンチへ降格。そして、試合当日、ティップオフの数分前に会場に到着したり、練習をすっぽかしたりするなどの問題行動が目立つようになり、開幕から3ヶ月もしないうちにリハビリ施設へ入った。シーズン終盤には復帰するが、施設でのサポートはあまり助けにならず、ウォッシュバーンはドラッグをやめなかったという。ウォッシュバーン2年目の前にドン・ネルソンがウォリアーズ入り。ネルソンはウォッシュバーンを充分にみて、「彼を出したらチームは良くなる」とHCのジョージ・カールにアドバイス。そして、87年12月、ウォッシュバーンはドラフト指名権と交換でホークスへトレードされた。ネルソンは「怠け者で態度も悪い。彼のレベルなら、もしちゃんと正しいことをしたら良くなったと思うが、彼は何も正しいことをしなかった」としている。アトランタは中毒者にとっての場所ではなく、しかし、それがプラスに作用するわけでもなく、ホークスでは計29試合しかプレイせず、89年6月、NBAでのキャリアは終わった。3年間で3度目のドラッグ・テストに引っ掛かり、リーグから追放されたのである。キャリア平均は3.1点・2.4リバウンドであった。その後、90年代半ばまで、刑務所に入っていないときは、海外などでキャリアを続けていたようである。カレッジ時代のチームメイトであるネイト・マクミランは、のちにシャックを比較に出し、ウォッシュバーンのことを「オールスターになれるだけの能力が確実にあっただろう」としている。ルーキーイヤーのHCだったカールも、「トレーニング・キャンプの最初の日を覚えているよ。彼はベストだった。でも、次第に問題があるとわかっていたんだ」と回顧。本人も「殿堂入りすら出来る可能性が自分にはあったけど、自分は最低のドラフト指名のひとりだし、失敗だし、恥だと理解しているよ」とコメントしている。因みにウォッシュバーンを助けようとした人も少なくなかったようで、ジュリアス・アービングもそのひとりだったという。シクサーズとウォリアーズが対戦するとき、アービングは試合前にわざわざホテルに訪ねてきたという。そのときウォッシュバーンは丁度ハイになっており、ドアは開けなかったようだが。すべての問題が片付いたのは2000年になってからだとか。誰も助けようとしなくなっていた頃、ウォッシュバーンを幾つもの施設に連れて行くなど、力になったのはジョン・ルーカスであった。スカイ・ウォーカー「スカイ」は愛称で、ケニー・ウォーカーとも呼ばれた選手。6フィート8インチのF。82年にジョージア州のMr.バスケットボールに選出され、ケンタッキー大へ進んだ。カレッジ時代は華々しく、86年のドラフトでは1巡目第5位でニックスに入団。1年目からスターターとして起用され、平均10.4点・5リバウンドをマークした。しかし、2年目に成績を伸ばせず、3年目はジョニー・ニューマンにポジションを奪われてしまう。結局、90~91シーズンまで在籍したが、最大のハイライトは89年2月のスラムダンク・コンテストで、このときは父親が逝去したばかりだったのだが、ウォーカーは見事チャンピオンになった。膝の故障などもあったようだが、実戦であまり活躍できないウォーカーは、91~93年はスペインでプレイ。93年にブレッツと契約してNBAに復帰するが、ベンチ・プレイヤーとして2シーズン過ごして終わった。引退する前には日本でもプレイしたことがある。身体能力が高く、馬とレースをして勝ったことがあるとか。ピート・マイヤーズ6フィート6インチのSG。アーカンソー大リトルロック校の出身で、86年のドラフトでは6巡目第120位でブルズに入団した。所謂ジャーニーマンで、プロ入りから毎年のように違うチームでプレイ(CBAなども含む)。最初の5シーズンは、NBAではどこのチームでも戦力にならなかったが、イタリアで2シーズンプレイしたのを挟み、93年秋にブルズと契約を結んでキャリアが開ける。当時のブルズはジョーダンが一度目の引退を発表したばかりだったが、それが10月頭だったために目立った補強が出来ず、マイヤーズとの契約は応急処置のようなものであった。しかし、マイヤーズはなんと全82試合に出場して、うち81試合でスタート。球離れの良さと、多くのチームを渡り歩いてきたことによる順応性の高さが△オフェンスにフィットしたのであった。翌94~95シーズンも(ロン・ハーパーの加入やジョーダンの復帰で出場機会は減ったが、ハーパーがフィットしなかったこともあり)、まだローテーションには入っていた。95年オフにはホーネッツへ移籍。しかし、開幕当日にアロンゾ・モーニング、グレン・ライスを絡めた大型トレードでヒートへ放出され、シーズン半ばに解雇され、またホーネッツに戻るという忙しいシーズンを過ごした。96~97シーズンはNBAでプレイせず、97~98シーズンに9試合だけプレイしてキャリアを終えた。01年にはコーチング・スタッフとしてブルズに復帰している。93~94シーズン、最初の試合の選手紹介で「ノースカロライナ大出身のG、6フィート6インチ…ピート・マイヤーズ!」紹介された。

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  • 14Jul
    • 昭和61年ドラフト組④

      フラッシュマンは敵キャラのデザインが好きです。ジェフ・ホーナセックアイオワ州立大出身で、86年のドラフト2巡目第46位でサンズ入り。着実に活躍の場を増やし、3年目にはスターターに定着。ケビン・ジョンソンとともにチームの中心選手となった。キャリアハイの平均19.1点をマークした91~92シーズンにはオールスターにも出場している。92年オフ、チャールズ・バークリーとのトレードでティム・ペリー、アンドリュー・ラングらとともにシクサーズへ移籍。ハーシー・ホーキンスがいたため、PGとしてプレイし、自己最高のアシスト数を稼ぐなど健闘した。しかし、勝利には繋がらず、しかも、シクサーズはホーナセックの望む内容の契約延長をする気がなく、93~94シーズンの半ばにジェフ・マローン、複数のドラフト指名権と交換でジャズへ移籍。これはホーナセックにとって良いトレードで、これ以降、00年のオフに引退するまでストックトン&マローンに次ぐ第3の得点源であった。ボールを持っていないときの動きが上手いシューターで、キャリア通算でFG成功率50%・3P成功率40%・FT成功率80%をクリアしているのは見事。身体能力は高くないが、巧さがあった。94年11月の試合では3P8本ノーミス成功という当時のリーグ記録を樹立。FTを打つ際に頬を3度なぞる仕草も有名で、これは3人の息子たちに向けたメッセージだったという。愛称は「ホーニー」。背番号14がジャズの永久欠番である。ドウェイン・ポリー高校時代に華々しい活躍をした選手で、ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナ(当時のクリッパーズのホームアリーナ)史上最高の1万4123人もの観客が入った試合で、43点をあげるパフォーマンスを魅せた。しかしピークはこのときで、その後、UNLVとペパーダイン大を経て86年のドラフト3巡目第54位で地元クリッパーズに指名されるも、僅か1試合で解雇されてしまった。アンドレ・ターナー5フィート1インチのPG。メンフィス州立大出身で、カレッジ時代は「リトル・ジェネラル」と呼ばれていた。85年にはキース・リー、ウィリアム・ベッドフォードらとともにチームをファイナル4まで牽引。その中でもターナーは勝負を決めるシュートを決めるなど、まさにチームの中心であった。86年のドラフトでは3巡目第68位でレイカーズから指名されるが、1年目は3試合のみセルティックスでプレイ。そして翌シーズンはロケッツ、88~89シーズンはバックス、89~90シーズンはクリッパーズとホーネッツと渡り歩くが、いずれのチームでも10試合前後しか出番はなかった。ただ、90~91シーズンはシクサーズ、91~92シーズンはブレッツでそれぞれ70試合程度起用されており、強いて言えばこの2シーズンがキャリアのハイライトであろう。NBAでプレイする合間にCBAでもプレイしている。アンソニー・フレデリック86年のドラフト6巡目第133位でナゲッツに指名された、6フィート7インチのF。カレッジはサンタ・モニカ・カレッジとペパーダイン大で過ごしている。NBAデビューは88~89シーズンのペイサーズ。特に見せ場はなかったが、1シーズン生き残った。次は90~91シーズン中盤、キングスに10日間契約で加入91~92シーズンをホーネッツで過ごし、NBAでのキャリアは終わった。ホーネッツでは、66試合中26試合でスターターを務めるなど、決して悪くはなかった。03年、心臓発作で逝去。車を運転中だったという。ウィリアム・ベッドフォード86年のドラフト1巡目第6位でメンフィス大からサンズ入り。7フッターで、将来を期待されたが、ドラッグの問題があったためか、キャリアと能力を台無しにしてしまった。サンズで不本意なルーキーイヤーを過ごし、直後のオフには88年のドラフト1巡目指名権と交換でピストンズへ移籍。92年まで在籍したが(88~89シーズンはプレイせず)、安定した出場機会を得るまでに至らず、92~93シーズンをスパーズで過ごし、リーグを去った。当時としては珍しい、動ける7フッター。アウトサイドから打てる器用さもあり、潜在能力の高さは、ピストンズでチームメイトだったデニス・ロドマンもその著書の中で認めていた。

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  • 10Jul
    • 昭和61年ドラフト組③

      80年代の歌謡曲は世代じゃなくともけっこう好きなのがあります。デニス・ロドマンNBA史に残るリバウンダーであり、ディフェンダー。コート内外の奇行でも知られたが、7年連続リバウンド王に輝いたほか、オール・ディフェンシブ1stチームにも7度選出。優勝も5度経験している。サウスイースタン・オクラホマ州立大出身。86年のドラフト2巡目第26位でピストンズ入り。1年目は平均15分ほどしかプレイングタイムがなく、「自分は他の選手が嫌がること(ディフェンスとリバウンド)をやって生き残る」と決意したとか。この年はプレイではあまり目立たなかったが、セルティックスとのカンファレンス・ファイナルで「ラリー・バードは白人だから過大評価されていると思う」といった旨のコメントを出し、アイザイア・トーマスがそれに同調したこともあって、騒ぎになってしまった。これが恐らくロドマンの初トラブルである。2年目にはキャリアハイの平均11.6点をマークしたが、ディフェンダーとしての評価が高く、タフなディフェンスが売りだったチームにフィット。ベンチ・スタートも多かったが、試合の大事な場面では起用されることが多かった。90年には、シーズンの半分ベンチ・スタートだったにもかかわらず、ディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーに輝き、チーム史上初の優勝に貢献。オールスターにも初出場した。因みにその受賞会見で嬉しさのあまり泣き出したことは有名か。90~91シーズンには先発に定着し、初めてチームのリバウンド王となったが、チームはカンファレンス・ファイナルでブルズに敗れるなど、下降線を辿り始める。翌91~92シーズンは平均18本を超える驚異的な数字でリバウンド王に(以降7年連続)。再度オールスターにも選出され、92年3月の試合ではキャリアハイの34リバウンドを取った。しかし、このシーズン限りで恩師チャック・デイリー、旧友のジョン・サリーがチームを去る、離婚などから精神的なムラが目立つようになり、それはトーマスらベテランの手にも負えなかったという。デイリーの後任のHCとも上手くいかず、93年オフ、トレーニング・キャンプ直前にショーン・エリオット、デビッド・ウッドと交換で、将来のドラフト指名権とともにスパーズへ放出された。新天地でのロドマンは、リバウンダーとして期待以上の活躍。HCのジョン・ルーカスとの関係もまぁまぁで、ロドマンのお陰でオフェンスに専念できるようになったデビッド・ロビンソンは得点を獲得。同一チームから得点王とリバウンド王が出たのは史上初であった(のちにブルズでも達成)。ただ、プレイオフではホームコート・アドバンテージがあったにもかかわらず、ジャズに敗戦。ロドマンはジョン・ストックトンを突き飛ばしたとしてシリーズ中に1試合の出場停止を受ける失態を犯した。因みにロドマンがカラフルに髪を染め始めたのも、タトゥーを入れ始めたのも、この頃からである。そして94年オフ、グレッグ・ポポビッチがGMとなり、HCがルーカスからボブ・ヒルに代わると状況は悪化していく。オフコートでも規律を重んじ、統率しようとするフロントの考え方は、マイペースで自由なロドマンと合わなかった。また、翌94~95シーズン、ロドマンはバイク事故で長期欠場を強いられるのだが、この間にチームは2桁の連勝。結果的にスパーズはチーム史上最高勝率を残すのだが、ロドマンは完全にトラブルメーカーとなっていた。そして、95年オフ、厄介払いされるようなかたちで、ロドマンはウィル・パデューと交換でブルズへ放出される。当時ブルズはPFを必要としていたが、ピストンズ時代に遺恨のあるピッペンとの関係性など、懸念も多かった。しかし、名将フィル・ジャクソンのお陰か、ロドマンは見事にフィット。ブルズはリーグ史上最高勝率となる72勝10敗をマークし、危なげなくNBAチャンピオンとなった。ロドマンは、トラブルはシーズン終盤のネッツ戦で審判にヘッドバットをかまして出場停止処分を喰らったくらいで、リバウンドとディフェンスに力を注ぐスタイルはファンのハートを掴み、また退場するときにユニフォームを脱いで客席に投げ込むのもひとつの名物となった。翌シーズンもブルズは強かったが、ロドマンはモチベーションの低下からか前シーズンほどのインパクトはなく、故障もあり、特にプレイオフで不発。このシーズン、ロドマンが最も注目を集めたのは97年1月15日のウルブズ戦で、カメラマンの下腹部を蹴飛ばし、11試合の出場停止処分を喰らったことだろう。ブルズが2度目の3ピートを達成した97~98シーズンは、開幕直後の乱調を除けば、献身的且つ効果的にプレイ。リバウンドを25本以上取ることもあった。しかし、このシーズンを最後に強かったブルズのロスターは解体。ロドマンも新天地を探すことになる。ロックアウトによるシーズン短縮があった翌98~99シーズンは、シーズン途中にレイカーズと契約。ロドマンが加入したレイカーズはいきなり10連勝をマークし、かつて犬猿の仲だったシャックも、その影響力の大きさを認めていた。しかし、しばらくすると個人的な理由と称して欠場するなどの行為が目立つようになり、レイカーズはシーズン終了を待たずにロドマンを解雇。翌シーズンには、これまたシーズン途中にマーベリックスに加入するが、ここではリバウンダーとしてはさすがの数字を残していたものの勝ち星に繋がらず、僅か12試合で解雇されてしまった。その後、ABAなどでプレイしつつ、NBA復帰の機会を窺っていたようだが、獲得に動くチームはなかった。6フィート7インチながらリバウンド獲得率歴代1位のリバウンダー。サイズはなく、身体能力に特別恵まれているワケでもなかったが、相手選手のシュートの癖を研究したり、何度も繰り返しジャンプしてボールをティップすることでリバウンドをものにしたりと自身のスタイルを確立していた。ディフェンスの評価も高く、若い頃はジョーダンやピッペンといったウィングの選手たち、スパーズ移籍以降、PFとしての起用が主になってからは、シャックやアロンゾ・モーニングなど、一流C相手もある程度マンツーマンで守ることが出来た。オフェンスは、特にリバウンダーとして開花してからは、フリーでも打たない、やる気なさそうにFTを放るなど、あまり注力していないようだったが、勝負所ではきっちりFTを決めるなど、シュート力がないワケではなかった。オールNBA3rdチームに2回、ディフェンシブ・チームに8回(1st7回)、オールスター出場2回と記録も立派。ドリーム・チームⅠの選考にも名前があった。ファイナルにおける1試合最多オフェンス・リバウンド11本という記録も持っている。因みにカラフルに染められる髪の色は不定期で変わり、例えばクリスマスの時期にはモミの木をイメージして緑、プレイオフでレイカーズと対戦したときにはエイズリボンのマークを入れたり、スマイル・マークを入れたりするなどバラエティ豊かであった。漫画「スラムダンク」の主人公、桜木花道のモデルのようにも見えるが、同漫画がスタートしたのはロドマンがリバウンド王になる前であり、髪を染め始める前である。グレッグ・ドレイリングカンザス大出身、7フィート1インチのC。86年のドラフト2巡目第25位でペイサーズに入団。90~91シーズンを除いたすべてのシーズンでプレイングタイムは平均10分に届かなかったが、92~93シーズンまでペイサーズ一筋でプレイした。90~92シーズンにかけては(短い時間ではあったが)スターターとして起用されることも少なくなかった。カレッジ時代の恩師であるラリー・ブラウンがペイサーズのHCになった93年オフにマブスへ移籍。その後、94~95シーズンをキャブス、1シーズン空けて96~97シーズンを再びマブスで過ごし、現役を引退した。キャリア平均は2.1点・2.1リバウンド。デニス・ロドマンに「安定した成績を残したことは間違いない」と著書の中でからかわれた。ジム・レス5フィート11インチのPG。ブラッドリー大出身で86年のドラフト3巡目第70位でホークスに指名されるが、NBAデビューは88~89シーズン。ジャズで全82試合に出場するが成績は奮わず、翌シーズンに解雇。シーズンの残りはクリッパーズで過ごした。転機となったのは90年オフのキングス移籍。ここでスパッド・ウェッブの控えとして活躍。シューターとして開花し、移籍1年目にいきなり3P成功率でリーグ首位に立った(46.1%)。翌92年にはオールスターのシュート・アウトに参加し、クレイグ・ホッジスに次ぐ2位となっている。しかし、ピークは短く、93~94シーズン半ばに解雇。94~95シーズンをホークスで過ごすが、得意のシュートも精彩を欠いた。兄のトム・レスもバスケット選手。パール・ワシントン本名はドウェイン・ワシントン。6フィート2インチ・190ポンドのGで、「パール」という愛称は8歳のときに「アール「ザ・パール」モンロー」に因んで付けられた。ブルックリンのプレイグラウンドではスターで、83年には高校No.1プレイヤーにまで成長。そしてシラキュース大に進んだ。当時は「シェイク&ベイク」の使い手として知られた。そして86年のドラフト1巡目第13位でネッツに入るのだが、ワシントンはプロでは輝かなかった。1年目から多くの試合でスターターとして起用されるのだが期待には応えられず。88年オフにはエクスパンション・ドラフトでヒートへ移籍。しかし、特に目立つこともなく、シーズン終了後には解雇された。キャリア平均は8.6点。デイブ・ホッペンネブラスカ大出身のC(6フィート11インチ)。86年のドラフト3巡目第65位でホークスに指名されるが開幕ロスターには残れず、翌87~88シーズンにNBAデビュー。このときはバックスとウォリアーズで計39試合に出場した。88年にはエクスパンション・チームのホーネッツと契約。オリジナル・メンバーとなり、記念すべき開幕先発も務めた。このシーズンが恐らくキャリアのピークである。翌シーズンは故障とトレードを経験。シーズン半ばに、マイク・ジミンスキーと交換でアーモン・ギリアムとともにシクサーズへ放出された。シクサーズには翌シーズンまで在籍したが特筆すべきことはなく、92~93シーズン終盤に2試合だけネッツでプレイしたのがNBAでの見納めだった。フェルナンド・マーティンNBAでプレイした初のスペイン人。スペイン人では、最高のバスケットボール選手のひとりとして考えられている。6フィート9インチのサイズに加えて身体能力も高かったようで、水泳、ハンドボール、卓球、柔道などでも活躍していたという。デビューした86年当時は、スペインに限らず、ヨーロッパ出身の選手自体がそれほど多くなかった。スペインのクラブ・チームを経て、86~87シーズンに24試合だけブレイザーズでプレイ。しかし、平均0.9点と戦力にはならなかった。シーズン終了後には帰国して、古巣でもあるレアル・マドリードでプレイ。もちろんナショナル・チームでのプレイ経験もあり、84年のロサンゼルス・オリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。89年12月、交通事故で他界。07年にFIBAの殿堂入りを果たしており、逝去以降、レアル・マドリードはマーティンが着用していた10番は使用していない。

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  • 29Jun
    • 昭和61年ドラフト組②

      自分、サッカーファンじゃなくてよかったなぁと思うワールドカップ期間中です。ファンの方は睡眠時間きっとやばいですよね…ブラッド・ドアティー名門ノースカロライナ大出身の7フッター。86年のドラフト1巡目第1位でキャブスに入団(この指名権はシクサーズがロイ・ヒンソンを獲得するために手放したもの)。同年8位指名のロン・ハーパー、25位指名のマーク・プライス、ジョン・ウィリアムス(指名されたのは前年だがデビューはこの年)らとルーキー・カルテットを形成。4人すべてがオール・ルーキー・チームに選出される活躍振りで、それまで低迷していたキャブスに希望を与えた。ドアティーの活躍は目覚ましく、オールスターには何度も出場。サイズの割にはソフトな選手という評価もあったようだが、平均20点・10リバウンドを稼げる上にアンセルフィッシュな選手で、チーム・オフェンスに上手くフィットしていた。キャブスも92年にはカンファレンス・ファイナルまで進んだ。しかし、その華々しいキャリアは28歳で終わってしまう。背中の故障で93~94シーズンの終盤32試合を欠場すると復帰のメドが立たず、2シーズン半を故障者リストで過ごし、96~97シーズン開幕前に引退を発表した。背番号43はキャブスの永久欠番。ケビン・ダックワースイースタン・イリノイ大出身のC。86年のドラフト2巡目第33位でスパーズに入団するが、カレッジ時代から体重の問題を抱えていたためか、開幕後2ヶ月もしないうちにウォルター・ベリーと交換でブレイザーズに放出されてしまう。そんなワケで1年目は特筆すべきものではなく、足を骨折したサム・ブゥイの代役であるスティーブ・ジョンソンのバックアップに留まっていた。しかし、翌シーズンにジョンソンが故障し、更にサム・ブゥイも再度離脱するとダックワースに先発の座が回ってきて、ここで期待以上の活躍。シーズン終了時には見事MIPに選出され、翌88~89シーズンにはなんとオールスターにも出場した。因みにダックワースの成長を受けてか、ブゥイ、ジョンソンはともにブレイザーズから放出されている。ここから2シーズンはチームにとっても良い時期で、90年にはファイナルまで進出。91年にはリーグ最高勝率となる63勝19敗をマークした。この年には2度目のオールスター出場をも果たしている。しかし、この順調なキャリアはコンディショニングの問題によって91~92シーズンから失速し始める。キャリアを通じて抱えていた問題ではあるのだが、翌シーズンは更に調子を落とし、シーズン終盤には控えに降格(チームも1stラウンドで敗退)。そして93年オフ、ハーベイ・グラントと交換でブレッツへ放出された。2シーズン在籍したブレッツでは先発して起用されることも多かったがかつてのレベルではなく、95~96シーズンはバックスへ。クリッパーズで過ごした現役最後の96~97シーズンは関取のように太っていた。シュートの上手い7フッター。体系の割に機動力もあった。メンバー構成の影響もあるかもしれないが、リバウンドやブロックはピーク時でも多くなかった。ミルト・ワグナー6フィート5インチのコンボG。ルイビル大出身。86年のドラフト2巡目第35位でマブスに指名されるが開幕ロスターに残れず、翌シーズンにレイカーズでデビュー。バックアップとして40試合に起用され、いきなり優勝を経験した。次にNBAでプレイしたのは90~91シーズンなのだが、シーズン序盤のうちに解雇され、以降はNBAでプレイしていない。因みに高校・大学・レイカーズ・ヒートでビリー・トンプソンという選手とチームメイトだったのだが、この2人は高校・大学・NBA(レイカーズ)で優勝を経験した数少ない選手たちである。02年にキャブスに1巡目で指名されたデジュアン・ワグナーの父。コナー・ヘンリー6フィート7インチのSG。カリフォルニア大サンタバーバラ校出身で、86年のドラフト4巡目第89位でロケッツ入り。しかし、開幕1ヶ月ほどで解雇され、シーズンの残りはセルティックスで過ごした。2年目はセルティックス、バックス、キングスで計39試合に出場。最後に15試合だけプレイしたキングスでは、ほぼすべてのカテゴリーでキャリアハイを記録している。CBAでもプレイ経験があり、92年にはオールスターに出場してMVPを受賞。このときは7本中4本の3Pを決める大活躍であった(3P4本成功は当時の大会記録)。NBAでのキャリアは短かったが、10年近くヨーロッパのクラブ・チームで現役を続けた。引退後はディビジョンⅢのカレッジでACに就任。その後、NBL(オーストラリアのリーグ)のパース・ワイルドキャッツでもコーチを務めた。アンソニー・ブゥイマジックが95年にチーム史上初めてファイナルまで進んだときの控えSG。86年のドラフト3巡目第66位でオクラホマ大からロケッツに指名されるが、88年まではヨーロッパでプレ。89年3月にスパーズと契約を結び、ようやくNBAデビューとなった。89~90シーズンは古巣?ロケッツで過ごし、1シーズン空いて、91年オフにマジックと契約。主に控えではあったが5シーズン在籍。当時のマジックはシャックやペニーらの加入で年々強くなっていたのだが、ベンチの層は薄く、ブゥイはドナルド・ロイヤルやジェフ・ターナーらとともに数少ない計算できる控えであった。96~97シーズンは所属先がなく、97~98シーズンはニックスに在籍したが出番は少なく、翌シーズン以降は再びヨーロッパへ渡った。因みにブゥイで有名なのがトリプルダブル事件。95~96シーズンのピストンズ戦の終盤、あと1アシストでトリプルダブルを達成できる状況にあったブゥイは、試合時間残り4秒で、大量リードで勝っていたにもかかわらずタイムアウトを要求。ピストンズのダグ・コリンズHCはこれに激怒し、自チームの選手たちにディフェンスをしないように指示。ブゥイはフリーのデビッド・ヴォーンにアシストを決めてキャリア初のトリプルダブルを達成した。終了直後にブゥイはコリンズに謝りに行ったようだが、コリンズは怒っていたという。その後もリッキー・ディビスやボブ・スーラが似たような行為で批判を浴びている。ジョン・ウィリアムス「ホットプレート」の愛称で知られた、6フィート8インチ・250ポンドを超える巨漢F。ルイジアナ州立大出身で、86年のドラフト1巡目第12位でブレッツ入り。因みに同年、キャブスでデビューしたジョン・ウィリアムスは「ホット・ロッド」の愛称で親しまれた。高校時代に既に250ポンドを超えていたようで、ブレッツ在籍時には260ポンド、のちに在籍するクリッパーズ時代は295ポンド、その次のペイサーズ時代は300ポンドにもなっていたという。ただ、その規格外の体型とは裏腹にスキルの高い選手でもあり、ビッグマンとしてはパスやスティールが上手く、平均アシストが4を超えたこともしばしば。ハンドリングが良かったので、ポイント・フォワードとして起用されることもあった。1年目はあまり目立たなかったが、翌87~88シーズンは全82試合に出場し、そのうち37試合で先発を務め、平均12.8点をマーク。88~89シーズンはベンチ・スタートだったにもかかわらず、ほぼすべてのカテゴリーでキャリアハイを更新した。しかし、初めて先発に定着した89~90シーズン、開幕から18試合プレイしたところで故障し、シーズンの残りを欠場。復帰は翌90~91シーズンのシーズン終盤であった。91~92シーズンは全休し、92~94シーズンはクリッパーズの一員となるが故障前のレベルではなかった。94~95シーズンをペイサーズで過ごし、現役を引退。故障の多くは体重によるものではなかったらしいが、約4シーズン半を故障で棒に振っている。引退後はスペインやマジック・ジョンソン・オールスターズなどでプレイしていた模様。

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  • 27Jun
    • 昭和61年ドラフト組①

      オースティン・リバースがウィザーズにトレード。ウォール&ビールの控えならまぁいいんじゃないかなと。ロイ・タープリー高い能力を持っていたが、それをドラッグで台無しにした選手。ミシガン大出身で、86年のドラフト1巡目第7位でマブス入り。控えCとして1年目から活躍してオール・ルーキー1stチームにも選ばれた。2年目には控えながら得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、6マン賞を受賞。続く2シーズンは計64試合しか出られなかったが、この当時はチームのガイドブックの表紙を飾るほどの選手であり、特にプレイオフでの活躍は見事だった。しかし90~91シーズン、リーグのドラッグ規定に違反したことで、開幕直後にリーグから追放。94年に復帰し、94~95シーズンにひさしぶりにNBAでプレイしたが、翌95~96シーズン開幕直後に再び規定に違反して再度追放。今度は永久追放になってしまった。追放後はギリシャなどでプレイ。CBAでもプレイした。ゴールに正対してプレイすることが出来る器用なCで、ブロックやスティールも上手かった。リバウンドにも強く、このタープリーには、ショータイム時代のレイカーズも手を焼いた。難点はドラッグの問題と怪我の多さ。ゴーグルを付けてプレイすることもあった。ロン・ハーパー6フィート6インチのG。マイアミ大出身で、86年のドラフト1巡目第8位でキャブス入り。ルーキーイヤーから平均22.9点をあげ、「お金のないチームのマイケル・ジョーダン」と呼ばれるほどの活躍を見せた。キャブスで3シーズン過ごした後、89~90シーズンの開幕直後にダニー・フェリーの交渉権と交換で、クリッパーズへ移籍。しかし、28試合をプレイしたところで膝の靱帯を負傷。復帰は翌シーズン半ばとなり、復帰後のハーパーはスピードとジャンプ力が落ちていた(成績自体は故障前のレベルを維持していたが)。94年オフ、ブルズと契約。友人であるスコッティ・ピッペンがクリッパーズ移籍を考えた際、ハーパーがクリッパーズの内情の酷さを説き、共にブルズでプレイすることを選んだという。ブルズは93年にジョーダンが引退をして以来、SGをピート・マイヤーズで補っており、ハーパーは期待された。しかし、トライアングル・オフェンスにフィットせず、50試合を過ぎたあたりでスタメン落ち。シーズン終盤にジョーダンが復帰すると、出番は更に制限された。転機となったのは95~96シーズン。フィル・ジャクソンの助言を受けたハーパーはディフェンダーとして開花。相手チームのシューター、スコアラーをマークするストッパーとして自分のポジションを見つけ、2度目の3ピートに貢献した。99年オフにはフィル・ジャクソンのHC就任を受けてレイカーズと契約。コービーをサポートするなど、チームを支える良きベテランであった。01年オフに契約が切れたところでレイカーズ側は再契約の意思を見せず、そのまま引退。05年にはピストンズのACとなった。若い頃は高いオフェンス力を持ったSGで、特にランニング・ゲームや1対1でその力は遺憾なく発揮された。反面、シューターとしてはイマイチで、これがブルズ加入当初に苦しんだ一因と言えそう。長い手足を活かしたディフェンスは効果的で、スピードのある選手にもある程度対応できる巧さがあった。キャリアを通じて5度の優勝を経験。「どもり」に悩んだ時期もあったようだが、人柄が良く、信頼度の高い選手。デビッド・ウィンゲートジョージタウン大出身のスウィングマン。86年のドラフト2巡目第44位でシクサーズ入り。1年目に77試合に出て、平均8.8点をあげたのが指名順位からすると悪くない。89~91シーズンはスパーズでプレイし、91~92シーズンに在籍したブレッツではキャリアで初めて先発に定着。92年オフにホーネッツに移ってからも先発を任される機会が多かった。95年オフには当時ウェスト屈指の強豪だったソニックスへ移籍。キャリア初のファイナル出場を体験した。98~00シーズンはニックスで過ごすが出番はほとんどなく、2シーズンで出場したのは僅か27試合。00~01シーズンにソニックスで1試合だけプレイして現役を引退した。控えが適当なシューター。キャリア終盤は良きベテランとして重宝され、ニックスではジェフ・ヴァンガンディからの信頼も厚かった。ブラッド・セラーズオハイオ州立大出身の7フッター。86年のドラフト1巡目第9位でブルズに入団した。ドラフト当時、ジェリー・クラウスGMはセラーズの高さとシュート力に魅力を感じていたが、マイケル・ジョーダンをはじめとする周囲の人間は、ジョニー・ドーキンスを指名するよう望んでいた(ドーキンスはデューク大出身のPG)。セラーズは2年目にシーズンの大半でスターターとして起用されるが、そこがピーク。スコッティ・ピッペン、ホーレス・グラントの成長であっという間に居場所がなくなり、89年にその年のドラフト1巡目指名権と交換でソニックスに放出された(因みにこのときの指名権でブルズはBJ・アームストロングを指名)。ソニックスではローテーションから漏れ、シーズン途中にウルブズへトレード。90~91シーズンはNBAを離れた。91年にピストンズと契約するも出番は限られており、翌シーズン序盤にウルブズへ再度移籍。シーズンが終わるとヨーロッパへ渡り、スペインや、ギリシャ、フランスなどで00年まで現役を続けた。当時としては珍しい7フッターのF。シュートが上手く、通算のFT成功率は8割近いが、安定した得点力はなく、リバウンドやブロックも少ない。89年のあの「ザ・ショット」のとき、ジョーダンにインバウンド・パスを入れたのが数少ないハイライト。ジョン・サリージョージア工科大出身のF/C。背番号22は同大の永久欠番である。その手足の長さとディフェンスのスタイルから「スパイダー」と呼ばれ、リーグ史上初めて3つの異なるチームで優勝を経験した選手でもある(のちにロバート・オーリーもこれに該当)。86年のドラフト1巡目第11位でピストンズに入団。同期入団のデニス・ロドマンと良好な関係にあったことは有名で、また、ベテランのエイドリアン・ダントリーと親しくなり、食生活やトレーニングの仕方など様々なことを教わったという(「先生」と呼んで慕っていたとか)。地味だが攻守に確実なプレイで、6シーズンに渡ってバッドボーイズに在籍。控えながら平均1.5ブロックをマークするなど、2度の優勝に貢献した。チームが崩壊しつつあった92年オフ、93年のドラフト1巡目指名権とアイザイア・モーリスの交渉権と交換でヒートへ移籍。ここでは出場機会が増えたが、チームが伸び悩んだためか長続きはせず、95年オフのエクスパンション・ドラフトではプロテクトされずにラプターズへ。ラプターズのGMはアイザイア・トーマス、HCはブレンダン・マローン(バッドボーイズ時代のAC)であった。新興チームながら健闘を見せたラプターズは、シーズンが進むにつれて若手を多く起用するようになり、サリーはバイアウトを要求。解雇され、このシーズンに72勝を達成することとなるブルズと契約を結んだ。ブルズにはロドマン、ジェームス・エドワーズと2人もバッドボーイズ時代のチームメイトが在籍していた。サリーはここで自身3つ目のチャンピオン・リングを獲得し、引退するが、直後に撤回してギリシャで数試合プレイ。2シーズンのブランクを空け、99~00シーズンにはフィル・ジャクソンが新HCとなったレイカーズと契約を結んだ。もうかつてのような動きの良さはなく、出場機会は限られていたが、それでもシャックのバックアップとして、トラビス・ナイトよりは出番があった。キャリア終盤はサングラス型のゴーグル?をつけてプレイすることが多かった。アレキサンダー・ヴォルコフロシア出身で6フィート10インチ・218ポンドのF。86年のドラフト6巡目第134位でホークスに指名された。82年からプロでプレイしており、ドラフトされた後も88年まで旧ソビエトでプレイ。89年にようやくNBA入りを果たした。90~91シーズンは故障で全休しており、91~92シーズンを最後に今度はギリシャへ。02年までパナシナイコスやオリンピアコスを渡り歩き、現役を引退した。線が細いが、3Pも打てるなどシュートエリアは広い。愛称は「サーシャ」。

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  • 26Jun
    • 昭和48年ドラフト組②

      タロウのopの弦楽五重奏版を(色んなアレンジを参考にしながら笑)つくったんですけど、クオリティは今ひとつです。ラリー・ケノンメンフィス州立大出身のF(6フィート9インチ)。72~73シーズンにはNCAAトーナメントの決勝までチームを牽引した(ビル・ウォルトンのUCLAに敗退)。73年のドラフト3巡目第15位でピストンズから指名されるが、ABAのメンフィス・タムズからも指名され、その指名権は直後にネッツへ。プロデビューはジュリアス・アービング率いるネッツでとなった。ケノンはルーキー・シーズンから得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、いきなり優勝に貢献した。75年オフにはスウェン・ネイターと交換でスパーズへ移籍し、80年まで在籍(その間にスパーズはNBAへ参入)。ここではジョージ・ガービンとスコアリング・デュオを形成。チームがNBAに移ってからの4シーズンは、2人とも最低20点以上のアベレージをマークしていた(ケノンはリバウンドも平均10.7本以上)。80年オフにはブルズと契約。移籍1年目こそまずまずだったがプレイングタイムは減少し、82~83シーズンにブルズ、ウォリアーズ、キャブスと3チームを渡り歩き、30歳にして現役を終えた。メンフィス州立大では永久欠番となっており、愛称は「スペシャルK」「スペシャリティーズ」。片手でリバウンドをもぎ取る姿が印象的であった一方、1試合11スティールという記録も持っている(のちにケンドール・ギルも達成)。ABAで3度、NBAで2度オールスターにも選出されている。ML・カーギルフォード大出身のF/G。73年にキングスからドラフト5巡目第7位で指名され、ABAのケンタッキー・カーネルズからも指名を受けるが、故障のためにすぐプレイできないことがわかると放出されてしまう。プロデビューは故障が癒えた74~75シーズンで、イスラエルであった。このときは得点でリーグ首位、リバウンドでリーグ2位となり、MVPを受賞。チームも優勝した。75~76シーズン、ABAのスピリッツ・オブ・セントルイスでアメリカ・デビュー。まずまずの活躍でオール・ルーキー・チームに選ばれると翌シーズンはNBAのピストンズへ加入した。個人成績で見た場合は、78~79シーズンがベスト。平均18.7点・7.4リバウンドをあげ、スティール王にもなり、オール・ディフェンシブ2ndチームにも入った。79年オフにはボブ・マッカドゥーとのトレードで、2つのドラフト1巡目指名権とともにセルティックスへ移籍。しかし、ここではラリー・バード、ケビン・マクヘイルらのデビュー時期と重なったせいか、出場機会は次第に制限されたものとなり、84~85シーズンを最後に現役を引退した。目立った成績は残していないが、ディフェンスやリバウンドを頑張るエネルギッシュな選手で、84年のファイナル第4戦で見せたスティールからのダンクは、キャリアのハイライトかもしれない。引退後は94年にセルティックスのGMとなり、95~96シーズンにはHCに就任。しかし、結果を残せなかったどころか、96~97シーズンにはチーム史上最低成績(15勝67敗)を記録するなどいいところがなく、僅か2シーズンで解雇された。尤も、スター選手不在の上、故障者が続出するなど同情の余地は多々あるのだが。その後はフロントに戻り、WNBAチームのフロントなどで働いている。ジョン・ウィリアムソン6フィート2インチ・185ポンドのSG。コネチカット州のウィルバー・クロス・ハイスクール時代から印象的な活躍を見せており、最高学年次には平均38.7点をマーク。ニューメキシコ州立大に進んだ後もスコアラーとして活躍した。因みに高校時代にチームメイトだったアレックス・スコット、クリント・ディビスとは大学でも共にプレイした。73年のドラフトでは6巡目第10位でホークスに指名されるが、それを蹴ってABAのネッツと契約。ウィリアムソン1年目のネッツはは開幕から4勝10敗と躓くが、ウィリアムソンが先発に入ると調子がよくなり、最終的には優勝。自身は、ラリー・ケノンやスウェン・ネイターらとオール・ルーキー・チームに選出された。ウィリアムソンはネッツでプレイを続け、ABA最後のシーズンとなった76年のファイナル第6戦でも顕著な活躍を見せており、28点をマーク。特に4Qには16点をあげており、22点差からの逆転勝ちに貢献、ネッツはABA最後のチャンピオンとなった。NBA参入後の76~77シーズン途中にペイサーズへ移籍。しかし、翌77~78シーズンの途中には古巣ネッツへトレードで復帰した。このときは復帰後の33試合でキャリアハイの平均29.5点をあげている。個人成績に衰えが見られた79~80シーズンの半ばにはブレッツへ移籍。80~81シーズンに9試合だけプレイし、8年間のキャリアに終止符を打った。得点力が高く、どこからでも点を取れるスコアラー。様々なカテゴリーでネッツのチーム記録を保持しており、その中にはFT最多試投数24本も含んでいる(のちにビンス・カーターとデビン・ハリスがタイ記録を保持)。背番号23は90年12月7日に永久欠番となっており、ABA時代のネッツでプレイした欠番選手4人のうちひとり。スリック・ワッツニューヨークのストリート・バスケットで伝説的選手のひとり。スキンヘッドにヘッドバンドという当時(70年代)としては新しいファッションでファンの人気を集めたPGである。73年にドラフト外でソニックス入り。年々成績を伸ばし、76年には総アシスト数・平均アシスト・総スティール数・平均スティールでリーグの首位になり、オール・ディフェンシブ1stチームに選ばれた。因みにこの歳はJウォルター・ケネディ・シップ・アワードも受賞している。しかし、その後は故障に悩まされ、僅か6シーズンの短いキャリアを終えるのであった。最後のシーズンはロケッツに所属していた。ジャマール・クロフォードがヘッドバンドをしていたのは輪厚に憧れていたからだとか。ニックネームの「スリック」はそのスキンヘッドから付けられた愛称で「ワッツの頭はハエがとまっても滑り落ちる」と言われていた。

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  • 12Jun
    • 昭和48年ドラフト組①

      ライダーマンもまたよいのです。ダグ・コリンズイリノイ州立大出身。72年のミュンヘン・オリンピックで、アメリカがオリンピックで初黒星を喫したときのメンバーである。このときは試合最終盤にコリンズのFTで50対49としたアメリカだったが、レフェリーの判断で時間が戻され、ソビエトがチャンスを獲得。最後にレイアップを決められ、アメリカは逆転負けとなった。アメリカは判定の微妙さに抗議し、銀メダルの受賞と表彰台に立つことを拒否している。その後、ABAのナゲッツにドラフトされ、73年の補充ドラフト?ではネッツに指名されるがABAではプレイせず、73年のドラフト1巡目第1位で指名されたシクサーズに入団した。ルーキーイヤーから毎年活躍度を増し、76~77シーズンにはファイナル進出に貢献。ジュリアス・アービングと共にチームを牽引したが、ファイナルでブレイザーズに敗れた。78~79シーズンは故障に苦しみ、これがきっかけとなったか、80~81シーズンを最後に現役引退。最後のシーズンは12試合しかプレイしなかった。コリンズはシュートエリアが広く、79年から導入された3Pを恋しがったとか。引退後は80年代中盤にブルズのHCに就任。95~97年にはピストンズでHCを務めた。それぞれ、若き日のマイケル・ジョーダン、グラント・ヒルを指導している。解説者に転向したのを挟み、01年にはウィザーズのHCとなり、再びジョーダンとタッグを組んだ(03年に解任)。2010年にはシクサーズのHCとなり、3シーズン指揮を執った。若手中心で成長を期待されるチームを率いることが多い。アーニー・ディグレゴリオABAのケンタッキー・カーネルズからドラフトされたものの、NBAでのプレイを希望したディグレゴリオは、73年のドラフト1巡目第3位でブレーブス(現クリッパーズ)に入団。FT成功率と平均アシストでリーグ首位となり、新人王を獲得した。また、ルーキーとしては最多となる1試合25アシストも記録している(のちにネイト・マクミランも記録)。しかしこれがピークで、77年には再びFT成功率でリーグ首位に立つが(当時のリーグ記録である94.5%をマーク)、77~78シーズンの半ばにはレイカーズに放出され、あっけなく解雇。セルティックスと契約するが、そのシーズン以降2度とプレイすることはなかった(正式に引退を発表したのは81年)。コールドウェル・ジョーンズ73年のドラフト1巡目第14位でシクサーズに指名されたC。アルバニー・ステイト大(現ジョージア大)出身で、3シーズンをABA、14シーズンをNBAでプレイした。シクサーズ在籍時が恐らくキャリアのピーク。74年にブロック王に輝き、75年にはオールスターにも出場。1試合12ブロックというABAの記録も持っている。兄弟のチャールズ、ウィル、メイジャーは皆同じ大学の出身で、NBAでもプレイしている。デリック・ディッキー6フィート7インチのFでシンシナティ大出身。73年のドラフト2巡目第11位でウォリアーズに入団し、まず4シーズン半を過ごした。77~78シーズン半ばにはブルズへトレードで移籍し、そのシーズンでキャリアを終えた。75年にウォリアーズが優勝したときのメンバーでもあり、個人スタッツの割には貢献していた模様。引退後は解説者として活躍。

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  • 09Jun
    • 昭和44年ドラフト組

      ウォリアーズ優勝おめでとう。レブロンのオフの動向が気になる。。ニール・ウォーク6フィート10インチ・220ポンドのC。マイアミの高校を卒業後、フロリダ大に進み、その歴代トップのスコアラーとして卒業(のちに破られている)。総リバウンド数と平均得点の記録はその後も保持している。69年のドラフトではサンズとバックスが1位指名権を巡ってコイントスを行い、それに勝ったバックスがルー・アルシンダーを指名し、ウォークは負けたサンズによって指名された。創設2年目のサンズに入団したウォークは決してアルシンダーと並ぶような選手はなかったが、インサイドで堅実にプレイ。年々成績をアップさせ、72~73シーズンには平均20点・10リバウンドを上回る成績を残した。73~74シーズンも得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを記録している。74年オフにカーティス・ペリー、デニス・オウトリー、ネイト・ハウソーン、76年のドラフト1巡目指名権と交換で、ドラフト2巡目指名権と共にジャズへ移籍。74~75シーズン半ばにはすぐニックスへトレードされた。ジャズとニックスではあまり活躍できず、76~77シーズンを最後にヨーロッパへ。イタリア、イスラエルなどでキャリアを続けた。88年に病気が原因で車椅子となり、そこからNWNBA(国際車椅子バスケットリーグ)でプレイ。90年にはホイールチェアー・アスリート・オブ・ザ・イヤーとして、ジョージ・ブッシュ大統領から表彰された。マイアミ・ビーチ・ハイスクールでは殿堂入りしており、ユダヤ人のコミュニティでは伝説的存在。ユダヤ人のスポーツ殿堂入りも果たしている。ジョジョ・ホワイト本名はジョセフ・ヘンリー・ホワイト。カンザス大出身で、6フィート3インチ・190ポンドのPG。カンザス大がテキサス・ウェスタン大とダブル・オーバータイムに縺れ込む死闘を繰り広げ、敗れたときの主力である。68年にはメキシコ・オリンピックで金メダルを獲得している。NBAには69年のドラフト1巡目第9位で、当時13年間で11度目のチャンピオンになったばかりのセルティックスに入団。しかし、トレーニング・キャンプ直前にビル・ラッセルが引退を表明し、戦力はダウン。69~70シーズンのチームは、49~50シーズン以来となる負け越しを経験した。しかし、70~71シーズンにはデイブ・コーウェンスをドラフトで指名し、ホワイトもオフェンスの起点としてステップアップ。オールスターに選ばれる活躍を見せ、セルティックスは再び勝ち越すようになった。71~72シーズンは3シーズン振りにプレイオフに復帰。翌シーズンにはポール・サイラスが加入するなど戦力は順調に整い、74年と76年には優勝。ホワイトは76年にはファイナルMVPに輝いた。このファイナル第5戦は、NBA史上最もエキサイティングな試合のひとつで、トリプル・オーバータイムに縺れ込む大激戦であった。このときホワイトは60分プレイして、ゲーム最多の33点・9アシストをマーク。セルティックスは128対126で勝った。因みにサンズのガー・ハードがホワイトを上回る61分もプレイしている。しかし、セルティックスはこの2度の優勝を境に戦力が低下。サイラスの移籍や主力の高齢化などで勝ち星は減り、77~78シーズンにはホワイトも故障でシーズンの半分以上を欠場し、32勝50敗まで後退。トム・ハインゾーンHCは解任され、オフにはハブリチェックが引退した。78~79シーズン途中、ホワイトはウォリアーズへトレードで移籍。もうかつてのような輝きはなく、80~81シーズンにキングスで13試合だけプレイしたのを最後に現役を引退した。82年4月9日、ホワイトの背番号10はセルティックスの永久欠番となっている。攻守共に評価が高く、リーダーシップも持ち合わせており、70年代のセルティックスをハブリチェックと支えた。71~77年まで7年連続でオールスターに選出され、73~77年にはアシストでリーグ・トップ10に入っていた。もともとは鉄人としても知られ、5シーズン連続で全82試合したこともある。引退後は80年と07年に映画に出演。07年の映画では息子で俳優のブライアン・J・ホワイトが主演であった。バーニー・ウィリアムス6フィート3インチのPG。ラサール大で4年間プレイしたのち、69年のドラフト2巡目第21位で創設3年目のロケッツに入団した。余談だが、ルーキーイヤーは18番と35番を着用している。71年オフにはABAのヴァージニア・スクワイアーズに移籍。ロケッツでは目立った成績を残せなかったが、ここではチーム4位の平均10.6点をマーク。ジュリアス・アービングらとチームを支えた。しかし、シーズン終盤に得点源のチャーリー・スコットがサンズへ移籍。翌72~73シーズン、ウィリアムスの成績は伸びたがチームは戦力ダウンした。73~74シーズンに6試合プレイしたのがNBA・ABAでの最後。ウィリー・ワイズ6フィート5インチ・210ポンドのSFでドレイク大出身。69~70シーズンにABAのロサンゼルス・スターズで端役としてチャンスをゲット。1年目から82試合(総試合数は84)に出場して、平均15.2点・11.6リバウンドをあげ、オールラウンダーであることを示した。チームがフランチャイズをユタに移転した70~71シーズンは優勝に貢献。3年目からは平均20点を上回るようになり、スポーツ・イラストレイティッド誌に「プロバスケットボールで最高の両用パフォーマー」と評されたこともあった。ヴァージニア・スクワイアーズに移籍した74~75シーズンは故障で68試合を欠場。ABA最後の翌75~76シーズンは46試合に出るも、ほぼすべてのカテゴリーでキャリア最低を更新した。ABA消滅後はナゲッツでNBAデビューするが、77~78シーズンに2試合だけソニックスでプレイし、キャリアを終えた。ABAでは通算で平均19.2点を誇り、ディフェンスの評価も高かった模様。09年、ドレイク大はワイズの背番号42を欠番としている。

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  • 05Jun
    • 昭和47年ドラフト組②

      今年のファイナルはカリーにMVPをとってほしいなぁ。ラルー・マーティン元祖「史上最悪の1位指名選手」。72年のドラフトで、ボブ・マッカドゥーらを差し置いて1位でブレイザーズが指名。ロヨラ大出身のCで、もちろん期待されたがそれに応えることはなく、4シーズンをブレイザーズのベンチで過ごし、76年に現役を終えた。マーティンの評価が高まったのは、71~72シーズンのUCLAとの対戦で、ビル・ウォルトンを上回るプレイを見せたから。皮肉にも、74年にはそのウォルトンがブレイザーズに加入し、マーティン退団後にはチームをNBAチャンピオンに導いている。ジュリアス・アービングご存知「Dr.J」。ABAとNBAの両リーグでプレイし、キャリアを通いて3度の優勝、4度のMVP、3度の得点王に輝いた名選手。両リーグでの通算得点は3万点を超え、93年には殿堂入りも果たした。スラムダンカーとしても有名で、マイケル・ジョーダンやビンス・カーターらの先駆者的な存在とも言えるだろう。マサチューセッツ大に進んだアービングは、高校時代に付けられた「Dr.J」という愛称で親しまれ、68年にはNCAA史上5人しかいない、平均20点以上・20リバウンド以上をマーク。そして71年、ABAのヴァージニア・スクワイアーズに入団した。プロ入り後のアービングはすぐに存在感をアピールし、平均27点を上回るアベレージをマーク。オール・ルーキー・チームとオールABA2ndチームに選出された(新人王はアーティス・ギルモア)。その後、NBAのドラフトに掛かる権利を得、72年のドラフト1巡目第12位でバックスに指名されのだが、ここでアービングはホークスと契約。エキシビジョンを3試合プレイするが、ここで法的な命令が下り、ABA(スクワイアーズ)に戻ることになってしまう。因みにこの3試合、アービングはピート・マラビッチとチームメイトであった。スクワイアーズに戻ったアービングは更に活躍。しかし、チームの財政事情は厳しく、73年、アービングはネッツに放出されてしまう。ネッツは創設以来6シーズンも低迷が続いていたが、アービングが加入するといきなり強くなり、すぐに優勝(74年)。アービングのお陰でネッツは、ABAでも大事なフランチャイズのひとつとなった。しかし、今度は財政難などを理由として、75~76シーズンを最後にABAが消滅。ネッツは、その前にNBA参入を試みたのだが認められず、ABA最後のシーズンもアービングを中心にチャンピオンに輝いた。こうして76~77シーズンからネッツ、ナゲッツ、ペイサーズ、スパーズがNBAに参入するのだが、このときニックスが、フランチャイズの重なるネッツのNBA入りに好意的ではなく、「NBAに来るなら4800万ドルを払うように」と要請。これを受けたネッツのオーナー、ロイ・ボーは、アービングの昇給という約束を果たすことが難しくなり、アービング自身もこうした状況下でプレイすることに難色を示し、やむを得ずエービングの契約をシクサーズに売却した。もしこれがなければ、ネッツはキングスから獲得したタイニー・アーチボルドとアービングを軸にした魅力的なチームになるはずであった。アービングは移籍1年目から活躍を見せ、いきなりファイナルまで進出(ブレイザーズに敗れる)。その後、ラリー・バードの加入でセルティックスが強くなり、イーストはシクサーズとセルティックスの2強体制となった。実際、当時4シーズンに渡ってこの2チームはカンファレンス・ファイナルで激突している。80年にはシクサーズがファイナルに進出。マジック・ジョンソンの活躍でシリーズはレイカーズが制するが、アービングがこのシリーズで見せた芸術的なリバース・レイアップはのちのちまでハイライト・フィルムで使用される印象的なプレイとなった。このショットを間近で見たマジックは、「あの瞬間は口を開けたまま見入ってしまった。彼にボールを渡して『もう1回やってくれよ』て頼もうかと思ったくらいだった」といった旨のコメントを残している。81年にはシーズンMVPを受賞するがプレイオフではセルティックスに敗れ、翌年もファイナルでレイカーズに負けてしまう。しかし、82年オフにモーゼス・マローンが加わったことで戦力アップに成功。今度はレイカーズをスウィープで下し、チャンピオンに輝いた。アービングはここから衰えを見せ始め、86年夏に86~87シーズン終了後の引退を宣言。最後のシーズンは、シクサーズが行くほぼすべてのアリーナでチケットが売り切れていたそうである。背番号6はシクサーズ、32番はネッツの永久欠番。引退後はビジネスマンやTV解説者を経て、97年にマジックのフロント入り。当時、故障や人間関係で苦しんでいたペニー・ハーダウェイに協力的で、99年オフにはペニーのためを思ってサンズへのトレードを後押しした。04年にラプターズのGMが解任されたときには、ビンス・カーターがアービングの就任を望んだという話もある。アービングを有名にしたのはやはりダンク。アービング以前にもFTラインからダンクを決めることができる選手はいたが、76年のABAのスラムダンク・コンテストで見せたFTラインからのダンクは別格であった。83年のシーズン中のレイカーズ戦では、マイケル・クーパーの上から叩き込んだダンクは、ボールを掴んだ右腕を一回転して決めた様から、「クレイドル」と名付けられた。シクサーズのHCだったビリー・カニングハムは「バスケット選手としてのジュリアスはリーグにとって初のスポークスマンと言える選手だった。彼は自分の役割を理解していたし、リーグにとって自分がいかに大事な存在であるかも理解していた。私が知る限り『ドクター』と呼ばれた最初の選手だ」としている。クリス・フォード6フィート5インチのGで、NBA史上初めて3Pを決めた選手(79年10月12日のロケッツ戦@ボストン・ガーデン)。ヴィラノバ大出身で、72年のドラフト2巡目第17位でピストンズ入り。5年目くらいから出場機会が増え、78~79シーズン途中にはアール・テイタムと交換でドラフト指名権とともにセルティックスへ移籍した。ここには81~82シーズンまで在籍し、優勝も経験している。引退後は90年に古巣セルティックスのHCに就任。かつてのビッグ3が衰えたチームで若手を中心に再建を狙ったが、戦力の低下に歯止めをかけることは出来ず、94~95シーズン終了後に職を退いた。96年にバックスのHCとなり、再び低迷チームの再建を託されるが、2年連続でシーズン終盤に失速してプレイオフ進出に失敗。98年オフに解任され、直後にクリッパーズのHCに就任した。しかし、かつてない弱小チームを変えることは出来ず、99~00シーズン中盤に解任。03~04シーズンにはシクサーズのHCになるが、成績がふるわなかった上にアレン・アイバーソンとうまくいかず、30試合ほどで解任されてしまった。セルティックス、バックス、クリッパーズではシャーマン・ダグラスを指導している。ジョビー・ライトインディアナ大出身のF/C(6フィート8インチ・220ポンド)で、72年のドラフト2巡目第18位でソニックス入り。プロ1年目は77試合に出場したが、翌73~74シーズンはABAのメンフィス・タムズで3試合だけプレイした。74~75シーズンはNBAでもABAでもプレイせず、75~76シーズンにサンディエゴ・セイルズとヴァージニア・スクワイアーズで計23試合に出場。現役を終えた。目立った成績は残していない。引退後はカレッジでコーチを務めたりしていた模様。ケビン・ポーター6フィートのPG。72年のドラフト3巡目第9位でブレッツに入団し、以降10シーズンをプレイした。当時のリーグ史上最も才能のあったパッサーのひとりで、75・78・79・81年の計4度、総アシスト数とアシストのアベレージでリーグ首位に立っている。のちにスコット・スカイルズに破られるまで、一試合29アシストというNBA記録も保持していた。75年にブレッツがファイナルに進んだときの主要選手である。

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  • 29May
    • 昭和47年ドラフト組①

      ウェストはウォリアーズが勝ち上がるだろうと思っていたので、ゲーム7まで縺れたのが意外でした。イーストはキャブスが勝ち上がるとは思っていなかったのでびっくりしております。ボブ・マッカドゥーノースカロライナ大出身のC/F。72年のドラフト1巡目第2位でブレーブスに入団し、新人王を獲得。2年目には平均30点・15リバウンドを記録した最後の選手となる活躍を見せ、FG成功率でもリーグ首位となった。オールスターにも出場し、翌74~75シーズンにはシーズンMVPに輝いた。因みにこの年はオールスターのファン投票でリーグ首位となっている。こうして華やかなスタートを切ったが、その後はニックス、セルティックス、ピストンズ、ネッツで故障のつきまとうシーズンを経験。成績こそそれなりだったが、この当時には多くのアナリストやファンから「終わりに近づいている」と見られていた。この低評価を覆す契機となったのが、キャリア終盤のレイカーズ移籍。82~85年を6マンとしてプレイし、2度の優勝を経験した。85~86シーズンをシクサーズで過ごしたのを最後にイタリアへ異動。ヨーロッパでプレイした最高のアメリカ人選手のひとりとして大活躍し、所属チームを2度のチャンピオンに導いた。87年にはマクドナルド選手権の第1回に出場し、平均42点をマーク。勝ち目のない試合ではあったが、NBAから参加したバックスとロシアのナショナル・チームに動揺を与えた。92年に41歳で現役を引退。マッカドゥーのプレイスタイルはその当時としては非常に近代的なもので、6フィート9インチというサイズながらペリメーターから難なくシュートを決めることが出来、得点王を3度経験。オフェンスに関しては右に出る者がいないほどであった。リーグの偉大な50人には選ばれなかったが、00年に殿堂入り。引退後は恩師パット・ライリーのヒートでACを長く務めている。高校時代にはマーチング・バンドのメンバーに選ばれたり、高跳びのチャンピオンになったりするなど多彩な面もある。因みに高跳びではボビー・ジョーンズと対戦しており、そのジョーンズとはシクサーズでチームメイトとなった。ポール・ウェストファル6フィート4インチ・195ポンドのSG。72年のドラフト1巡目第10位でセルティックス入り。出場機会は多くなかったが、デイブ・コーウェンス、ジョン・ハブリチェック、ドン・ネルソンらと3シーズンプレイし、74年には優勝を経験した。75年オフ、チャーリー・スコットと交換で2つのドラフト2巡目指名権とともにサンズに移籍したことでブレイク。チーム1位の平均20.5点をあげ、チームは42勝40敗と平凡だったが、プレイオフではファイナルまで進んだ。その第5戦では、残り時間1秒でサンズが110対111で負けていた場面で劇的なプレイが誕生。セルティックスのディフェンスによって思うように動けなかったため、ウェストファルは、既に使い切っていたことを承知の上であえてタイムアウトを要求。これがテクニカル・ファウルとなり、セルティックスはFTを1本決めて2点差とするが、タイムアウトのコールがあったため、コート中央からのインバウンド・パスが可能となり、パスを受けたガー・ハードがブザービーターを決め、トリプル・オーバータイムに突入した(このプレイの結果、NBAはルールを変えている)。因みにこの試合も、シリーズもセルティックスが制している。翌年はプレイオフに出られないが、ドラフトでウォルター・ディビスを獲得した77~78シーズンは再びプレイオフに復活。ジョン・マクロードHCのもと、チーム史上初の黄金期?を過ごした。80年オフにはデニス・ジョンソンと交換でソニックスに移籍。しかし、故障のために欠場が多く、ニックスに移った81~82シーズンは64試合を欠場。83年オフ、古巣サンズに帰還し、シーズン終了後に現役を引退した。ピーク時にはリーグトップ10に食い込むほどの得点力があり、オールスターに5度、オールNBA1stチームに3度、オールNBA2ndチームに1度選出。サンズ史上に残る偉大な選手のひとりにも選ばれている。引退後はコットン・フィッシモンズの下でのACを経て、92年にサンズのHCに就任。新加入のチャールズ・バークリーを軸に、いきなりファイナル進出を果たした。その後もプレイオフには進むが、続く2シーズンはロケッツを倒せず、95~96シーズン途中に解任。このシーズンに関しては補強が功を奏していなかったこともあり、バークリーは「彼のせいではない」と庇ったが、厳しい結果となった。2年間アリゾナの高校でACを務め、98~99シーズンからソニックスのHCに就任。前任のジョージ・カールのローテーションを崩したり、若手を積極的に起用したり、新しいことを試すも効果はいまいち。エースのゲーリー・ペイトンの信頼も得られず、不振に喘ぐビン・ベイカーの扱いにも苦慮し、00~01シーズン序盤に解任された。01年秋にはペパーダイン大のHCとなり、就任1年目にNCAAトーナメントまで進出。不振を極めた05~06シーズンまで指揮を執った。07年にはエイブリー・ジョンソンのコーチングスタッフとしてマブス入り。リック・カーライルがHCになった際にはACを辞め、フロント入りした。09年にはキングスのHCとなるが、整わない戦力に加え、問題児デマーカス・カズンズとも上手くいかず、2シーズンほどで解任された。デイブ・トワージックABAとNBAの両リーグでプレイしたPGで、ブレイザーズが77年に優勝したときのスターティングPGだった。オールド・ドミニオン大出身で、72年のドラフト2巡目第13位でブレイザーズから指名されるが、このときはABAのヴァージニア・スクワイアーズに行くことを選択。その後、76年にABAが消滅したときにブレイザーズと契約を結んだ。80年に現役を引退。背番号13は永久欠番となっている。引退後はブレイザーズのフロントを経て、86~89年にペイサーズでACを経験。その後もピストンズ、ホーネッツ、クリッパーズ、ウォリアーズ、ナゲッツなどでACを務めた。03年にはマジックのフロント入りしている。ヘンリー・ビビーマイク・ビビーの父親であり、かつてMLBでプレイしたジム・ビビーとは兄弟。名門UCLAのスターティングPGとして知られ、72年のドラフトでは4巡目第11位でニックス入り。ルーキーシーズンは優勝を経験する幸運に恵まれたが、将来殿堂入りを果たすような蒼々たる面々がいては出番も限られ、74~75シーズン途中にジャズへ放出された(当時はニューオリンズ)。76年オフに移籍したシクサーズで、初めて平均30分以上のプレイングタイムをゲット。優勝はできなかったが、77年と80年のファイナル進出に貢献している。80~81シーズンをクリッパーズ(当時はサンディエゴ)で過ごして現役引退。数字の上で目立つ選手ではなかったが、故障とミスが少なかった。72年にNCAAチャンピオン、73年にNBAチャンピオンになっており、こうした形で選手として連覇を経験しているのはビル・ラッセル(56・57年)、マジック・ジョンソン(78・79年)、ビリー・トンプソン(86・87年)と合わせて4人だけである。引退後はCBAでコーチ業をスタート。82年と89年には優勝している。96年にはサザン・カリフォルニア大のHCに就任し、9シーズンで3度NCAAトーナメントに進出。05年にWNBAのスパークスのHCに就任したときはうまくいかなかったが(僅か28試合で解任)、直後にシクサーズのACとなった。息子はご存知マイク・ビビー。バーニー・フライヤー高校時代はバスケットとフットボールの両方でオール・アメリカンに選ばれたアスリートで、ブリガムヤング大に進学。72年のドラフトでは7巡目第12位でサンズから指名され、翌73~74シーズンにブレイザーズでNBAデビュー。80試合に出場して平均7.0点をあげ、オール・ルーキー2ndチームに選出された。しかし、ジャズとABAのスピリッツ・オブ・セントルイスでプレイした74~75シーズンを最後に現役を引退。78年からレフェリーとしての活動を始めた。選手からレフェリーに移行したのはフライヤーが初めてで、その後もレオン・ウッドとヘイウッド・ワークマンしかいない。02年のプレイオフでバロン・ディビスの打ったブザービーターを無効にしたのがフライヤーだったが、実際はブザーの鳴る前に放られており、この一件がきっかけとなってインスタント・リプレイが導入されることになった。07年のNBAファイナル第3戦を最後にレフェリーを引退。

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  • 17May
    • 昭和45年ドラフト組②

      この間テレビで聴いたばかりなのでなんとなく。ボブ・レニアーセント・ボナベンチャー大の生んだスターC。カレッジ時代には3度オール・アメリカンに選ばれ、70年には同大をNCAAのファイナル4まで導いた。レニアーは故障のために最後までプレイできず、アーティス・ギルモア率いるジャクソンビル大に敗れるが、その躍進は衝撃的であった。70年のドラフトでは1巡目第1位でピストンズ入り。新人王は獲れなかったが、オール・ルーキー・チームには選出され、2年目以降は79~80シーズンの半ばにバックスに放出されるまで(ケント・ベンソン&80年のドラフト1巡目指名権と交換)、毎シーズン平均20点以上・10リバウンド以上をクリア。74年にはMVPにも選ばれている。バックス移籍後は少しずつ衰えが見られるようになったが、それでも攻守における重要人物であり、レニアーが在籍した5シーズンすべてでバックスはディビジョン首位に立った。キャリア最後の83~84シーズンにはチーム内で、オスカー・ロバートソン・リーダーシップ・アワードを受賞している。オールスターには8度選ばれ、殿堂入りも達成。背番号16はピストンズとバックスの両方で欠番となっている。引退後は、94~95シーズンにバックス時代の恩師、ドン・ネルソンのACに就任。シーズン途中にネルソンが解任されると、37試合だけHCを経験した。12勝25敗と結果は残せなかったが。足のサイズが大きいことで有名で、スプリングフィールドにあるバスケットの殿堂では訪れた人が足のサイズを比べられるようになっている。タイニー・アーチボルド、ディブ・コーウェンスと同じく、サウスポー。ディブ・コーウェンス6フィート8インチと小柄なC。フロリダ州立大出身で、総リバウンド数は同大史上1位。68~69シーズンのLSU戦では史上2位となる31リバウンドをマークしている。Cとしてはかなり小さいが、70年のドラフト1巡目第4位でセルティックス入り。この指名にはビル・ラッセルの推薦があったと言われる。ルーキー・イヤーはファウル数でリーグ首位になってしまうが、攻守における活躍も確かなモノで、ジェフ・ピートリーと新人王を分け合った。73年にはチームを68勝14敗という好成績に導き、オールスターMVPとシーズンMVPを受賞。キャリアを通して7度オールスターに選ばれており、オールNBAチームとオール・ディフェンシブ・チームにも選出されている。74年と76年には優勝を経験。非常に積極的且つ情熱的な選手で、コートの端から端まで全力で動き回るスタイルは引退するまで変わることがなかった。オールラウンドなCであり、77~78シーズンは得点・リバウンド・アシスト・ブロック・スティールでチーム首位となった(他にはスコッティ・ピッペンのみ)。自由奔放な行動でも有名で、74年に優勝した後、ファンや近所の人たちと優勝を祝おうとボストンのダウンタウンを彷徨い歩き、公演のベンチで寝てしまったり、77年頃には「オーバーヒートしてしまった」という理由で突然プレイを辞めてタクシーの運転手をしたこともある。78~79シーズン、セルティックスにいたコーウェンスは選手権監督してコーチ業をスタート。しかし翌シーズンには選手に専念し、シーズン終了後に現役を引退した。その後、説得されて82~83シーズンにバックスで現役復帰するも、すぐに2度目の引退をしている。引退後はCBAのHC、NBAのACを経て、96年にホーネッツ(現ペリカンズ)のHCに就任。アロンゾ・モーニング、ラリー・ジョンソンらが相次いで抜け、期待されていなかったチームを逆にチーム史上最高勝率(当時)に導いた。ウォリアーズでもHCの経験があるが、このときは結果を残せなかった。WNBAのシカゴ・スカイ、初代HCでもある。背番号18はセルティックスの永久欠番で、90年には殿堂入りも果たしている。チャーリー・スコット6フィート5インチのスウィングマン。ノースカロライナ大出身で、同大で初めて、黒人で奨学金を得た選手である。卒業後の70年、ドラフト7巡目第106位でセルティックスから指名されるも入団せず、ABAのスクワイアーズを選んだ。1年目は得点力の高さを発揮して新人王を受賞。翌71~72シーズンにマークした平均34.6点はABA史上最高の数字であった。そして、そのシーズン終了後にサンズに加入し、6試合だけプレイ。以降のキャリアはNBAで過ごした。サンズには75年まで在籍。ここではスコアラーとして活躍し、オールスターにも毎年出場。75年オフにはかつて指名を受けたセルティックスに移籍し、移籍1年目にいきなり優勝を経験した。しかし、77~78シーズン中にレイカーズにトレードされ、78年にはNBAに参入して間もないナゲッツへ再度移籍。2シーズン過ごし。80年に現役を引退した。得点力があるが、リバウンドやアシストなどもまずまず。TOが多いのが難点か。68年にはオリンピックで金メダルを獲得している。ダン・イッセルケンタッキー大出身でアドルフ・ラップのもとで66~70年をプレイした。70年のドラフト8巡目第122位でピストンズから指名されるが、入団はせず、ABAのケンタッキー・カーネルズと契約。ルーキー・イヤーから活躍を見せ、平均29点・13リバウンドをあげて新人王を受賞した。オールABA2ndチームにも選ばれている。2年目には平均30点の大台に乗せてオールスターにも出場し、オールABA1stチーム入り。75年にはシューターのダンピアー、CのギルモアとともにカーネルズをABAチャンピオンに導いた。しかし、そのオフには金銭と交換でボルチモア・クロウズに売られてしまい、その翌シーズンは更にナゲッツへ移籍する。ABAはここで消滅し、ナゲッツはNBAへ参入。イッセルはそのままナゲッツに在籍した。イッセルはNBAでも活躍を続け、77年にはいきなりオールスターに出場。84~85シーズンまで現役を続け、通算2万7000点は引退時、カリーム・アブドゥル-ジャバー、ウィルト・チェンバレン、ジュリアス・アービングに次ぐ偉大な記録であった。85年にはJウォーター・ケネディ・シップ賞も受賞している。引退後は92年からナゲッツのHCに就任。2年目にはプレイオフに進み、第8シードながら第1シードのソニックスを破るという歴史的アップセットを演じた。翌94~95シーズン半ばに職を退くが、98年にGMとしてナゲッツに復帰。99年には再びHCとなった。しかし、このときは選手に練習をボイコットされるなどうまくいかず、01年12月に解任。この人事に関しては、イッセルがタチの悪いファンに「メキシカン野郎はビールでも飲んでろ!」と怒鳴ったことに対してヒスパニック系の団体から抗議があったことも関係している。当初は数試合の出場停止だったが、それが解任となり、以降NBAでコーチは務めていない。ハーブ・ホワイト6フィート2インチ・195ポンドのスウィングマン。高校時代はジョージア州のナンバー1高校生に選ばれ、ジョージア大へ進学。69~70シーズンにはMVPを受賞した。しかし、NBAからの評価は高くなく、70年のドラフト8巡目第144位で地元ホークスへ入団。ピート・マラビッチと同期入団であった。シーズンが始まると出番は限定的で、シーズン終盤には陸軍に招集されて1年目終了。その後は故障もあり、翌72年にプロキャリアは終わってしまった。跳躍力のすごさで知られ、ウィルト・チェンバレンによって「試合前のウォーミングアップ中に見た中で最も偉大なダンカー」とされていた。試合前のダンクではMSGの観衆からスタンディング・オベーションを受けたこともあるそうで、のちに「最も過小評価されているダンカー」として、スポーツ・イラストレイティッド誌に選ばれている。

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  • 13May
    • 昭和45年ドラフト組①

      万博といえば「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」ですよね。数少ない、泣いた映画です。笑ガー・ハードルイジアナ州の高校、オクラホマ大を経て70年のドラフト3巡目第40位でソニックス入り。6フィート6インチ・219ポンドで鼻っ柱の強いFで、大学時代は通算アベレージは平均15.6点・11.2リバウンドである。最初の2シーズンをレニー・ウィルケンス率いるソニックス、続く1シーズンをディック・モッタ率いるブルズで過ごし、更にブレーブスへ移籍。ブレーブスでは移籍1年目にはキャリアハイの平均15.3点・11.7リバウンド・2.2ブロックをマークした。75~76シーズンの半ばにはサンズへ移籍。このシーズンはスケジュール上、歴代3位となる86試合に出場している。このシーズンのサンズはファイナルに進んでおり、ゲーム5でトリプル・オーバータイムに持ち込む18フィートのブザービーターを決めたシーンは有名である。ハードはこれによって「ザ・ショット・ハード・アラウンド・ハード」という愛称を得た。サンズで4シーズンちょいプレイし、80~81シーズンをクリッパーズで過ごして引退。その後は82~83シーズンにアリゾナ州立大のACを務めたのを皮切りにコーチ業をスタート。87年にジョン・マックロードのACとなり、89~90シーズンの途中からはマブスでリッチー・アドゥバトのスタッフ入り。92~93シーズン半ばにはアドゥバトの解任を受け、暫定HCを務めた(9勝44敗)。93~94シーズンにはラリー・ブラウンのACとしてペイサーズへ。4シーズンを過ごし、ブラウンが97年にシクサーズのHCに就いたときには、ハードも同行した。98~99シーズンに、(ブラウンの愛弟子のひとりでもある)アルビン・ジェントリーがピストンズのHCとなったのを受け、ハードはそのACに就任。99年オフにはウィザーズの新HCに就任。しかし、成績はふるわず、シーズン途中にフロント入りしたばかりのマイケル・ジョーダンによって解任され(ジョーダン初仕事)、00年オフにはホークスの新HC、ロン・クルーガーのACとなった。ジェフ・ピートリーシューター。6フィート4インチのスウィングマンで、まだ3ポイント・ラインのない時代に、それくらい遠くからでもシュートを決めることが出来た。70年のドラフト1巡目第8位でブレイザーズ入り。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し(デイブ・コーウェンスとダブル受賞)、オールスターにもキャリアを通じて2度選出された。05年にデイモン・ストウダマイヤーに更新されるまで、ブレイザーズの1試合最多得点の記録も保持していた(51点)。背番号45は永久欠番でもある。引退後はキングスのフロントにいたのが有名で、優勝は出来なかったが、強さと楽しさを兼備した魅力的なチームを作った。エグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを2度受賞している。ジム・マクミランコロンビア大出身。6フィート5インチのFで、マクミラン在籍時の同大は3シーズンで63勝14敗という成績であった。「ジミー・マック」の愛称で知られ、通算1758点・平均22.点はともに同大史上2位の記録である。70年のドラフトでは1巡目第13位でレイカーズ入り。同年、(当時)ABAのネッツからも指名されたが、レイカーズを選んだ。2年目には、69勝13敗という歴史的な好成績を残したチームで活躍。このシーズンは序盤にエルジン・ベイラーが、故障を理由に引退しており、その後を継いで先発に入ったのがマクミランであった。69勝13敗という成績は、96年にブルズが更新するまでリーグの最多勝記録で、シーズン中に達成した33連勝というのは今でもリーグ記録である。このときは、マクミラン自身もプレイオフで平均19.1点をあげるなど充実していた。ブレーブス、ニックス、ブレイザーズでもプレイし、80~81年をイタリアで過ごして現役を引退した。ネイト・アーチボルドニックネームは「タイニー」。6フィート1インチのPGで、見事なペネトレイターであり、パサーであり、レンジの広い優秀なシューターでもあった。当時としても小柄だったが、そのクイックネスと技術は並外れており、守りにくい選手だったという。テキサス大エルパソ校の出身で、70年のドラフトでは2巡目第19位でキングスに入団(当時はまだシンシナティ・ロイヤルズ)。73年には史上唯一となる、1シーズンで得点王とアシスト王の両方に輝いた(68年にオスカー・ロバートソンも達成しているが、その頃はアベレージではなく、シーズンの通算でリーグ・リーダーが決まっていた)。80~81シーズンには、まだ2年目だったラリー・バードとともに優勝を経験。オールスターには7度選出され、81年にはMVPも受賞した。オールNBAチームの常連でもあり、91年に殿堂入り。96年にはNBAの偉大な50人にも選ばれた。ハウウィー・ライトオースティン・ペイ州立大出身のPG。70~71シーズンにABAのケンタッキー・カーネルズでデビューし、52試合(試合総数は84試合)で平均4.6点をあげた。因みに同期入団に、ダン・イッセルがいる。71~72シーズンは僅か1試合しかプレイせず、NBAのチームでもプレイ経験はない(70年のドラフト2巡目第34位でニックスに指名されているが)。

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  • 09May
    • 昭和52年ドラフト組②

      プレイオフもいよいよカンファレンス・ファイナル。正直どこが勝ってもいいけど、一応ウォリアーズとキャブスを応援することにしました。ジェフ・ウィルキンス6フィート11インチ・230ポンドのC/Fで、イリノイ大出身。77年のドラフトでは2巡目第37位でスパーズから指名された。その7月には一旦契約を結ぶが、開幕前には解雇。NBAデビューは80~81シーズンまで待たなければならなかった。80年オフにジャズと契約。2年目には全82試合に出場して、そのうち62試合で先発を務めるなど成長。翌82~83シーズンにはキャリアハイの平均11.5点・7.4リバウンドをマークした。しかし、同シーズンに加入したマーク・イートンが徐々に出場機会を増やし、先発の機会は減少。83~84シーズンからは完全に控えに回った。85~86シーズンの半ばにトレードでスパーズに移籍して、シーズン終了後に現役を引退。85年のプレイオフでは平均12.9点を稼いでいる。TR・ダン「TR」は「セオドア・ルーズベルト」の略。6フィート4インチのG/Fで、アラバマ大時代はスターだった。そして77年のドラフトでは2巡目第41位でブレイザーズに指名される。ここではあまりパッとしなかったが、ナゲッツに移籍した80~81シーズンからキャリアが開花。ラン&ガン主体のオフェンスでリーグ史に残るオフェンシブなチームだったナゲッツで、主にスターティングGとして活躍した。得点力は低く、キャリアを通じて一度も二桁の得点アベレージをマークしなかったが、ディフェンスと(Gとしては希有な)リバウンドの強さで先発の座を掴んだ。バックコート・コンビを組んだファット・レバーとともに、リーグ史上最もリバウンドに強かったコンビかもしれない(地味ながら)。しかし、チームの方はプレイオフで結果を出せず、87~88シーズンに先発の座をマイケル・アダムスに奪われると、翌シーズンはサンズへ。ここではローテーションにも入れず、1年で古巣ナゲッツへ帰還した。90~91シーズン終了後に引退。82~85年までオール・ディフェンシブ2ndチームに選出されている。引退後は91~97年まで主にアラン・ブリストウのコーチング・スタッフとして働き、WNBAのシャーロット・スティングのHC、アラバマ大のAC、キングスのACなどコーチとして研鑽を積んでいるようだ。ジェームス・エドワーズ「ブッダ」の愛称で知られたC。ワシントン大出身の7フッターで、77年のドラフト3巡目第2位でレイカーズに入団した。ルーキー・シーズンは途中でペイサーズへ放出されるが、平均で二桁得点を記録するなどまずまず。数シーズンを過ごし、81年オフにキャブスへ移籍した。82~83シーズン途中にはサンズへトレード。ここでも安定したプレイ振りを見せるが、86~87シーズンは故障で14試合しか出られず、翌87~88シーズン中にはピストンズへトレードされてしまう。ピストンズでは移籍直後こそ出番が限られていたが、88~89シーズンになるとビル・レインビア、リック・マホーンらのバックアップとして台頭。チームの優勝に貢献し、マホーンが移籍した翌シーズンにはスターティングFとして連覇に貢献した。こうしてバッドボーイズの主力として名を馳せたが、その解体と共にエドワーズも移籍。91~92シーズンはクリッパーズでプレイし、92年オフには古巣レイカーズへ。しかし、このときは年齢的な衰えもあってか出場機会は激減してしまった。94~95シーズンをブレイザーズ、95~96シーズンをブルズでプレイして、40歳で現役を引退。最後のシーズンに自身3つめとなるチャンピオン・リングを獲得した。エドワーズをドラフトしたのは、当時レイカーズのフロントにいたジェリー・クラウスで、キャリア最後のブルズ入りはクラウスとの繋がりが理由だとか。どこのチームでも計算できるローポストのスコアラーで、ターン・アラウンド・ジャンパーが得意だった。所謂ジャーニーマンだが、在籍した8チーム中7チームでプレイオフに進んでおり、これはNBA記録である。トム・シェフラーパデュー大出身。77年のドラフト6巡目第7位でペイサーズに指名されるが、契約には至らず、NBAでプレイしたのは84~85シーズンの39試合のみであった(ブレイザーズにて)。キャリアの大半はヨーロッパで過ごしており、イタリア、スペイン、ギリシャなどでプレイしたが、ハイライトはフランス時代。86・87年とチームの優勝に貢献している。弟のスティーブ・シェフラーもNBA選手で、90年代にソニックスなどでプレイしたが、やはり?12番目の選手であった。引退後はスイスの英会話スクールで働いていたとか。ウォルター・ディビス6フィート6インチのスウィングマン。ノースカロライナ大出身で、76年のオリンピックでは恩師ディーン・スミスの指揮するアメリカ代表チームの一員として、金メダルを獲得した。77年のドラフトでは1巡目第5位でサンズに入団。一年目から高い得点力を見せ、新人王とオールNBA2ndチームに選出された。これ以降、最初の10シーズンで6度20点以上のアベレージをマークし、オールスターにも6回出場。スピーディ且つしなやかで、力強さをも感じさせるプレイスタイルから「グレイハウンド(猟犬の一種)」と呼ばれ、またサンズ専属のアナウンサーは「スウィートD」「キャンディマン」とも呼んでいた。サンズ史上最多記録を持つスコアラーであり、フランチャイズ史上最高のシューターとも言えるかもしれない。ただ、キャリアの終盤は背中の故障とドラッグの問題がついて回った。特に80年代中頃のサンズのドラッグ・スキャンダルにおいては、それ以前にコカインの服用から2度リハビリのためにクリニックに入っていたことで起訴免除という形になり、チームの他の選手のドラッグ使用を証言するために呼ばれたという。88年に契約が切れると、33歳になっていたディビスはナゲッツと2年契約。90~91シーズン中には△トレードでブレイザーズに移籍し、91年オフに再びナゲッツと契約を結び、現役生活に幕を閉じた。のちにニックスなどでプレイするヒューバート・ディビスは甥にあたり、大学も同じノースカロライナ大であった。バーナード・キングテネシー大出身で77年のドラフト1巡目第10位でネッツ入り。6フィート7インチのSFで、長い腕とクイック・リリースのシュートが特徴的であった。スピードがあったため、速攻でのフィニッシュも上手く、85年には平均30点オーバーで得点王に輝くなど、素晴らしいスコアラーであった。オールNBA1stチームに2度、オールスターには3度選出されている。ルーキー・シーズンにいきなりシーズン総得点でチーム記録を更新し、83~84シーズンには64年以来となる2試合連続50点以上を記録。84~85シーズンには史上10人目となる1試合60点もあげた。しかし、この絶頂期(85年3月)に膝を故障し、キャリアは下降していく。85~86シーズンを全休するとかつての爆発力は失われ、86~87シーズンに復帰すると数字自体はまずまずであったが、故障前の姿ではなかった。しかし、87年オフにブレッツに放出されると、年々成績をあげていき、91年には数年ぶりにオールスターに出場。キャリア終盤に見事なカムバックを果たした。91~92シーズンを全休し、92~93シーズンを古巣ネッツでプレイし、現役を引退。96~97シーズンにリーグ史に残る偉大な50人が発表され、そこにはノミネートされなかったが、60人を選出するのであれば選ばれたと言われる。04年には殿堂入りの候補にも挙がるが、実現はならなかった。故障のために出場試合数が少ない、優勝に縁のないキャリアだったことなどが足枷となったのかもしれない(2013年に殿堂入り)。弟はアルバート・キング。セドリック・マクスウェル「マックス」「コーンブレッド」の愛称で親しまれたF/C。ノースカロライナ大のスターで、77年のドラフトでは1巡目第12位でセルティックスに指名された。2年目の78~79シーズン、ラリー・バードが1年後に加入するのを待ったチームは29勝53敗と低迷するが、そんな中マクスウェルのプレイ振りは今後に期待を抱かせるモノであった。得点力が高く、個性的な選手でもあり、81年にチームが優勝した際にはバード、マクヘイル、パリッシュといったチームメイトがいながらファイナルMVPを受賞。また84年のレイカーズとのファイナルでは、第7戦の前に「俺の背中に乗れよ、お前ら」とコメントし、実際に24点をあげる活躍。これに加えて、オーバータイムでは、FTを得たジェームス・ウォージーに対して首を絞めるジェスチャーでプレッシャーをかけた。85年にドラフト指名権と共にビル・ウォルトンとのトレードでクリッパーズへ移籍。1シーズン半を過ごし、86~87シーズン途中には更にロケッツへ移籍した。88年に現役を引退。背番号31はセルティックス史上22番目の永久欠番である。因みに「コーンブレッド」という愛称は、大学時代のチームメイト、メルビン・ワトキンスが映画「コーンブレッド、アール&ミー」の内容に因んで付けたとか。チャーリー・クリスニューメキシコ州立大出身で、5フィート8インチのG。NBAのドラフトにはかからず、76年にCBAでプロキャリアをスタート。スクラントン・アポロズでプレイしたクリスはMVPを受賞し、77年オフにホークスと契約を結んだ。ルーキー・シーズンはいきなり平均2桁得点を稼ぐなど活躍。81年までバックアップとして貢献し、81~82シーズン途中にはクリッパーズへ移籍した。ここでもまずまずだったが、82年オフに契約を結んだバックスでは、途中で解雇され(83~84シーズン途中)、古巣ホークスに帰還。84~85シーズンに4試合だけ出て、NBAでのキャリアを終えた。現役時代はリーグで最も背の低い選手。ドラフト外の選手としては悪くなかった。引退後はゴルフのインストラクター、バスケットのマイナー・リーグのコーチなどを務めている。

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  • 26Apr
    • 昭和52年ドラフト組①

      ルパンの「ちゃんと言わなきゃ愛さない」、好きなんですよね。ジャック・シクマ77年のドラフト1巡目第8位でソニックス入りしたC。オール・ルーキー・チームに選出され、79~85年まで7度オールスターにも出場し、79年にソニックスが優勝したときには主軸として活躍した。当時のチームメイトにはデニス・ジョンソン、ガス・ウィリアムス、ポール・サイラスらがいた。キャリアを通して得点アベレージは常に二桁で、それはキャリア終盤、バックスに移籍してからも変わらなかった。リーグ史上最もシュートの上手いCのひとりで、87~88シーズンには92.2%の高確率でFTを決め、リーグ首位に立った。3P成功率も通算で33%をマークしており、当時のCとしては上出来。もちろんインサイドでも強く、82年と84年にはディフェンス・リバウンドでリーグ首位となった。07年にはロケッツのACに就任。グレッグ・バラードドラフト1巡目第4位でオレゴン大からブレッツ入り。ルーキーの年にいきなりNBAチャンピオンとなった。8シーズン在籍したのち、85年6月にウォリアーズへトレードされた。イタリア、CBAを挟んでソニックスでもプレイ(88~89シーズン)。89~90シーズンはACを務めるために再びイタリアへ戻った。因みにこのときのチームにはブライアン・ショウとダニー・フェリーがいた。NBAでの通算は802試合で平均12.4点。NBAに戻ってからは、まず弱小マブスでクイン・バックナーのACに就任。94年9月にはウルブズのコーチング・スタッフとなり、ランディ・ウィットマンを支えた。野球の才能もあったようで、73年にモントリオール・エクスポズから指名されたこともある。ポジションはピッチャーだった。トム・ラガードノースカロライナ大出身。77年のドラフト1巡目第9位でナゲッツに入団。6フィート10インチのF/Cで、78~80シーズンはソニックスで過ごした。80年にはエクスパンション・ドラフトでマブスに移籍。創設1年目のチームで唯一全82試合に出場した。このシーズンはリバウンドとブロックでチームをリードし、得点でもジム・スパナーケルに次ぐチーム2位であった。しかし、翌シーズンは一気に出場機会が減少し、その後イタリアへ。84~85シーズンにネッツと契約を結び、NBA復帰を果たすが、故障のために僅か1試合しかプレイできず、そのまま現役生活を終えた。レイ・ウィリアムス6フィート3インチ・188ポンドのG。ジュニア・カレッジを経てミネソタ大でプレイし、77年のドラフト1巡目第10位でニックスに入団。1年目はアール・モンローやブッチ・ベアードらベテランの影にいたが、2年目にはベテランの衰えもあってか役割が激増。平均17.3点をあげてチームの得点王となった(但し、シーズン途中に移籍したボブ・マッカドゥー、スペンサー・ヘイウッドを含めるとチーム3位)。この頃のニックスは強くはなかったが、78年にマイケル・レイ・リチャードソン、79年にビル・カートライトをドラフトで指名するなど有望な若手を獲得。80~81シーズンには8年ぶりに50勝をあげ、ウィリアムスはそのチームの得点源として活躍した。81~82シーズンはネッツでチーム1位の得点とアシストを記録し、キングスに移籍した82~83シーズンには平均15.4点を稼いだだけでなく、キャリアハイの平均7.9アシストもあげている。TO総数でリーグ首位に立つという不名誉な記録も残したが。83~84シーズンは古巣ニックスで活躍し、84~85シーズンは強豪セルティックスへ。59試合を休んだが、自身初のファイナルを経験した。因みにこのときはレイカーズに負けている。85~86シーズンはホークスでシーズンをスタート。主に先発として起用されるが、シーズン途中にはスパーズへ放出され、終盤には更にネッツへ移籍した。翌86~87シーズンを最後に現役を引退した。得点力があるだけでなく、サイズの割にリバウンドにも強かった。スティールも多い。NBAでの通算は平均15.5点・5.8アシスト。ブレッツなどでプレイしたガス・ウィリアムスの弟。トゥリー・ロリンズ本名はウェイン・ロリンズ。7フィート1インチのCで、オフェンスはあまり期待できない反面、ブロックで知られた選手である。クレムソン大出身で、77年のドラフトでは1巡目第14位でホークスに指名された。以降、87~88シーズンまで11シーズンに渡って、平均20分程度のプレイングタイムではあったが、インサイドを支えた。最初の9シーズンはブロックで必ずリーグのトップ10に入っており、特に82~83シーズンには平均4.3ブロックでブロック王になった。ホークスを離れた後は移籍を繰り返し、88~90シーズンをキャブス、90~91シーズンのピストンズ、91~93シーズンをロケッツ、93~95シーズンをマジックで過ごした。キャリア終盤はほとんど戦力になっていなかったが、最後のシーズンはシャックのバックアップを務める傍ら、ACも兼任した。オール・ディフェンシブ・チームには、1stに1回、2ndに1回選ばれたことがある。引退時、通算ブロック数は歴代4位だった。引退後はマジックやウィザーズのAC、NBDLでコーチを務め、07年2月にはリッチー・アドゥバトの後を継いでWNBAのワシントン・ミスティックスのHCに就任。そのシーズン、チームは過去最高となる18勝16敗という成績を収めた。ブラッド・ディビスメリーランド大卒業後、77年のドラフト1巡目第15位でレイカーズから指名を受けた。その後CBAを含め、移籍を繰り返し、80年にエクスパンション・チームのマブスと契約。以降、引退するまでマブスでプレイした。キャリアの平均得点は2桁に届かず、主にベンチ・スタートではあったが、ハッスルプレイとチームに対する愛情でファンの支持を受けた。92年に引退すると背番号15は永久欠番となった。引退後もマブスに携わっていた模様。エディ・ジョーダンラトガース大出身で同大のアシストとスティールの記録を保持。77年のドラフトでは2巡目第33位でキャブスに入団し、ルーキー・シーズンの中盤にはトレードでネッツに移籍した。学生時代から定評のあるスティールはプロでも通用し、79・80年には総スティール数でリーグ首位に立っている。80年にはレイカーズに移籍して、4シーズン在籍。82年には優勝を経験した。83~84シーズンをブレイザーズでプレイして引退。現役生活は7シーズンであった。引退後はまず母校ラトガース大のACにボランティアで就任。当時HCだったトム・ヤングは、のちにジョーダンがウィザーズのHCになったときにACとなる。その後、オールド・ドミニオン大、ボストン・カレッジ(HCはジム・オブライエン)、ラトガース大のACを経て、92年にキングスのコーチング・スタッフ入り。96~97シーズン終盤にはゲーリー・セントジーンの後を継いでHCとなった。翌97~98シーズンはフルシーズンで指揮を執るが成績はふるわず、オフに解雇。98~99シーズンの途中に今度はネッツのACとなった。ネッツではスタッフの中心として活動し、ネッツがファイナルに進んだ際にはバイロン・スコットを、特にオフェンス面でサポートした。そしてその働きを評価され、03年にウィザーズのHCに就任。1年目は25勝に終わるが、翌年は20勝上乗せし、78~79シーズン以来の好成績に導いた。このときは96~97シーズン以来のプレイオフ進出、82年以来の1stラウンド突破も果たしている。07年には、ウィザーズのHCとしては79年のディック・モッタ以来となるオールスターでのHCも経験した。のちにシクサーズのHCも務めるが、このときは失敗している。マーク・ランズバーガー6フィート8インチのF/C。77年のドラフト2巡目第35位でブルズに入団。79年1月28日のナゲッツ戦では、当時チーム史上3番目の記録となる29リバウンドを稼いだ。80年2月にはオリバー・マック、2つのドラフト2巡目指名権と交換でレイカーズへ放出された。ここでは83年までプレイし、控えではあったが80年と82年に優勝を経験している。83~84シーズンをホークスで過ごしたのち、90年までヨーロッパでプレイし、現役を引退した。余談だが、レイカーズに在籍していた頃、フェニックスでチーム・ジャージのままでライターたちと食事をしていたとき、チョコレート・シェイクをこぼしてしまい、しかし遠征中だったために替えがなく、それを着て試合に出場していたことがある。

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