凡植という名の少年が転校して来たのは、私が小学校六年生に進級して間もない頃でした。

彼の父親は教師で、彼自身も勉強がよくできました。

その上運動神経も秀でて、性格は誠実。

同級の視線で見てもたいへん模範的で優秀な生徒だったと記憶しています。

 

彼とは家が近所で、放課後にはときどき、お互いの家で遊んだり、宿題をしたりと親しく付き合うようになりました。

ある日のこと、彼の家のリビングに、大きな碁盤があるのがふと目に入りました。

尋ねると、凡植は囲碁のやり方を知っているというのです。

「ぼくは五目並べならすこしわかるけど……」

恥ずかしい気持ちの混じった声で私が言うと、凡植は、

「五目ならべなんて、つまらないよ。僕が教えてあげるから、ここに座って。こうやって四方を囲まれたら捕まるんだよ。最後に地の数を数えて多い方が勝ちさ。」

そのころ凡植は、毎日お父さんから囲碁を教えてもらっていて、私は百戦百敗でした。

将棋なら自分だって、直接習ったわけではないけれども、父親がうつのを肩越しに見て覚えて、同年輩のあいだでは向かうところ敵なし、だったのに。

きちんと習えば、自分だって囲碁をものにできるはず。

凡植に勝ちたい!! という意地がむくむくと起き上がりました。


 

その当時、私の家(注:母親が経営する旅館。自宅と続いていました)に間借りして住んでいた人の中に、"クリーニング屋のおじさん"がいました。

「そういえば、おじさんの部屋にはいつも真ん中に碁盤が置いてあったはず。」

そのことを思い出した私は、早速おじさんが帰ってくる時間を見計らって部屋を訪ねていきました。

夏のとても暑い日のことでした。

おじさんは私に、

「よし。おまえの家の冷蔵庫に冷やしてあるコーラを1本持ってきたら、教えてやるぞ。」

といいました。

お安いご用!! 売り物のコーラが1本減ったくらいでは誰も気付きやしない。

私は毎日のように冷蔵庫の扉を開けては、一番冷えたコーラを1本持ち出して、クリーニング屋のおじさんの部屋へ運んでいき、囲碁を習って帰ってきました。

このおじさんが、私に囲碁の基本術を教えてくれたわけですが、このようないきさつを書くとまるでおじさんがコーラ中毒者かなにかのようですね。

でもその実、おじさんは町にはライバルがいないほどのセミ・プロ級の囲碁師だったのです。

そして本業のクリーニング屋の方も、仕事が丁寧で皆に腕が認められていて、その後しばらくしておじさんは高級洋品店を新装オープンして仕立て屋になりました。(韓国のクリーニング屋は通常、服の修繕も兼ねています)

 

そのおじさんが、ある日私の手を引いて小さな本屋に連れていきました。

囲碁の基本はマスターしたから、これからは本を見ながら勉強するのが棋力を向上させるのに役立つだろうということで、そこで囲碁の教習本を一冊選んでくれました。

今でこそ、囲碁に関する実用書はレベルごと、種類ごとに様々に揃っていますが、そのころは片手で数えられるほどにしか囲碁の本は出ていなかったものです。

おじさんが選んだのは、『囲碁教室中級編』でした。味もそっけもない題名です。

もちろん児童用に書かれた本ではありませんから、途中途中知らない漢字が混じっていましたが、数字をキーワードにたどっていくと、何が言いたいのかはちゃんと理解できました。

この本を読み進むうちに、囲碁の力がしっかりとついてくるのが自分でも分かりましたから、私は心からこの本を貴重に思い、大切にしました。

私にとって、囲碁に関してはバイブルのような本です。

ところでその本が、実は日本の書籍の翻訳書であることに気付き、それが契機で私は日本という国に思いを馳せるようになりました。

これが私と日本との初めての出会いです。


 

私の両親が親しくさせていただいていた彩雲寺の玄覚和尚が、日本土産だといって持ってきてくれたのが、ソニーのウォークマンでした。

驚くほど小さくて、赤色が小粋な、デザインも洗練されたものでした。

腰に掛けて携帯して音楽を聞けるようになっている、オートリバース機能まで備えたウォークマンで、今でいえばアイフォンの最新バージョンに匹敵するような最先端機器でした。

サムソンが同一機能をもつ「mymy」という製品を売り出したのは、私がソニーウォークマンを手にしてから2年近く後だったように記憶しています。

この文物的経験というか、ショックはたいへんなもので、これも日本との出会いでした。

 

高校時代に定期講読していた「月刊囲碁」誌に、時折日本の棋士たちが紹介されていました。

藤澤秀行先生の、自由を極めた精神世界がそのまま映し出されたような棋譜。彼に関する逸話を、胸をときめかせながら読んだものです。

大竹英雄先生。一幅の絵画のように美しい駒の動きを見せてくれました。

武宮正樹先生。駒の動きの奥に宇宙空間の広大な広がりを垣間見るようでした。


 

 

日本はこのように、青少年期の無意識に少しずつ、少しずつ入り込んで来ていました。

天秤にぶら下げて行商に来る餅屋(韓国では以前、大福餅のような菓子をこのように売り歩く商売があって、我々はそれを日本の菓子の代表格と考えていました)の菓子の味が、甘くて美味しくて忘れられなくなるように、日本という国自体も私の中に入り込み、馴染んでいったのです。


 

ところが、学校や社会で教えられる日本は、歴史的にみると韓国・朝鮮に拭えない悪事をはたらいた存在でした。

否応なしに魅了される国。

一方では悪の象徴。

その混沌の中で、受験生として忙しい日常を送っていた私は、日本をそのどちらかに片をつけることを保留したまま、ときを過ごしました。

 

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椿漢方はソウルにある韓方クリニックです。