人間の価値を決める要素は、その人の社会的地位や名誉でも、財産の多寡でもない。
その人の内面─霊魂─とその人自身がどこまで一致しているか、それがその人の価値を決定するのです。
生とは、過去を所有することではありません。
生は瞬間瞬間の集大成です。
永遠なものなどどこにあるであるでしょう?
すべては一瞬・一時です。
だからこそその一瞬・一時に最善を尽くして、最大限に生き抜かねばならないのです。
生とは、驚くべき神秘であり、美です。
心を中を空けること、それを無心といいます。
無心の状態のときに、我々の心は本当の姿を映しています。
心の器に何かが入った状態のとき、それは本ものの心ではありません。
心が空っぽにすると、その中に響きが生まれます。
響きを持つ生は、新鮮で活気に溢れるものです。
我々は必要性を感じてものを所有します。
が、ときにそのもの自体に心を拘束されることになります。
したがって、何かを持つ、ということは、その反面何かに縛り付けられることに等しいのです。
つまりは、ものを多く所有するほど、それに比例して拘束される度合いも大きくなるということです。
法頂上人が生前に残されたお言葉です。
私と法頂上人との出会いは、高校時代、実家の本棚に置いてあった(おそらく兄のものだったのでしょう)『無所有』という題名の、文庫判随筆集を手にとったのが最初だったと思います。
当時の私はまだ、世の荒波にさらされていない、世間知らずの学生でした。
自分の所有物だとか、財産だとかについて一度たりとも考えを巡らせたことのない、よくいえば純真な時代でした。
それで当時としては、本を最後まで読み終えるまで、これといって心に触れる節を見つけられなかったのかも知れません。
ただその中でも、上人の卓上時計に関する話は印象深く、記憶に鮮明に残りました。
ある日上人が、古い卓上時計を盗難に遇いました。
山の中の小さくて貧しい寺にも、時としてどろぼうが入るものなのですね。
さて、時計がなくては困ります。
上人は山を下り、安価な時計を求めてソウルの街中、古物商の集まる淸溪川市場に出向きました。
ところが、上人が無くしたまさにその時計を、売ろうとして古物商と交渉をしている男がいるではありませんか。
上人も驚きましたが、男はもっとあわてふためいています。
その取り乱した姿を見て上人は、とっさに気付かないふりをし、時計が気に入ったからそれを買いたいと、その場で男に申し出るのです。
上人はこうして、当時1.000ウォンを支払ってまたその時計を手にいれたのでした。
どろぼうに対する恨みつらみは少しもなく、卓上時計との縁がただありがたいばかりとお感じになり、喜ばれたとのご感想で話が結ばれていました。
第一印象が鮮烈だったわけでも、敬愛し耽溺する、ということでもありませんでした。
しかしその後大学時代の六年間、またその後々までも、折々に接する上人のお言葉には自然と惹かれるものを感じてきました。
上人の哲学と、東洋医学に通じるところがあったからでしょうか。
あるいは私自身が、少しずつ自分の所有物を増やしていっていたからでしょうか。
上人はいつも、「所有しない生」をお勧めになりました。
何も所有せずに、拘束されない生が澄んだ色を帯び、芳しさを放つと教えてくださいました。
韓方はじめ東洋医学は、「中庸」を」守ることをよしとする医学です。
極と極のバランスをとらせる、とも言い換えられるでしょうか。
『陰陽論』というと小難しい、とっつきにくい理論のようですが、とどのつまり「中庸を理想と考える理論」という悟り開きに達すれば、いとも単純にして明白な理論といえます。
人体とはすなわち、"吸う息と吐く息","飲食と排泄"、"記憶と忘却"その均衡を保って生きていく生命体です。
これらの均衡が保たれていれば健康、崩れれば何処かしらにトラブルが生じます。
野心と欲望が過ぎれば吸う息が過剰になり、病が始まります。
憤怒と癇癪で吐く息が過剰になり、病が始まります。
必要以上に摂取しながら、その分を排泄できないことが多いとき、病が始まります。
記憶することの大切さは皆が認識していますが、それと同様に忘却することも大切です。
所有する喜びはわかりやすいですが、実は捨てることで得られるものも大きいことをご存知ない方が多いようです。
記憶しすぎること、所有しすぎること、そのことが時にからだに傷を負わせることになるのです。
法頂上人は、アミに繋ることのない風のように、泥沼に染まらない蓮の花のように、澄んだ色の、芳しさ漂う姿を見せてくださいました。
そうやって、清浄な生がどのようなものかをみずから体現することで、多くの人に教えを授けてくださり、昨年3月11日に入寂されました。
椿漢方はソウルにある韓方クリニックです。
漢方薬と鍼治療で健康と美容のお手伝いをさせていただいています。