愛用の処方 半夏白朮天麻湯
1994年春に六年制の韓方医学部を卒業すると同時に、私は大学院修士課程に進学、また大学病院にレジデント医として就職することになりました。
韓方医師としてのいわゆるエリートコースだったといえるでしょう。
……大学病院を一週間で飛び出してくるまでは、という限定つきですが。
飛び出してきたその足で向かったのは、"ど"の付く田舎(京畿道退溪院)にある、今は亡き老鍼灸師(晩竹先生)がやっている治療所です。
最低限の着替えや医書など、身の廻り品の荷をまとめてこの施術所に住み込みで入ったときから、エリートコースとは正反対の人生が始まったというわけです。
老鍼灸師との縁は、実は学部生時代から始まっていました。
退溪院の老鍼灸師には、じつは韓方医免許も鍼灸師国家資格もありません。
それでも日に2ー300人の患者が、痛むからだを引きずって交通の不便な治療所を訪ねてくるのですから、治療の効き目については疑う余地がないと思います。
退溪院の老師についてのお話はまた別の機会に。。。
退溪院の老師のもとで、無報酬で助手として働きながら、無事6ヶ月の修練を積んだ私が、初めて韓方医師として報酬を得て就職することになるのが、ソウルの南部、落星垈駅近くに位置する明新韓医院です。
1994年の初秋のことでした。
出勤を始めて間もない頃のことです。
付近の在来市場で食堂を経営する50代の女性が診察室に入ってきました。
いつもムカムカと胸焼けを起こした状態で、頭痛も同伴しているとのことです。
酷いときには胃酸が逆流して吐気をもよおすほどで、頭痛の痛みときたら目を開けていられないほどだと訴えます。
実際のところ、診察のあいだ中頭を押えておいでで、表情はゆがみ本当におつらそうです。
「こういう状態を痰厥頭痛というのだな」と、学んだとおりにスルスルと症状の解釈が解けていきました。
その場で半夏白朮天麻湯の本方どおりの処方を決定しました。
すると横で見ていた院長が、倍方にしたらどうかとコメントをされるのです。
慎重に用いるべき半夏を、一貼(半日分)あたり6gを使用するのもためらわれるのに、倍の12gとは。
症が合えばその分早い回復が見込めるだろうと、グッと目をつぶって本方×2を最終的な処方としました。
それから数日経った日のことです。
あのときの女性の弾んだ声が待合室から聞こえてきます。
もしかして煎じ薬に麻薬でも入れたのではないかと、物騒なことを訊いておられます。
待合室に出てお話を聞くと、今まで何度も漢方薬を飲んできたけれども、こんなに早く効果が現れたのははじめてだと感激し、喜んでおられました。
薬を飲むなり、すぐに胸のムカムカが治まり、頭痛がしなくなったそうです。
その女性の表現をそのまま引用すると、薬が喉をつたって降りてくるその瞬間から、薬が効き始めるとのことです。
私は処方を構成する生薬名をひとつひとつ書き記しながら、3ヶ月ほどきちんと服用すれば、体調は安心できるほどに改善されるだろうと言葉を添えました。
このことがきっかけとなり、以降、半夏白朮天麻湯は私が愛用する処方のひとつになりました。
「脾胃の機能が虚弱で全体的に冷え症、胸がムカムカして眩暈をともなう頭痛がある。手足が冷たく、からだは疲労感があって重い」
「よく胃もたれや腹痛を起こす。長時間車に乗っていたり、ストレスを受けると一層酷くなる」
「内省的な性格なのに接客や営業の仕事を持ち、緊張感にさらされるとすぐ胸焼け・消化不良・酷い頭痛を起こす」
このような症状にピッタリの処方です。
冷え性があって手足がいつも冷たく、胃腸が弱い女性によく合い、ご年輩の方には滋養強壮薬としての応用も可能です。
後者の場合、高麗人参を15日分あたり一斤(300g)ほど併せて煎じるとよいようです。
ご出産おめでとうございます
「出産を無事すませました!!」
日本へ一時帰国して奥さんの出産を見届けて戻ってこられた駐在員さんの弾んだ声が、診察室の中まで届いてきました。
ご夫妻の念願だった妊娠を達成されてから出産のこの瞬間までを、ご当人はどれほど待ち焦がれておいでだったでしょうか。
妊娠の知らせを聞いてからは私も一層お二人を応援したい気持が強まり、期待と緊張を持って見守っていた中での冒頭の一言に、医療人としての喜びと誇りが湧いてきました。
それから1年半ほど前に遡ります。さんの奥様(31歳)が何枚にも重なった資料と検査結果を持ってクリニックを訪ねてこられました。
内容は多嚢胞性卵巣症候群に関するもの。
これが原因での生理周期の乱れ、慢性的消化不良と偏頭痛、むくみと体重増加、冷え性にお悩みでした。
結婚6年目でそろそろ赤ちゃんを、と望み始めた矢先に症状が気になり始め、婦人科で検診を受けたところこのような診断を受け、原因も治療法も確立されていないと聞かされる心情は察して余りあります。
生理周期はどんどん長くなり3ヶ月に一度程度で、今後は排卵誘導剤を注射して排卵を促さないことには生理は来にくいし、妊娠も難しいと聞いて、何か方法はないかと探した挙げ句に漢方を思いつかれたそうです。
ショックから立ち直りきれていない彼女が勇気を振り絞ってきたものの、始めての漢方なだけに「ちゃんとした医療なのか??」と判断をつきかねているような不安な(半信半疑の)表情を、私はいまでもよく覚えています。
一言でいって難しいケースでした。
処方に迷うケースです。
病名を頼みに単純に決めるとしたら、子宮や卵巣のお血を解く処方を使うべきところです。
ただそれだけで済ませたくなかったのは、"漢方は病名を治す医学ではなく人を治す医学だ"という原則が頭を離れなかったからです。
この原則は守り通したい、と肝に命じながら、脉をとり、腹部を触診し、舌の様子を観察しました。
すると霧の中に道が見えてきました。
体質が「寒令」にかなり傾いていることがわかったのです。
冷えと湿が胃腸に積もり積もって常に胃持たれがしたような状態にあり、それが原因で血液の循環に問題が生じて子宮および卵巣部にお血が溜った、と症状のルートを私なりに整理しました。
そこで藿香正気散本方に、卓越した浄血作用がある丹三を君薬として、まず1ヶ月飲んでみることにしました。
東京の品川駅近くに「薬日本堂」があります。
日本語初心者だったころに、自分の専門分野なら耳にも入ってきやすいだろうと考えて、そちらの漢方セミナーに通ったことがあります。
そこに中国式東洋医学者の呉先生がいらっしゃいました。
ネイティブ並みの流暢な日本語に加え、穏やかで温かいお人柄で、大勢の学生たちが慕う先生でした。
呉先生が講義中おっしゃったことで、私も「そのとおり!]と膝をうったのが、次のことばです。
「藿香正気散は、日本では夏風邪の治療薬程度という認識にとどまっているけれども、実はもっと利用範囲が広く、利用価値も高い良薬である。実際自分も頻繁に、愛用している処方です。」
私の個人的見解でも、日本の高い湿度、ストレス社会、遺伝的にもライフスタイルの面でも冷え性になりやすい環境などを考えたとき、藿香正気散は特に日本において、もっと活用される価値のある処方だと考えます。
さてさん(奥様)の件ですが、20日間の服用後にはもう、いっさい西洋薬を用いずに生理が自然に起き、何よりもいつも消化不良でからだが重くだるかったのが、胃腸がすっきりしはじめて全体的な調子も上がってきたということでした。
3ヶ月間漢方薬を煎じ薬で続け、同時に週1回はクリニックに通って鍼灸治療を並行されました。
その間にむくみがとれ自然に体重が減少し、断続的に起こっていた偏頭痛も気にならなくなってきました。
そして、あれほど悩みの種だった稀発・無生理が解消。約33日の規則的な周期で生理が来るようになったのです。
3ヶ月の集中治療で症状を正常の側にぐっと引き戻してからは、定期的な鍼灸治療で状態を維持し、ついに10ヶ月後に、妊娠に成功されたのでした。
***この記事は患者ご本人の了承を得て掲載いたしました。***
受験生のための処方~記憶力と集中力の増進~
窓の外を歩く人々を眺めていると、一様に首と肩をすぼませて歩いていきます。
落葉が風に舞っては地面に積もっていきます。
また寒い季節がめぐってきました。
晩秋から初冬にかけてのそら寒さは、"修能試験"つまり韓国の大学入試の第一関門となる試験(日本のセンター試験のようなもの)と時期が重なっていっそう身に滲みるようです。
今年が受験生やその家族でなくとも、自身の受験生時代や、今後予定される、あるいは過去に通過した家族の受験期間を想起して寒々とした気持になるのはすべての韓国人に当てはまるのではないでしょうか?
今年の修能試験までは残り16日。全国の受験生たちは勉強のラストスパートと体調のコンディション管理に専念していることでしょう。
この頃の学生たちの勉強量は、20年以上前の私たちの世代とは比較にならないほど増加しています。
そして受験にかかる重圧感も年々強くなっているようです。
貧富差が拡大して5%のリッチ&エリート層と残り95%の貧困層という両極化が目につき始めている時代ですから、だれもが5%を目指し、まずは大学入試に人生をオールインします。
韓国の教育熱については自他ともに公認するレベルでしょう。
このごろは少子化の影響で、どの家庭も子供は一人か二人止まりですから、子供一人にかける親の期待と投資(私教育費)については察してあまりあります。
子供が幼少時から、家計支出を控えてセーブしたぶんをすべて教育費にあてる、という消費態度がはっきりしています。
このような状況ですから、「受験生漢方」の需要は増加する一方です。
長丁場になる受験準備期間に学生の持久力を維持し、免疫力を高めて疾病にかかりにくくし、頭脳を澄ませ、暗記力と集中力を高めるための薬が「受験生漢方」です。
クラスに一人、漢方を携帯し始めると、それに触発されて競争のように我も我もと漢方を飲み始める雰囲気になるとのことです。
受験生漢方薬の由来は次の通りです。
李氏朝鮮やそのまた以前の時代、学識がある階級の若者が書物の内容を長く記憶しておくために、心血を補充し心神を澄ませるという遠志、石菖蒲、龍眼肉、茯神を主とする薬を煎じて飲み始めたのが始まりです。
李氏朝鮮時代の名医、ホジュン(許浚)が、記した『東医宝鑑』(ユネスコ世界文化遺産指定)にも、「朱子読書丸」「孔子大聖枕中方」などの処方を紹介しながら、「健忘症を鎮めて頭脳聡明にする」というくだりがあります。
8月に一人の高3女子学生
がお母さんといっしょにクリニックを訪ねてきました。
目的は「受験生漢方薬」です。
お母さんからの説明は次の通りです。
「勉強するための体力が試験までもちそうにない。夏ばて気味で体力が落ち、異常なほどに汗をかく。とにかく体力をキープして勉強できる体を取り戻したい。体力の不足分を補う薬を作って欲しい」
しかし私が見たところ、当の学生さんは健全な体格にくわえ脉診・腹診・舌診すべてにおいて「実」症でした。
何かが不足しいるという見方は表面的なもので、実はそのときの女学生の体の状態は正反対の、'充填しすぎた結果のトラブル'が起きていたのです。
試験に対する重圧感とストレスにより、心包(心臓)に火がめいっぱいたまり、胃腸はというと、時間的にも内容的にも不規則な食生活が災いして慢性的な消化不良を起こしていました。
これでは大量の汗をかく、集中力が落ちる、疲労感という症状が起こって当然です。
お母様にご納得いただき、処方したのが當歸、龍眼肉、白朮、白茯笭、木香、白豆久、神曲、麥芽、甘草、という処方です。
"補う"のではなく、通りを良くして気血水を体内に"くまなく巡らせる"ための処方です。
現代人の多くの病は、不足したことによる病ではなく、ありすぎてあふれ出したり、よどんでしまうことによる病です。
ですから昔の物資が不足していた時代に主だった「補薬」はあまり必要ではなくなりました。
便秘や下痢、胃腸障害をもっていたり、ストレスにさらされて神経をすり減らしている方が大部分の現代では、「帰脾湯」などで心包を清らか澄ませると同時に「平胃散」などで胃腸の機能を高める薬が、いちばんの処方なのではないかと思います。
薬を飲んで体が軽くなり、体力もついてきたと喜んでくださったお母さんが、ご自身のブログに後記を残してくださいました、
うれしいことです。
韓国の受験生たちがひとり残らず、幸運の星
に恵まれることを祈っています。
椿漢方はソウルにある韓方クリニックです。
漢方薬と鍼治療で健康と美容のお手伝いをさせていただいています。