まど♀です。
私は元々焼きそばが好きでして、マトに『焼きそばを食べたい!』とリクエストして以来、我が家の定番メニューの1つとなったのですが…
最初は普通に焼きそばを作っていたのですが、マトがオムライスのように焼きそばを卵で包むというアレンジをしてくれたのです。(私は“オム焼きそば”と呼んでいました)
私はとても気に入りまして、喜ぶ私の姿を見てマトはその後も何度か作ってくれるようになり、しかもだんだんと大盛りになっていったのですね。
私はそれほど大食いタイプではないので、好きなものでもお腹いっぱいになりすぎると気持ちが悪くなり、それでも残しては失礼だと無理をして食べ続けていました。(無理をせずにマトに食べてもらえばよかったのですが^^;)
するとある日を境に焼きそばが嫌になってしまったのです。
一時期は『もう食べたくない』と正直に打ち明けて焼きそばを作らなくなりました。
暫く経ってから、ふとマトが久しぶりにオム焼きそばを食べたくなったようで、私も『久しぶりだし良いかも』と承諾し、焼きそばを定番メニューに復活させました。
復活して最初の頃は喜んで食べていたのですが、回を重ねるごとに再び焼きそばが美味しく感じられなくなってしまいました。
卵ではなく千キャベツを乗せたり辛子を付けてみたりと変化をつけるものの、美味しく感じられる時もあれば、そうではない時もありました。
元々好きだったものであり、毎回おいしく作っているのにも関わらず、いつも美味しく食べられるとは限らないのが若干苦しくもありました。
そして一昨日の晩、マトはオム焼きそばを作ったのですが、私はまた変化をつけてみようとオムにはせず目玉焼きを焼きそばの上に乗せて食べる事にしました。
すると目玉焼きに思いの外時間が掛かってしまい、「料理が冷めてしまったら勿体無いから先に食べてていい?」とマトに訊かれ、私も『良いよ』と返事をしました。
ちょっとしたズレなのですが“いただきます”のタイミングがずれてしまったのですね。(いつもは一緒に“いただきます”をしています)
しかし後から食べ始めた私の方が先に食べ終わり、いつもならば至福の余韻に浸ってから二人同時に“ごちそうさまでした”をするのですが、私は先に食器を片付けて洗い物を始めてしまいました。
マトを急かしたつもりはありませんでした。
洗い物をする前に食器の水切りラックを軽く洗浄したくなり、まだマトが食事をしている傍で作業を開始しました。
(家は対面式キッチンでダイニングテーブルと流し台が近い距離にあります)
水切りラックも綺麗になり、食器洗いに取り掛かったタイミングで丁度マトも食事を終え、自分の分の食器をキッチンに運んで来ました。
スムーズに洗い物の作業が進み何の違和感もなかった私に対してマトは、
「マドの様子がおかしい。」
と言ってきました。
え、どういうこと?
と訊いても、
「大した問題ではないし、マドが自分で気付かないならいい。
価値観は自由だし、マドはそういう家庭環境で育ってきたのかもね。」
と教えてくれませんでした。
そんな風に言われたら気になって仕方がないじゃないですか!
「食事は大切である。マドが食事の大切さを理解しているのならばそれで良いよ。」
と言うのでした…。
洗い物を済ませ、もう一度自分の行動を振り返ってみました。
いつもと違う行動といえば…
自分だけ目玉焼きにした事(いつもは二人で全く同じ物を食べています)、その結果微妙にタイミングがずれた事と、先に洗い物をしてしまった事が思い当たりました。
「忙しくしている日本人はさっさと食事を済ませてしまうけど、例えばイタリア人はランチにとても時間を掛けるんだ。
食べ終わった後の余韻も大切にする。
マドは急かしたつもりは無かったとしても、ガチャガチャと音を立てて作業をされてしまうと、やはり食事に集中しづらくなる。急かされた気持ちになってしまうよ。」
うう、すみません(‐_‐;)
マトが指摘したとおり、食べ終わった人は先に食器を下げて洗い物をしてもいい家庭環境で育ったもので…
「僕の家もそうだったよ。でも僕自身はそれをあまり快く思わなかった。
それから、僕の父はうどんばかり食べている人だった。他のメニューがあっても母にいつもうどんを作らせて食べていた。
父以外の家族全員は同じものを食べているのに、父だけは一人だけ違うものを食べ続けたんだ。
その後両親は離婚した。
それから僕の前の奥さんは、僕にだけ先に残り物を食べさせ、自分と子供たちには新しく料理を作って食べていたんだ。その余り物がまた翌日の僕のご飯になったりね。
家族の中で僕だけ食べる物と時間にズレが生じたんだ。
大した事ではないかもしれないが、離婚はそういったズレが蓄積された結果だと感じている。食事だけが原因では無いけどね。」
私はその話を聞いて悲しくなりました。
だって、そんなの寂しすぎます…
「でもマドは似たような行動を取ったんだ。
食事は波動である。
それを理解出来ていれば、ああいった行動は出てこないと僕は思う。
但し、さっきも言った通り価値観は自由だから。」
食事は波動…確かにそうですね。
音だって波動ですからね。
ガチャガチャ音を出していたら、繊細な食事の波動を感じるどころではなくなりますよね…。
それに、ちょっとしたズレでも波動のズレになりますよね。
面白い事に普段は、丁度『食べたいな』と思ったものを口に出さなくても、マトはテレパシーで感じ取るようです。
『パスタが食べたいな』と感じたら、「お昼はパスタを作ろうと思うんだけど、いいかな?」と訊いてきたり(^‐^)
波動が合うと食事に限らず色々な事が一致する(シンクロニシティ)ので、全てがスムーズに展開するのです。
自分の取った行動が恥ずかしくなりました。
「そして、食事は感謝である。
グルメを気取って『〇〇店の料理が不味い。××店も不味い。上手い店が見当たらない。』などと批判ばかりしている者や、質の良い食材しか食べないと拘っている者もいる。『米は〇〇産のブランド米しか食べない』とか『有機栽培の野菜しか食べない』とかね。
僕も上質な料理を提供するお店や食材の味を知っているけれど、それしか食べないという事はない。
安くて手軽なお店や食材を利用しても、大抵のものは美味しく食べる事が出来る。
昔胃の手術をして、暫く食事が出来ない時期があった。
点滴があるから食べなくても体は大丈夫なんだけど、やはり口から食物を取りたいと感じた。
漸く食事が取れるようになって最初に出てきた病院食が重湯と薄味の味噌汁だった。
でもそれが凄く美味しく感じたんだ。
それほど食べ物を口に出来る事が嬉しかったし、舌の感覚が敏感になっていたんだ。
日が経つにつれてメニューが変わった。
重湯がお粥になり、金時豆がおかずに付いてきた。
それがまた美味しくてね。
この体験があるから、僕にとって金時豆は未だにご馳走なんだ。
食事が出来る事をありがたいと感じるよ。」
私は目が覚めた感覚でした。
食事は感謝。
マトの様に病気で食事が出来ない体験をした人がいる。
世界に目を向ければ飢餓で苦しんでいる人々だっているし、日本だって戦時中は食べ物が無かったのですよね。
美味しいものを作りたい、食べたいと味の探究をしたり、健康面を気にしてオーガニックに拘るのも良いと思います。
但し、根本的に感謝を忘れて贅沢思考に陥ってしまうと自分の波動が下がり、エゴが育ってしまうので注意が必要ですね。
昨日の朝食、私はトーストを食べる事に集中しました。
目を閉じ、じっくりと味わいました。
すると、黄金色の麦畑が見えたのです。
太陽の光を浴び、天へ向かって伸びていく麦。
太陽と土と水。
麦の生命の息吹を感じました。
気が付くと私は泣いていました。
感動して涙が止まらなくなりました。
隣で一緒にトーストを食べていたマトが驚いて、
「どうしたの?」
と訊いてきたので、今感じた事をありのまま伝えると、
「感動が来たんだ、やったね!
マドは“命”を感じたんだ。それはとても大切だよ。」
と背中をさすってくれました。
いつもと全く同じトーストを食べていたのに、
食材への愛・感謝を思い出す事がこんなにも大切だったのだと気付いたのです。
この体験は以前ブログで綴った4月8日の感覚に近いものでした。
当時、何を見ても感謝が湧き、感動して涙が止まらなくなったのです。
世界は沢山の存在達で満ち溢れているのだと感じ、自分は一人ではないと気付き、自分も含めて【存在してくれることにありがとう】と心から想ったのでした。
「以前、『マドは自分の感性に蓋をしてしまっている』と指摘したよね。
4月8日にマドが感動した理由は、“命”を感じたからだ。
その感覚を大事にするんだ。
今後はあらゆる物事に対してそういう視点で見て、感じるんだ。それが感性だ。
誰かのアートを鑑賞する、或いは自分で描く場合も。
食事をするにしてもそうだし、それ以外の事に関してもね。」
全てに通じるのですね。
全てが繋がると、到達する答え、真実はとってもシンプル。
全ては波動であり、
命・意識を感じとり、
感謝・愛が大切である。