中沢啓治さんは1961年に東京に出て漫画家の道を歩み始めた。でも最初から原爆の漫画を描いていたわけではない。というより、中沢さんによれば原爆から逃げてばかりいたという。それは、東京では被爆者だとわかると「放射能がうつる」と差別されるので被爆者であることを隠していたから。それだけではない。被爆者にがんが多いというので、自分もいつ発症するかと恐ろしかったのだ。
でも、1966年に母親のキミヨさんが60歳で亡くなった。早すぎる死だが、ショックだったのはそれだけではなかった。火葬場でのことだった。
母の死体が焼かれて出てきました。何と頭蓋骨も骨も全然ない。おきの中に白い粉が点々としているだけです。放射能というのは母の骨の髄まで食い尽くしたうえ、骨まで残さないのかと、私はものすごく腹が立ったのです。(中沢啓治『はだしのゲンはピカドンを忘れない』岩波ブックレット1982)
焼かれた骨が粉になっていたのは放射能が直接の原因かどうかはともかく、原爆への怒りから、この時中沢さんは生涯漫画で原爆と戦争を告発していく決意を固めた。原爆を題材にした漫画をいくつか発表したのち、『少年ジャンプ』で「はだしのゲン」の連載を始めたのは1973年6月だった。
当然のように、中沢啓治さんは原爆の悲惨さと、戦争を引き起こしたもの、原爆を落としたものへの怒りをこれでもかと描いた。嘔吐、脱毛、発熱、下痢、吐血など放射線による具体的な症状だけでなく、それが原爆に遭った者をどれくらい恐れさせたかも忘れなかった。
「ピカがおとされて四年がたつのに ピカの放射能でバタバタ死んでいくのう」
「お母ちゃんも病気になるし わしゃピカで死ぬるのを見るんはもうごめんじゃ! まっぴらじゃ クソッタレ!」
「元 わしらもいまに原爆症になって死ぬるんじゃないかのう みんな原爆をまともにうけたんじゃけえ わしゃ心配でおそろしいよ」(中沢啓治『はだしのゲン 第6巻』汐文社1980)
アメリカの占領が終わり、新聞に白血病増加の文字が踊るようになるとゲンたちの不安は一層強くなっていった。
「ピカが落ちて八年がたつのに どこまであのピカはわしらを苦しめるんじゃ よくもあんなにひどい原子爆弾をアメ公は平気で落としやがったと思うと腹が立って……」
「いつわしの体にもピカの放射能の毒が出てくるかもしれんと思うと……わしゃ 不安になってやりきれんよ」(中沢啓治『はだしのゲン 第10巻』汐文社1987)
しかし、『はだしのゲン』を読みなおしてみて気づいたことがある。中沢さんにとってこれほど憎い原爆の放射能なのだが、放射能を浴びた瞬間を絵に描くことができなかったのだ。「ピカーッ」の閃光、「ゴワーッ」の爆風は表現されるが、『はだしのゲン』に放射線が姿を現すことはない。7巻に「いつまでも人間の体を苦しめる放射能と言う悪魔の病原体」という説明があるくらいだ。もちろん、原子核や電子、中性子、電磁波の放射線が肉眼で見えるはずもないから、私も今まで気にすることはなかった。けれど、絵や映像での表現は果たして不可能なのだろうか。