広島一中追憶之碑
1968年7月22日、県立広島国泰寺高校にある広島一中「追憶之碑」の前で一中遺族会の23回目の慰霊祭が行われた。生き残った生徒の一人原邦彦さんが追悼の言葉を読み上げたと当時の新聞に載っている。
「あなたがたとは欠乏と空腹のなかでがんばった。弁当をわかち合った姿が思い出される。わたしたちは平和の灯をともしつづけようと思います」(「読売新聞」1968.7.22)
原爆で亡くなった友をしのび、生き残った者の務めとして平和を訴え続けると誓うことは、中島清秀さんが亡くなったのを機に開かれた追悼クラス会で話し合われたことだった。そして寄田享さんや原邦彦さん、上田亮典(りょうすけ)さんらが中心となって、自分たちの手で被爆の記録をつくることも決めた。
「あの日になくなった級友が、どんな悲惨な行動をとったのか、全く記録に残っていないのはどうしたことか。われわれの手でできるものなら調査しよう」と話し合った。旧友の墓前で、生き残ったものが死者の分まで、それぞれの仕事を通じて平和のために働くことを誓うとともに、遺族を招いて生き残りの元気な姿を見てもらいながら、遺族からあの日の行動を聞いて記録しておこうという趣旨。(「中国新聞」1967.8.6)
寄田享さんは一中1年生の十一学級だったので先に建物疎開作業に出るはずだったが、腹具合が悪くなって教室で休むことになった。実は中島清秀さんも同じ十一学級で、中島さんもその時一緒に教室で自習していたのだ。
やがてB-29爆撃機の爆音が聞こえてきた。隣の十二学級からは何人かの生徒がB-29を見ようと中庭に出ているようだった。寄田さんもB-29が見たくなって廊下に出ようとしたその途端に目の前がパッと光った。何が何だかわからなくなって、気がつくと机と机の間に挟まっていた。あたりは真っ暗。中島さんの声がかすかに聞こえてきた。寄田さんは火傷の痛みに耐えながら、うっすらと明るい方へ体をよじらせ、なんとか潰れた校舎の下から抜け出すことができた。そのうちにあちらこちらから炎が見え始め、脱出した生徒はプールのある東校庭に集まった。
そこには作業に出ていて屋外で被爆した大勢の生徒や女学生が、泣きわめき、叫び声をあげながら当てもなく歩いていた。
誰もが一様に、身につけていた着物がちぎれ、顔は薄黒く腫れ、目がつぶれ、両手の先には破れた皮膚が垂れ下っていた。そして男子の頭は、かぶっていた帽子のかげの部分を残し、髪の毛が剃り落とされた様に見えた。女子の髪は灰色に汚れ、乱れ、一部は前に垂れ下がっていた。とてもこの世のものとは思えない情景だった。顔や姿を見ただけでは、誰が誰だかはっきりせず、親友でさえも声を聞いてはじめて判る程だった。(寄田享ホームページ「核のない平和な21世紀を!被爆体験を通じて」)
その時寄田さんにできることは何もなく、火に追われて一人逃げた。生き残った人は誰もが自分だけ生き残ったことに負い目を感じ、寄田さんたちは今の自分にできることは何かを一生懸命考え続けた。
