江口保さんが編み出したヒロシマ修学旅行は、生徒がグループに分かれて平和公園やその近くの慰霊碑をお参りし、その場で、子どもを原爆で亡くしたお母さんや被爆した本人から話を聞くというものだ。修学旅行の計画には資料館の見学も入っているが、現場で生の話をじかに聞くことがとても大切だった。子を失った親の話が涙で声にならなくても、その涙がまた生徒の心を捉えた。
高橋昭博さんは上平井中学校のヒロシマ修学旅行に感動し、広島で受け入れるだけでなく東京まで出向いて交流を重ねた。
高橋さんは1979年に広島平和記念資料館の館長となると、一度は逃げ出した資料館の中で今度は自分の被爆体験を語りはじめた。当時の資料館はまだ東館がないから多くの人が話を聞くことのできるホールもない。おそらく館内をまわり展示品の説明をしながら、あの日の出来事を語られたのではなかろうか。NHK広島は1982年8月6日に「きみはヒロシマを見たか」を放送した。私はその番組をテレビで見た記憶はないのだが番組内容をまとめた本は持っている。著者の一人である高橋さんは、自分の被爆体験を語るとともに、資料館に展示してある遺品の数々を直視する必要性を訴えた。「これらの遺品は決して過去の単なる資料ではなく、生きている、私たちを未来へつなぐ、重みのある資料なのである」と。(高橋昭博他『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』日本放送出版協会1982)
『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』を開けば最初に目に入るのは、大杉美代子さんの残した片方だけの下駄の写真。大杉さんは広島市立第一高等女学校の1年生で13歳になったばかりだった。母親の富子さんは原爆で家が潰れたので野宿しながら美代子さんを探して歩いた。材木町の焼け崩れた土塀の下から下駄を見つけたのは、もうコスモスが咲いている季節だった。下駄は富子さんがすげてやった絣の鼻緒が残っていたから、美代子さんの履いていたものに間違いなかった。下駄には原爆の熱線で焼きついた足指の「影」が残されており、それだけが美代子さんの生きた証だった。
母親の富子さんも1971年にこの世を去っている。全然勉強する時間がなくて白紙だった美代子さんのノートに、富子さんが走り書きしているのが後日見つかった。
「美代ちゃん、とうとうお母さんは、美代ちゃんが、お母さん、お母さんと手を振ってとんできて、しっかとこの手で抱きました。目がさめると、涙で枕がぬれていました。せめて、夢でも、お母さんのところへ帰ってくれてほんとうに安心しました。美代ちゃんは、これでいつもお母さんと二人でいますね。もうどこにもやりません。」(『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』)
高橋昭博さんは、残された親、家族が託した遺品を 「もの言わぬ語り部」と呼んだ。私たちをあの日に導き、そして未来に繋いでくれる「語り部」なのだと。だとすれば、私たちはどうやって「もの言わぬ語り部」の声に耳を傾ければよいかが問われてこよう。