1990年4月、広島平和記念資料館は展示内容の大がかりな変更に取り組み始めたが、それにともない、ロウ人形もより「真実」に近い形に作り変えてほしいという声が被爆者の間から出てきた。
爆心地から2.3kmの地点で被爆し、被爆体験の証言活動をしている女性はこう話す。
「人形の顔がきれいすぎる。顔や手の皮膚がめくれて垂れ下がり、汁のようなものが滴り落ちた。あの独特のにおいやうめき声を再現することができないのなら、せめて姿だけでも真実に近づけてほしい」(「朝日新聞 広島版」1990.3.15)
また修学旅行生を相手に「語り部」の活動をしている男性もこう語っている。
「私たちがいくら被爆の実態を話しても、あそこに連れて来ると“ひどいことないじゃないか”となってしまう。爆心から何キロの地点で被爆した姿かも分からない。中途半端な形でなく、真実を伝えるべきだ」(「朝日新聞 広島版」1990.3.15)
初代の「被爆再現」人形であるロウ人形については、資料館リニューアル前に書いた「『原爆資料館の人形展示を考える』を読んで」や、リニューアル後に書いた「広島平和記念資料館~人形の都市伝説」の中で触れている。その後、2021年に資料館の特別展示でロウ人形のカラー写真を見ることができたが、それで私の受けとめが大きく変わることはなかった。
新聞記事の中で、原爆の熱線を浴びた人の顔の皮膚はめくれて垂れ下がったのに、ロウ人形の顔は「きれいすぎる」とある。ただ写真をよく見れば、人形の顔も皮膚が垂れ下がっているように作ってある。しかし、垂れ下がっているだけだとも言えよう。また人形には被爆者から寄贈された服を着せたようだが、それは大きく裂けて火傷の肌が見えていても、服そのものに焼け焦げた跡がない。人形には辻褄の合わないところがあるのだ。体験記と比べればよくわかる。
このロウ人形は「被爆から一時間後、爆心地から一・五キロメートル離れた観音町付近」を想定してつくられたという(志賀賢治『広島平和記念資料館は問いかける』岩波新書2020)。
被爆から1時間後の姿となると、被爆したのは爆心地により近い場所になるはずだが、でも、被爆したのが爆心地から1.5km離れた場所であっても、とんでもなく悲惨だった。当時広島女子商1年生で、爆心地から東に1.5kmばかり離れた鶴見町で建物疎開作業中に被爆した松原美代子さんはこう証言している。
立ち上がってびっくりしました。両手はグローブのようにやけどで2、3倍も膨れていました。当時染料がなかったので、野菜などで1日がかりで染めた紺色の上着は、胸の当たりが残っているだけ、あとは熱線で焼けてぼろ布のようになっていました。
作業用のもんぺもゴムひもと腰の辺りしか残っていませんでした。私の体にまつわりついているのは、土ぼこりで汚れた白色の下着だけでした。 (松原美代子「核廃絶にささげる人生-原爆は過去のものではない」ヒロシマの心を伝える会ホームページ)
空襲の際、白い制服が目立つというのでわざわざ染め替えたのに、それがかえって仇になり、制服ももんぺもほとんど焼けてなくなってしまったのだ。