栗原貞子さんは1967年に詩集『私は広島を証言する』を出版した。詩の中に平和記念資料館が出てくる。ひとつは「対話」という詩だ。
ここ平和公園の
アーケードの上にのっかった
鳥かごのような原爆資料館。
資料館と慰霊碑に挟まれた
広場には緑の芝生が敷かれ
ここで旗がひるがえり
プラカードが林立し
うたごえがどよもし
上気した大群衆の上で
鳩が飛ぶ。
けれど
ここ資料館は死の国。
私は突然八月六日の
広島へつれもどされる
(栗原貞子 詩「対話」部分『私は広島を証言する』詩集刊行の会1967)
資料館から見えた光景は、1959年8月5日に原爆慰霊碑前の芝生広場(今は自由に入れない)で行われた第5回原水爆禁止世界大会の総会ではなかろうか。会場には海外24か国の代表を含む2万人の参加者で熱気にあふれていたというが、それはこの大会が「アラシの中の大会」と呼ばれたように、原水爆禁止運動を取り巻く内外の厳しい情勢を反映したからでもあった。
この時広場では基調報告の中で栗原さんの詩「私は広島を証言する」が紹介されている。けれど栗原さんの目は広場ではなく資料館の中をじっと見つめている。原水禁運動のこの時からの困難な歩みの中で、栗原さんはいつもあの日に立ち帰ったのではなかろうか。1960年7月9日の日付のある「原爆資料館」という詩にはこう書かれている。
これは未開人類の
博物館ではない。
ガラスのケースの中に立っている
等身大の人形の焼けちぎれた
上着の胸に乳房が黒く焦げている。
あれはかって私だった人形、
防空頭巾をかむらされ、
火たたきの箒をもって
おろおろしていた日本の女、私たち。
(栗原貞子「原爆資料館」部分『私は広島を証言する』詩集刊行の会1967)
栗原貞子さん自身は戦争中、決して「おろおろ」してはいなかったろう。戦争中の、ちょっとでも反戦を口にすればすぐに弾圧されるような状況にじっと耐えて、来る日のために密かに闘いの言葉を書き連ねていた。
8月6日、突然閃光が走った。当時栗原さんが暮らしていたのは広島市郊外の祇園町長束。爆心地からは4kmほど離れていたが、爆風で戸板や障子が吹き飛び、近くの家では藁屋根が燃え出した。そして「黒い雨」が降ってきた。
それだけではない、多くの村人が建物疎開作業に出て命を落とし、栗原さんは、隣家の人が娘さんの遺体を己斐国民学校に引き取りにいくのを手伝っている。村では市内から大したケガもなく帰ってきた人も一週間、二週間のうちに次々と血を吐いて死んでいき、村全体が底知れぬ恐怖に怯えた。栗原さんはその目に地獄の様相を焼きつけた。
資料館の中はあの時見た死の世界のまま。そこに佇めば否応なくあの日に立ち帰る。あの焼けちぎれた服を着ていたのは私だったかも知れないのだと。栗原さんは、ヒロシマでたまたま生き残った者のひとりとして、そして、かつて「おろおろしていた日本の女」のひとりとして、死者の声に耳を傾け、「過ちは繰返しませぬから」と誓い、今また破滅に向かいつつある世界の動きに死ぬまで抗い続けていった。