峠三吉さんも「平和のための原子力」の夢を見た一人だった。1951年9月20日発行(私家版)の『原爆詩集』には「朝」という詩が収められている。
ゆめみる、
閃光の擦痕に汗をためてツルハシの手をやすめる労働者はゆめみる
皮膚のずりおちた腋臭をふと揮発させてミシンの上にうつぶせる妻はゆめみる
蟹の脚のようなひきつりを両腕にかくして切符を切る娘もゆめみる
ガラスの破片を頚に埋めたままの燐寸売りの子もゆめみる、
瀝青ウラン、カルノ鉱からぬき出された白光の原素が
無限に裂けてゆくちからのなかで
飢えた沙漠がなみうつ沃野にかえられ
くだかれた山裾を輝く運河が通い
人工の太陽のもと 極北の不毛の地にも
きららかな黄金の都市がつくられるのをゆめみる、
働くものの憩いの葉かげに祝祭の旗がゆれ
ひろしまの伝説がやさしい唇に語られるのをゆめみる、
(峠三吉「朝」部分『原爆詩集』青木文庫1952)
峠三吉さんはどこから「飢えた沙漠がなみうつ沃野にかえられ/くだかれた山裾を輝く運河が通い」というイメージを得たのだろうかと不思議に思っていたのだが、最近になって山﨑正勝さんの『日本の核開発 1939〜1955 原爆から原子力へ』の中で、1949年11月にソ連代表が国連で次のように演説したことを知った。そうしたニュースが峠三吉さんのもとにも届いていたのではなかろうか。
われわれは原子力を、平和的建設の重要課題実現に役立てることにしており、われわれは、山を砕き、河川の流れを変え、広野を灌漑し、人間がめったに足を踏み入れたことのない場所でさらに新しい生活の路線を切り開くために原子力を役立てる。(山﨑正勝『日本の核開発 1939〜1955 原爆から原子力へ』績文堂出版2011)
峠三吉さんの『原爆詩集』は、朝鮮戦争でアメリカが原爆が使うかもしれないという危機感の中で生まれた。
1950年11月30日の記者会見でトルーマン大統領は「原子爆弾は我々の武器の一つだ」と述べ、通信社は大統領が「朝鮮戦争に関連して原子爆弾を考慮に含めている」と打電して世界に衝撃を与えた。(西川秀和「トルーマン政権後期における冷戦レトリック—朝鮮戦争を事例として—」早稲田大学大学院社会科学研究科『社学研論集』2005.3)
このようなアメリカ政府の核兵器による脅しを聞くにつけ、ソ連の「平和のための原子力」は、峠三吉さんたちにとって漠然とした夢物語ではなく、自分たちが全力をあげて実現すべき未来像だったに違いない。体の弱かった峠三吉さんは原爆直後の広島で人ひとり救うのも思うようにできなかった。だからこそ願った。1945年10月22日の日記にこう書いている。
あゝその死の後から思ひ出して我ながら全力をつくしてよくしてやったと肯定出来、青空を仰いで翳なき思いに浸り得る程のことを行ってみたい。
(『峠三吉被爆日記』広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
しかし、峠三吉さんは知らなかった。知らされていなかった。「平和のための原子力」は最初から人の体を傷つけ命を奪っていたことを。そしてそれが長い間秘密とされていたことを。