広島平和記念資料館の軌跡41 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

広島復興大博覧会

 私の幼い頃のアルバムに、「ここはどこ?」と、ずっと不思議に思っていた写真があった。最近になってそれが1958年に開催された「広島復興大博覧会」のパビリオンの一つ「お菓子の国」だったことがわかり、そうなると、もう一枚はと思って、私と母の後ろに噴水が写っている写真をパソコンでいじってみたら、噴水の後ろに当時の広島市公会堂がはっきり見えてきた。噴水の右側は広島平和記念資料館になる。私や母が着ている服から、おそらく4月の頃だろう、私は2歳8か月で資料館デビューしたことになる。(まったく憶えていないが)

 けれど資料館の中は、今とも、また開館した頃とも違っていた。広島平和記念資料館は、開館してしばらくすると、政治の荒波に翻弄されることになったのだ。

 1958年の「広島復興大博覧会」で資料館は「原子力科学館」に衣替えした。そのころの新聞の見出しには「どっと二万人 原子力科学館には行列」「雨でも一万三千人 原子力船模型が登場」「原子力科学館 打出のこづちにも平和利用への目を開く」と、その人気ぶりが窺われ、特に放射性物質用のマジックハンドの実演が人気だったという。(『被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年』広島市1996)

 6歳で被爆し、のちに平和記念資料館の館長になった原田浩さんも高校生の時に「原子力科学館」を見に行っている。

 

 放射性物質を遠隔で操作する「マジック・ハンド」の前で、足を止めた。「すごいものができたんだなあ」。核の連鎖反応を説明する高さ8メートル、長さ12メートルの模型には、電球1500個以上がつけられ、ぴかぴか光っていた。夢物語のようだった。

 「(原爆投下後の)廃虚の中でできることは何かと皆考えていた。生きる糧を求めるのに精いっぱいで、原子力に展望を抱いてしまったのかもしれない」(「朝日新聞」2024.3.1)

 

 ところで広島の人たちがマジックハンドに目を見張り原子力に夢を抱いたのはこれが最初ではなかった。資料館が開館して一年後の1956年5月27日から6月17日までの22日間、資料館と平和記念館を会場に「広島原子力平和利用博覧会」が開かれている。この間、資料館で展示されていた被爆資料は全て市中央公民館に移された。

 

 博覧会は米国の旗振りでアジアのほか、欧州や南米で開かれた。日本では東京の米国大使館と読売新聞社が主催した1955年11、12月の東京会場が最初。1957年8月までに全国11都市を巡回し、計260万人を集める。

 当時の中国新聞記事によると、広島会場の展示品は実験用原子炉の実物大の模型、電飾を用いた核分裂反応の模式図、核物理学者の紹介パネルなど。約11万人が訪れた。

 特に人気だったのは機械式アームの「マジックハンド」。アームの先端で筆をつかみ「平和」「原子力」と書いた入館者もいた。装置が本来扱うのは、危険な放射性物質だったが。(「中国新聞」2011.7.19)

 

 アメリカは特に広島の反響に関心を持ち、特別に広島会場のレポートを作成させた。それには、「予想以上の成功」「地元の指導者たちに支持された」と記載されていたという。