元安橋東詰にある「広島郵便局職員殉職の碑」
島病院の建物は2階建てのレンガ造り。もとは広島郵便局電話分室の建物で、1933年に島薫さんが改装して外科病院として開業した(「中国新聞」2021.8.5)。レンガ壁の厚さは1mもあったといい、島院長は、「爆弾投下に当たっては庭に落ちても心配ない、毛布をかぶって窓から離れたところにいなさい」と言って患者を安心させたという(被爆建造物調査研究会『ヒロシマの被爆建造物は語る』広島平和記念資料館1996)。爆弾が至近距離で爆発しても建物はびくともしない、ただ窓ガラスは割れるから飛んでくるガラス片には気をつけるようにということだろう。しかし、原爆の破壊力の前にはひとたまりもなかった。玄関の門柱と丸窓がわずかに面影を残すだけ。
同じレンガ造りの島病院が姿を消したのに、どうして産業奨励館は建物の形が残ったのか。ブログ「原爆ドームが語らせる」に書いたが、木の枠組みにレンガを貼り付けたような産業奨励館の構造が関係しているのではなかろうか。強烈な爆風に木材で支える天井や床がまるでスポンと抜けたようになったのではないかと想像している。それに対して島病院の分厚いレンガの天井は真上からの爆風の圧力をまともに受けとめ、耐えきれずに崩れてしまったのではなかろうか。小倉豊文さんの証言では、コンクリート造りの清病院も「こっぱみじん」だったというのだから、爆心地一帯での原爆の威力はとてつもないものだったと言えよう。
島病院の筋向かいにあった広島郵便局は木造で一部レンガ造りの建物だったから、これもひとたまりもなかった。広島郵便局についてはブログ「爆心地ヒロシマ 『爆心地』の境界」で細々と書いたが、ここでは次の証言に注目したい。
「爆心地に入ることができたのは8日でした。局舎跡のがれきの真ん中が沈んでおり、爆風で地下室部分まで押しつぶされていました。これでは、人間はひとたまりもないと思いました」(中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」2000.2.24)
郵便局員だった夫の隆さんを失った柏信好さんの証言だ。次はやはり夫を探してまわった川本ユリノさんの証言。
「地下室に大量の、ひと塊になった骨があったそうです。どれがだれの骨か分からず、男性職員から『これでこらえてつかあさい』と渡された封筒には、3センチくらいの骨が3つ入っていました。開けると気が狂いそうになりました」(「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」)
広島郵便局の建物は地上3階、地下1階だったが、爆風が一気に屋根も床も圧し潰して、人はみんな地下室に押し固められ、そのまま焼かれてしまったのではなかろうか。
産業奨励館の隣、相生橋東詰の南側にはかつて日本赤十字社広島支部の建物があった。鉄筋コンクリート造りで原爆にも建物の形はそのまま残ったが、1945年11月にアメリカ軍が撮影した写真を見ると、鉄筋コンクリートの陸屋根が凹んでそこに雨水がたまっている(広島平和記念資料館ホームページ平和データベース)。これも爆風が真上から襲ってきた確かな証拠だ。