釣鐘供出
このブログは59回で了とするつもりだったが、コメントをいただいたので「戦争協力」について少し書いてみたい。正田篠枝さんが「さんげ」の中で自身の戦争協力について詠んだのは次の歌だ。
ふはふはの莢をひらけば豌豆のみどり生き生きとまるきがならぶ
哀れかも豆がさかさにつきたれば戦ひ勝つと流言たてしが
今は哀れ原子爆弾受けし前日なり勝つとふ流言にわれら依りしが
(正田篠枝『さんげ』私家版1947)
エンドウの豆が逆さにつくというのがイメージできないのだが、何にしても他愛ない世間話だ。でも、この程度のことでも積み重なれば、戦争を続ける大きな力となる。
私の属する真宗教団は戦争中、様々な戦争協力・戦争賛美をしたが、その中に「本派本願寺安芸号」と命名された戦闘機の献納がある。献納命名式があったのは1943年5月9日。広島県西半分にあたる浄土真宗本願寺派安芸教区の全寺院、全僧侶が音頭をとって真宗門徒から多額の献金を募ったのだ。
金属の供出も推進している。金属といってもいろいろだが、釣鐘の供出は寺にとって大きな痛手だったろう。私が住職を務めている寺にその時の写真が残っている。年月日が記してないが、おそらく1942年の秋から冬にかけてのことだろう。写真では、先々代の住職が最後の鐘つきをしている。その鐘には「応召」のタスキ。寺にとって大切な仏具だからこそ、率先して供出すれば、一般家庭でも金属供出など戦争協力に嫌とは言えない。そしてそんな風潮の中で育った若者が勇んで戦地に向かい、大切な命を落としてしまった。
戦後、被爆教師の先頭に立って平和教育に取り組まれた石田明さんも、戦争中は軍国少年だった。中学3年で志願して軍隊に入った時のことを回顧しておられる。
「万歳! 万歳!」
日の丸の小旗をうち振り、軍歌を歌って部落の人たちが、狩留家駅のホームでわたしをさかんに見送ってくれました。列車のデッキに立つと、その万歳の声と人垣をかきわけるように母がかけよってわたしの手を取り、かくれるような小さい涙声で「明、明、きっと生きて帰ってくるんで」と、うるんだ目でわたしをにらむようにいいました。(石田明『被爆教師』一ッ橋書房1976)
お母さんの涙声は万歳の声にかき消されて、石田さんの心の奥底には届かなかった。石田さんはそのことを後で悔やむのだった。でも、その時万歳の声を上げた人は、戦後になってそのことを悔いただろうか。
7月5日に本願寺広島別院で安芸教区の「全戦没者追悼法要並びに原爆忌80周年法要」が執り行われた。すべての国のすべての戦争で命を落とされた方の「全戦没者追悼法要」は毎年行っている。毎年、「戦争に協力し、戦争を賛美したことも、私たち教団の歴史です」と反省の言葉を述べている。
ちょっとしたことでも流れに身を任せてしまったら、それが大きなうねりとなって引き返すことができず、そのうねりに飲み込まれてしまった過去がある。その過ちを繰り返さないためには、80年たとうが100年たとうが、常に省みるしかない。そして、ちょっとしたことでも声を出して、動いていくしかない。