正田篠枝の1945年28 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

  1945年8月6日、この日登校した広島一中1年生は307人。そのうち半数が学校そばの建物疎開作業現場に出かけ、残りの半数は交代時間まで教室に待機し、そして原爆に遭った。倒壊した校舎の下から脱出したのは80人ぐらいと見られているが、正木義虎君のようにたとえ無傷であっても、その後の放射線障害によって次々と倒れ、一中に復学することができたのはわずか18人だった(もう1名別の中学に再入学)。(鯉城同窓会報『鯉城 第70号』2017)

 建物疎開作業に出た生徒は全滅した。当日広島一中1年で先に作業に出たのは奇数学級(11、13、15)だった。11学級(今なら1年1組)の南口修君は午後2時ごろ、全身焼けただれた姿で家まで戻り、「安心してください、修が帰りました」と言った。親はすぐ医者に連れていこうとしたのだが、行く途中で修君は息を引きとる。それでも修君は親に会うことができた数少ない生徒の一人だった。

 山本真澄君の自宅は比治山の東側の段原にあった。家にたどり着いたのは午前11時ごろ。家では父親の康夫さん、母親の紀代子さんが帰りを待ちわびていた。

 

 僕は夢中で外へ飛び出した。まさしくそれは長男の真澄に違いない。しかし、なんという酷い姿であろう。全身の皮膚はむけてしまって、赤い裸体が、そこに立っているではないか。毛髪はすっかり焼け、顔はぶくぶくに火傷して、どう見てもわが子の面影はない。直感というものがなかったら、恐らくわが子であることを否定したであろう。近所の小母さんが、どこのお方ですかと聞くのももっともである。

 「真澄、真澄かね、ひどい目に遭ったね、だが、よくもお前は帰ってきてくれたね」子供は万感胸に迫るという風に、「ハイ」といった。(山本康夫「浄土に羊羹はあるの?」秋田正之編『星は見ている』平和文庫2010)

 

 両親は急いで真澄君を1kmばかり離れた臨時救護所に運んだ。それは比治山に掘られた軍の地下壕だった。

 

 壕内では一人の軍医が死にかけた人達に

 油を塗ってやっている

 「この子を、この子をどうかして下さい」

 ようやく訪ね当てた救護所である

 この子を生かして下さい——

 「これもひどいなあ……」

 軍医は赤くはれ上がった子供の背中や足に

 鍋の中の油を布にひたして塗った

 柘榴のように裂けたまま

 血液の最後の一滴まで

 出尽くしている子供の大きな傷口を指すと

 それ位は放っておけば治るよ、見ろ

 俺は薬も包帯も持っていないといった

 なるほど

 その軍医も全身やけどの裸体である

 (山本康夫 詩「皮膚のない裸群」部分『歌謡と随想』真樹社1965)

 

 家に戻ってから真澄君は言った。「お父さんやお母さんに会いたかったから、夢中で地獄の中から抜け出して来ました」と。

 息を引き取ったのはその日の真夜中のこと。真澄君は死ぬ間際に「ほんとうに浄土はあるの?」と聞いてきた。紀代子さんがお浄土はこんなところですよと話すと、また聞いてきた。「そこには羊羹もある?」。心残りがあったのだろう。紀代子さんが涙ながらに「羊羹でもなんでも」と答えると、真澄君は念仏を唱え、やがて苦しみのない世界へと旅立っていった。