正田篠枝の1945年26 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 崇徳中学4年生の時に原爆に遭った私の父は中学校での勉強について手記にこう記している。

 

 私は昭和17年4月に入学した。2年生になると、太平洋戦争も2年目を迎えてますます厳しくなり、(中略)

 やがて1週間に1日か2日、学徒動員の名目で、市内各地に散在している、兵器廠 被服廠 糧秣廠 金輪島の船舶工場などの軍需施設へ働きに行かされるようになった。そのうえ比治山に在る、日清戦争当時の陸軍墓地の改修ということで、墓掘りまでさせられたのである。

 昭和19年、3年生の新学期が始まって間もなく、今度は通年動員である。3年生200人全員が南観音町の三菱造船機械工場へ行くことになった。年間を通じての動員令で、学校へ行く日は1日もなく、従って教科書を開く授業は1時間も与えられず、名前ばかりの学校生徒になってしまった。(精舎法雄「火焔―私の原爆体験記―」1990)

 

 私の父だけでなく、その頃は誰もが「名前ばかりの学校生徒」だった。満足に勉強もできないまま、多くの生徒が原爆で命を落としていった。

 

 たらちねの母は声を上げ泣き入りぬ首席の吾子をもどしてくれと

 可憐なる学徒よいとし瀕死のきはに名前を呼べばハイッと答へて

 雄々しくも焼身ながらも我が家に帰り大丈夫と親よろこばし息ひきとりぬ

 焼けただれて瀕死の学徒が祖国日本のあとをたのむと息をひきとる

 (正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 正田さんのこれらの歌は、何人の親から聞いた話なのか、どこの学校の生徒の話なのかわからないのだが、読み直してみて、生徒の意識の高いのに気がついた。息を引き取る前に「祖国日本のあとをたのむ」と言っているのだ。本当なのか。実際どうだったのか。手持ちの資料があるので、県立広島第一中学(広島一中)の場合を見てみよう。

 広島一中に入学するとまず、怖い「部員」(風紀委員)が待ち構えていた。

 

 「貴様等は何の目的でこの一中に入ったのだ」と一人ずつに尋問される。入学試験の解答よろしく異口同音に「しっかり勉強して立派な人間になるためであります」と答える。いきなり部員の一人が連続ビンタをくれる。何のためになぐられたのかさっぱり分からない。「大馬鹿者! 勉強するだけなら中学校は幾らもあるぞ。どこへでも転校してしまえ。一中スピリットを養成し憂国の士をつくるのが一中だ!」とどなられる。(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会『広島一中国泰寺高百年史』1977)

 

 当時広島市にあった光道国民学校から1944年に広島一中に入学した岩崎正衛さんは、「めでたく広島一中に入学したのはよかったのだが、『なんと恐ろしい学校だろうか』との思いで一杯で、光道学校のやさしい諸先生がたのことがしきりとなつかしく思い出された」と同窓会報に書いておられる(『広島光道学校同窓会報 第7号』2003)。1943年に広島一中に入学した濵田平太郎さんによれば、教師の中にも「狂気としか考えられないような殴り方をする教師」がいたというのだから確かに恐ろしい。(濵田平太郎『泉 第二集 原爆と私』私家版2012)