ピカッと光って、気がつけば部屋の中は足の踏み場もなかった。呆然とする中、「お母さん」と叫び声が静寂を切り裂く。止まっていた時間が動き始め「修羅」の世界が眼前に現れた。
蒼白の娘の子の顔が目に入りぬ母さんと大き叫び声耳につき来る
木端(こっぱ)みぢん足踏むところなきなかに血まみれの顔父の顔なり
救急箱のあり処思ひて歩まんとすれどおのれの足立たざりき
奥さん奥さんと頼り来れる全身火傷や柘榴の如く肉裂けしものども
あちこちに火の手上がると耳には聞けど薬ぬる手は止めもあへず
手当の薬つきて初めて気がつきたり吾が肩の傷より吹き出づる血潮
(正田篠枝「唉! 原子爆弾」『さんげ 復刻版』)
正田篠枝さんの父逸造さんは宇品で鉄工所や小型船舶エンジンの修理・製造工場などを手広く経営していた。戦争末期になって都市が次々と焼夷弾攻撃に遭うと、広島の金持ちは郊外に別宅を求め、夜はそこで寝て朝早く市内に戻るものが多かったようだ。8月6日の朝も逸造さんは宮島口の別宅から朝一番の電車に乗り、家について裏口から座敷に上がったところでピカッと光った。その直後の爆風に吹き飛ばされたか、またはガラス片が突き刺さったか、父の血まみれの顔に正田篠枝さんは腰が抜けてしまったようだった。
正田さんの家にならんで逸造さんの経営する工場があった。通勤途中であれば全身火傷は免れない。皮膚が裂けて赤身が出るようなケガもするだろう。正田さんは『耳鳴り』の中にこう記している。
事務員は、出勤の途中で、こんな目にあいましたと、ぼろをぶらさげたような、ヤケドで皮膚が、ぶらさがった腕を見せました。救急箱の薬のありったけを、ぬってやるやら、次から次と、大変であります。(正田篠枝『耳鳴り』平凡社1962)
原爆の熱線で火傷して皮膚がズルッと剥けて垂れ下がったという証言はよく聞くし、小説、漫画、「原爆の絵」、それに人形でも表現されている。その中で私にとって最も印象的だったのは、千田町にあった広島貯金支局で被爆した当時13歳の河内光子さんが、同じ町内の屋外で被爆した自分の父親について語った話だ。河内さんは松重美人さんが撮影した8月6日の御幸橋の写真にセーラー服の後ろ姿が写っている。そしてそのそばで頭と右腕がのぞいているのが父親の儀三郎さん。
お父さんと避難するために手首を引っ張った時のこと。
「お父さん逃げようわあああああ!!!!!!」
手首を持ったら肩の方から皮膚がずるりと全部剥けたんです。
「どしたんね!」
「お前が引っ張ったけえよ」
(中略)
「痛い?」
と聞くと
「聞くな!」
と言われました。(しの「戦争の記憶図書館」Webサイト「70seeds」2017.10.30)
こんな状態では家庭にある塗り薬などあっという間になくなったことだろう。そうなってはじめて、正田さんは自分の肩から血が吹き出ていることに気がついた。『耳鳴り』(平凡社1962)所収の「さんげ」には、一首歌が追加されている。
血まみれの 父がカッター 引きさきて わが肩の血を 止めむと結ぶ
晩年になって一人「原爆症」に苦しむ中、父親の優しさを思い出したのだろう。